「ねえ、キスしようよ」
昼と夜の境目、刹那を染めるマジックタイム。そんな茜差すトレーナー室で、トレーナーさんは私にそう言った。洋画でも滅多に見ないような、でたらめに綺麗なプラチナブロンド。ビロードのようなそれを空の朱色に透かして、逆光を後光みたいに背負いながらそう言った。白金の髪とは対照的な小麦色の肌を陰に染めて、青空よりも混じり気のないコバルトブルーの大きな瞳でそう言った。
その切れ長のまつ毛の端っこまで私の顔に向けられていて、その薄い唇が僅かに舌をはみ出させるのを見て。だから私はこの人が本気でそう言っているのだと、私を求めているのだと思ってしまった。
そんなわけないのに。
ファム・ファタアルの甘い誘いは、人を堕落と破滅に誘うものなのに。
※
私のトレーナーさんは、とても目立つ外見の人だ。腰まで伸びた白金色の髪の毛と、これまた日本人離れしたきらきらと青く輝く瞳。長いまつ毛の一本一本まで外人さんみたいなのに、肌の色だけは少し濃いくらいの黄色人種の色。だけどその普通さが、他の異常さを際立たせる。街を歩けば誰もが振り向くだろうな、私でもそう思うような女の人だ。
そして更に困ったところが、その性格。立ち振る舞い。何かあればすぐけらけらと笑うくせに、たまにその極めて整った顔に一切の感情を乗せずこちらを見つめてきたりする。目と髪を抜けば顔だけは日本人の顔をしているくせに、なんでもない時に私の指に指を絡めてくるような距離感は日本人のそれじゃない。ハーフだからだよ、でそれを全部済ませてしまうのも含めて、本当に困った人。まあ人をからかう趣味については、私セイウンスカイも人のことはとやかく言えないのだが。
「トレーナーさんって、とびきりモテそうですよね」
だから、そう聞いたのだ。たとえば私の隣を歩いてる時、周りの視線が気になるし。それなのに何かあったら私の前で子供みたいにはしゃぎ出すし。見た目が美人というだけじゃない。その振る舞いは一言で言えば、危うい。だからまあ、我ながら優しく心配してやったわけだ。悪い男に引っかかってないか、と。そんなふうに気を回してやったのに、トレーナーさんの返答はこうだった。
「残念ながら、そんなにモテてはないよ。なんせ中高大は女子だけで、だから相手も女子だけだもん」
そんなふうに言って、またあどけない笑みで綺麗な顔をくしゃくしゃにして。その発言が既に異常だと、恋の一つも知らない私は心底怖くなったものだ。だってその言い方は、複数の女性とそういう関係になったという意味以外にあり得ないから。トレーナーさんにそういう趣味があったとは、流石の私もびっくりだった。そんなふうに驚きを隠せないでいると、蜘蛛糸みたいな髪の毛を揺らしながらあなたは言う。こんなの別に普通だよ、と。
「スカイも恋をしてみればわかるよ、きっと」
「女の子を取っ替え引っ替えしてた人間に恋の素晴らしさを説かれても、上滑りしてよく聞こえますね」
「あっひどい、私はちゃんと好きな人としかしないよ、キスだって」
「はあ、それって結局誰でも好きになるってことじゃないですか」
「そんなことないよ、特別な人とだけ」
「じゃあ今まで何人」
「……それはノーコメントで」
そんな会話を続けるうちにも、何故だかこの人は当たり前のように距離を詰めてくる。身につけた薄い香水のにおい、少し胸元のきつそうなスーツのにおい。そんなあなたのにおいが、私の鼻腔を責めてくる。多分こうして人を狂わせてきたんだろうな、と思った。
そして、そのままトレーナー室で二人きりの時間を過ごした。別にトレーナーさんがそういう気があると知っても、不思議と私の態度は変わらなかった。風にたなびくプラチナブロンドの髪がどれだけ綺麗だと思っても、なんでもない会話の途中で不意に軽く抱きつかれても。その柔らかい身体の一番柔らかい膨らみを押し付けられても、不思議と至って平静でいられた。
だからもしかしたら、業を煮やしたのかもしれない。あるいは単にいつものように、私をからかいたかったのかもしれない。
けれどどちらにせよ、トレーナーさんは極めて唐突にその言葉を切りだした。夕暮れ深まる狭間の時間、華やかにはにかむ白金の君。
「ねえ、キスしようよ」
そうして私は、トレーナーさんを見つめた。
深く、甘く、底の底まで。
「好きな人とだけって、聞きましたけど」
「スカイのことは好きだよ? 私の大切な人」
「キスは多分、恋人じゃなきゃしちゃいけないと思いますけど」
「もう、こういう時だけ固いんだから」
そう言ってまた子供のようにくすくすと笑って、そのままゆっくりとにじり寄ってくる。私が寝転んでいたソファに、そこにある私の唇に。距離が限りなくゼロに近くなるまで、そのまま顔を近づけてくる。そうして私は、直感する。
逃げられないこと。拒めないこと。ファム・ファタアルの囁きを、受け入れてしまっていること。
そうして、まもなく。見方によれば、あっさりと。
私の初めてのキスは、トレーナーさんに奪われた。本当に檸檬の味なのかなんて、そんな拙い知識の正誤はさっぱりわからないまま。恋も知らない初心の小娘は、そうやって魔性に魅入られていく。
「んっ……ちゅっ……跳ね除け、ないんだ」
「ぷはっ……はあっ……嫌じゃ、ないですから」
あっという間に、何度も重ねた。啄むようなキス。ちゅっ、ちゅっと、わざとらしさもある音の鳴る小鳥のキス。けれどその実態は唇を貪り合う、情欲に塗れた淫靡なやり取り。相手を求め、求め返されることに悦びを感じる。ちゅっ、ちゅっ。いたずらを仕掛け合うような、甘い、甘いキスの音。どちらかが拒めば簡単に終わるのに、どちらからも求めてしまう。好きな相手としかやらない、特別なこと。それを私はしていた。本当にただのいたずらみたいに、あなたに初めてを奪われた。
ちゅっ、ちゅっ。そんな強引な始まりを迎えた口付けなのに、あなたが仕掛けたそれは互いに求め合う形だった。きっとそれが好きなのだろう。愛して愛されるのが好きなのだろう。誰とでも、そうしてきたのだろう。そうわかっているのに、求め返すのを止められなかった。小鳥のキス。愛し合うキス。初めてのキス。どれも、私の知らないもの。小一時間そうやって、リップノイズだけが虚なトレーナー室に響き渡っていた。そしてそれがもう少し進展するのには、あなたが次を求めてくるのには。
そして私がそれに応えてしまうまでには、それほど時間はかからなかった。
「んっ……ねえ、スカイ」
「ふぅ……なんですか、今度は」
「もうちょっとだけ、させて」
今度は、有無を言わさなかった。強引に、その薄い唇を強く押し付けられる。唇と唇、先ほどまでの先端を貪りあうものとは違うキス。口紅の味がして、舌が触れたことに気づいた。強く強く他人の味がして、多分これは深い関係でないとしないようなものなのだろうなと思った。歯と歯がかちりと音を立ててぶつかる。驚いて舌を引っ込める。唇の裏と唇の裏が、厚さの違う自分ではない人の剥き出しの身体が、私の奥まで触れてくる。先ほどまでとは違って、ほとんど音はしていなくて。だけどその分丁寧に、丁寧に全てを貪り尽くされている気がして。どこまでも、絡め取られていた。
「……ふぅ。ごちそうさま」
「本当にやらしいですね、トレーナーさん」
「好きな人とだけだよ」
「相手の気持ちは」
「嫌だった?」
「……嫌じゃない、ですけど」
そうやって、全てを終えた顔をするトレーナーさん。照れの一つも浮かべずに、最後まで手玉に取って。ああそうですねトレーナーさん、それならあなたの勝ちになりますね。私を指先で転がして持ち上げて、舌先に乗せて遊んでいる。そんな敏感な場所を曝け出しても、あなたならちっとも嫌じゃないって感じで。そんなアンバランスを孕んだ魔性が、私を引き摺り込んだ。
いい気になっているのだろう。己の危うさを長剣のように人に傷をつけることに使って、そのくせつける傷はきっと真摯に愛してしまう。そんな己の在り様を、きっと存分に肯定しているのだろう。これが私なのだと、きっとそうやって振る舞うことに悦楽を覚えているのだろう。
でも。あなたが、そのつもりでも。
私はもう、本気になっちゃったよ。
「ちょっと、スカイ!?」
がたん、と床に倒れ込む。私の上に覆いかぶさっていたあなたを跳ね除けて、バランスを崩して倒れ込ませる。強引に、けれど優しく。無理矢理だけど、あなたの望みを引き出すような。そうしてできた一瞬の戸惑いの隙に、私とあなたの立ち位置は逆転していた。
冷たく冷えたリノリウムの床、その上に乗せられた人肌のぬくもり。そんな哀れにもがこうとするあなたの上に、しなだれかかるように体重を乗せてやる。軽くてきっとまだ瑞々しい、恋を知ったばかりの少女の肢体を。
丸くて柔らかくて甘いにおいのする、トレーナーさんの身体ともつれるように一つになって。スーツの下のタイトスカートからはだけたその生の脚に、私の裸足を絡め合わせて。両の指がその丸みを帯びた背中の裏で合わさるくらい、強く強くあなたのことを抱き締めて。私とそれほど背丈は変わらない、むしろ耳の分だけ私の方が背が高い。そんなちっぽけな身体だったのだと、抱き締めながら密着して気づいた。
その柔らかい身体が、また私を包もうとするけれど。彼女の女性らしい膨らみもすらりと長くて柔らかい二の腕も全て、その包容力を発揮しない。今は逆に、私があなたを包んでいた。がっちりと、あっさりと。ウマ娘と成人女性の膂力の差が歴戦としていることなんて、小学生でも知っている。
あなたはもう、逃げられない。
「トレーナーさんが、いけないんですよ」
床に散らばる白金の髪。宝石の糸みたいに見えて、今までで一番素敵だ。もう少しで私の眼とぶつかってしまいそうな、サファイアみたいな青の瞳。肉感的な色合いな肌とは酷くアンバランスで、どうしようもなく劣情を煽る。どれもこれも、一寸前より数段魅力的に見える。理由は簡単、理屈も簡単。けれど、今一番欲しいのは。だからこそ、今あなたに求めるのは。
「だめっ……んっ……それ、はっ……」
「そんなこと言って、抵抗しないじゃないですか。……はむっ」
あなたの唇。そして、その先だ。
私は、あなたを虜にしたい。世界の中心にいると思い込んでいる女郎蜘蛛の、驚きに満ちた顔が見たい。それだけだ。今まで見たことのないあなたが見たい、恋を知った私が願うのはそんなこと。
情緒のないキスなら深く想われないだろうなんて、あなたはきっとそんなことを考えていたのだろう。けれど私はこうやって、あなたという存在を愛おしみ求める。なら今度は、おかしいのは私かもしれない。あなたの深く深くを暴き立てたいと、全てを手のひらに乗せたいと。そんなふうに思うほうが、きっと歪でおかしいのだろうけど。
まあ、お互い様だ。唇をこちらから重ね合わせる瞬間、あなたもやはり拒まなかった。
「れろっ……ぇぉ……ぷはぁ……んちゅっ……」
「あむっ……んっ……ちゅぷっ……ぁぅ……」
ぴちゃり、くちゅり。今までで一番淫らな水音。背徳的で、退廃的で。深い、深いキスの味。固い固い歯の門をこじ開けて、その奥にあるあなただけのプライベートゾーンに侵入する。そしてそんな冒涜的な舌先は、あなたの舌との触れ合いさえを求めていく。味覚を司る、人の身体で一番敏感な場所の一つ。そこに閉じ込められた神経は鋭敏で、ひとつ撫ぜてやるだけで腕の中の身体がぴくりと跳ねた。唾液で粘ついた舌が絡み合うたび、ぴちゃり、くちゅりとまた水の音が鳴る。
きっと、今までで一番いけないこと。こんなふうにしているなんて誰にも言えない、甘い、甘い罪の味。けれど一番、幸せだ。私はあなたを好いてしまった。ならば私も、あなたを好いてみさせよう。これまでで、一番。誰よりも、一番。私なしでは、生きられないくらい。
「……んっ……ちゅっ……まだ出来ますよね、慣れてるんだから」
「はあっ……はっ……こんなところまでなんて、滅多に……んむっ」
そんな思いを込めて、また唇を貪る。強引にその言葉を塞いで、それを発するはずだった喉の奥までちろちろと蹂躙する。「滅多に」、だなんて。この期に及んで、他のひとのことを思い起こさせるなんて。多分これは嫉妬、呆れ、そして独占欲。どうやらまだ、躾が足りないようだ。
上顎の下をつーっと舌でなぞる。再び跳ねる身体を抱き締めて押さえつける。上顎の下を逃げ回る細長い舌を無理矢理絡めとる。また、水音がする。こんな狭い場所じゃ、どこまで行っても逃れられない。必死に力を逃そうとする腕の先まで、指の一本一本まで絡め取って離さない。
ほら、これもあなたがいつもやっていることでしょう? この口付けだって、あなたが始めたことでしょう? それなのになんで、そんなに悶えて。私なんかよりずっと慣れているくせに、すっかり受け入れてしまったくせに。それなのにどうして、あなたの身体はぴくぴくと反応しちゃってるんですか?
ああ、でも聞けないし、答えられないか。唇は互いの唇で繋がっている。言葉は紡げないし、きっと要らない。貪り合う事実だけで、互いの愛は確かめられる。だって、キスとはそういうものだから。あなたが私に、そう教えたのだから。
責任、取ってくださいね──?
「んっ……ぷっ……どうですか、トレーナーさん」
そうして一時間ほど、互いの唾液を互いに吸い尽くすまで唇を重ねていた。秘め事を終えた私は顔をわずかに離し、あなたに向けてくすりと微笑む。返答はなく情けなくパクパクと口を動かされるだけだったけど、先程の意趣返しができているのはあなたの顔を見ればこれ以上ないくらいに分かった。
りんごみたいに赤く染まった頬、絶え間なく息を切らせる荒れた肩。掻き乱されたプラチナブロンド、それの張り付いた小麦色の肌。上気して荒れた息遣い、そしてこちらを見遣るコバルトブルーの瞳に込められた色彩。
やっぱり現実離れしたような美人だったけど、そこに纏う雰囲気はいつもの捉えどころのないものとはまるっきり変わっていた。私が、変えてしまったのだ。
マジックタイムが終わった部屋、夜の熱気がこもった空間。だけど魔法は終わらないし、ここにある熱気もむしろ心地いい。少なくとも私はそう思っているし、あなたもそうだったらいいなと思う。
そうでなければ、許さない。私をこんなふうにしたのは、あなた以外にあり得ないのだから。そう思うように変えたのはあなたなのだから、あなたには同じことを想う責任があるのだ。互いを求めるとはそういうこと。恋人とはそういうこと。
だって私は、あなたに恋をさせられたのだから。
そして少し眼を逸らそうとするあなたの顔を、横からするりと覗き込んで。その潤んだ眼と自らの眼を重ね合わせた瞬間、私は確信する。確信すると同時に、理解する。
ああ、この人は私の虜なのだと。
私もまた、魔性のファム・ファタアルだったのだと。
迫り来る夜に舌なめずりをしながら、そう思ってしまったのだ。