暑い。眠れない。そんな夏の深夜というものは、私にとっての大ピンチ。おまけに今日は雨も降っている。ざあざあ、ざあざあと見えない窓の外から水の鳴く音が聞こえる。というわけで、私はかなり暇している。そんなに気分の良くない夜を、一人寂しく過ごしている。
そして夜中だからみんな寝静まっていて、たとえば当然トレーナーさんも寝静まっている。それが深夜一時ちょっと過ぎの今。手早く眠れた人だけが雨にも気づかずぐっすりできて、明日の朝になれば雨は止んでいる。その間に起きてた人の苦労なんて知りもしない。それはちょっと嫌だと思ったのが、数少ない娯楽たる睡眠を暑さと雨音に奪われた私ことセイウンスカイの、我ながら可愛らしい悪戯の発端だ。
ぷるるるる、ぷるるるる。私のスマホのスピーカーから小さく震え出す、電話をかける音。ブルーライト混じりの画面表示は、私の目にトレーナーさんの電話番号を表示している。最近ようやく聞き出せた、トレーナーさんの私用ケータイの電話番号だ。これなら今はトレーナー寮でぐーすか寝ているだろうあなたにも届く。そういう心算だ。
(出て、くれるかな)
ぷるるるる、ぷるるるる。少しだけ、胸が苦しくなる。あるいは高鳴り、どきどきする。理由は至極真っ当で、なんせこんな時間に叩き起こすような電話をかけるのだから、こっぴどく怒られてもおかしくない。多分、そういう緊張。そういうことにしておこう。だけどそれでも、スマホを握る手はじっと動かないまま。これまた緊張で、少し汗が滲んでいる。いやあ、怒られるのは怖いですねえ。
(長い、な……)
ぷるるるる、ぷるるるる。まあ結局、私が電話をダメ元でトレーナーさんにかけているのは、別にただただ起こしたいわけじゃない。寝ぼけ眼のトレーナーさんに私の声を届けられたなら、普段は聞けないような返事を聞けるんじゃないか、って。天使の声と勘違いして、素直な言葉を返してくれるんじゃないか、って。まあ、そんな感じだ。
だからここにあるのは、ダメ元だけど、確かな期待を未知のあなたに寄せる気持ち。あるいはその可能性が低いからこそ、そこに奇跡を錯覚したい乙女心。私がのんびりあなたが電話を取るのを待てるのは、それくらいの理由。それくらいあれば十分は待てる。もう少し待たせるのなら、別のご褒美が欲しいけど。
ぷるるるる、ぷるるるる。さあ、この先にはどんなあなたが待っているのだろう。やがて雨音は遠くなり、暑さもふわふわ雲に浮かぶ。液晶に表示されるなんの感情もない11桁の数字だけが、私の身体をぽかぽかと暖める。まったくこんなに暑いのに、トレーナーさんのせいでこうなってしまった。
そして。そして、待ってみればあっという間に。
「00:01」
「通話中」
世界が変わる一秒目、それが始まった合図が画面に写った。さあ、なんと言おうか。なんと言えば、私はあなたを望み通りに動かせるだろうか。そんな企てを進めるより先に、仕掛けてきたのはあちらからだった。手汗でじんわり濡れたスマホから、聞き馴染みのある声が聞こえる。
「……おー、おはよーう」
……様子がおかしい。そもそもこんな時間に電話をかけられて、「おはよう」とはどういうことだ。寝ぼけているということか、それとも。他にも異変はあって、たとえば声が少し高いような気がするし、何より調子が変な感じがする。聞いたことがあるけど、聞いたことのない声。初めて聞くかたちをした、あなたの声。
……まあ、そんな所に浸るのは要らなくて、それよりも私は第一声でこの状況を看破してやらねばならない。そうしなければ優位に立てないし、優位に立たなければ悪戯の意味がない。というわけで私はトレーナーさんの現状について、拙い推理を並べていく。調子が違うとはいえ、電話には出てくれた。私からの電話だから起きたのか、元々起きていたのか。前者ならちょっぴり嬉しいけれど、後者の可能性にも当たるべきだろう。つまりトレーナーさんが起きていた理由がある、というパターンだ。こんな時間まで一人寂しく、独身男性が起きている理由。可愛い教え子からの電話を、罠とも知らず迂闊に取った理由。
……こう言ってると、なんだか自分がとんでもなく悪いことをしているような気がしてしまうのだけど、それはともかく。そんなガードの甘い、普段とは少し違うトレーナーさんが今電話の先にいる理由。そんな理由について、この僅かな時間で私は一つの答えを弾き出した。当たる可能性はそこそこで、間違っていたらそれはその時。仕掛けが一つ外れたくらいで、おしまいになる関係でもないだろうし。少なくとも私は、あなたのことをそう思っているし。
というわけで私は、画面の向こうに指を突き立て、一つの仮定をあなたにぶつけた。
「酔ってます? トレーナーさん」
「……あー、少しな」
当たりだ。心の中でガッツポーズ。仕掛けにかかった魚を見ているような気分だ。トレーナーさんはどうやらひどく酔っ払っている。だから起きていて、だから変な感じだ。それにしてもそんな、やけ酒するような人だったのか? いや、やけ酒と決まったわけではないのだけど、もしそうなら今後の付き合い方は考える必要があるのかも。家に帰ってから何かむしゃくしゃすることでもあったのだろうか? 今日のトレーニング中はいたっていつもの真面目なトレーナーさんだった気がするが。
まあそれくらいのことなら、素直に直接聞いてみればいいのだけど。たとえばあなたに悩みがあってこんな体たらくに陥っているのなら、この際その原因まで聞き出してみればいい。そうすれば私は、それを弱味としてシラフのあなた相手に握ってやったり、もしくは出来るだけ、あなたのその悩みを取り払えるよう寄り添おうとするだろう。
そのどちらか、確率は半々、さながらコインの裏表のごとく。……どちらにせよ本質は変わらないことも含めて、コインの裏表に等しい、なんてね。
「なんでこんなに酔っぱらっちゃってるんですか、トレーナーさん。悩み事があるなら、セイちゃん聞いてあげますよ?」
「そうかー。いやー大したことではないんだが、なんだかなあ」
電話口の相手は知っている声だけど、知らない人のようだった。ひょっとして私からの電話だということにすら気づいていないんじゃないだろうか。そんな想像が現実味を帯びてくるほどに、あなたは私に知らない顔を見せてくれていた。
きっと熱を帯びたあなたの顔。きっと見たことのないあなたの表情。それがどんなものかここまで近づいても少しもわからないのは、ほんのちょっとだけ悲しいことなのかもしれない。知らない顔を見ることはできているけれど、全てを見ることは叶わない。それは悲しいことなのに、何故だか私の心は心地よい熱に満たされていて。満ち足りて、いて。
そんな私のセンチメンタルな気持ちなどさっぱり関係なく、酔っぱらいと化したトレーナーさんはこちらに向けて話しかけてくるのだが。ますます持ってこちらを私だと認識していないんじゃないか、そう思ってしまうような突拍子もない問い。
「なー、キミは恋愛したことあるかい」
いよいよ口調が怪しくなってきた。それにしても、恋愛。恋愛かあ。こんなのシラフじゃ絶対聞かれないな、などと思いつつ、真面目にそれに向き合う私がいた。なんといっても我が担当トレーナーからの問いなのだから、きちんと答えなければいけない、などとは多分微塵も思っていないのだが。だからきっとこれについて考えるのは、ミリグラムの好奇心によるものなのだろう。
たとえばの話、あくまでたとえばの話として聞いてほしいのだが、私が誰かのことを好きになる、つまり恋愛感情を持ったとして、その対象がトレーナーさんであることは常識的にありえない。たとえトレーナーさんがいくら立派で身近な尊敬できる異性だとしても、ありえない。なぜならトレーナーさんは私のことを見守る大人であり、そんな存在に教え子の立場で邪な感情を持つのはいわば信頼関係を壊す行為である。倫理的に問題のある行為である。だから、それはありえない。
だからまあ、私はトレーナーさんのことを好きではない。当然の帰結である。けれど他に仲の良い男の人はじいちゃんくらいで、他は当たり前のように女の子の知り合いばかりである。私が男だったらほっておかないかもしれないような子はいるけれど、それは多分男だったらそもそも出会う機会がないような子ばかりなのだろう。トレセン学園とは、そういう場所。頼れる大人しか異性はいなくて、頼れる大人は異性として見てはいけない。そういうふうに、決まっている場所。
「うーん。なかなか縁がありませんねえ、おかげさまで」
そう返す私の声は、やっぱりどこかに幼さを残しているのだろうと思った。トレーナーさんがいるうちは、私はまだまだ幼年期。信頼する大人のそばで、蝶よ花よと愛でられて、真実の愛とやらはまだ触れる権利すら与えられていないのだ。そういう暗黙のルールだし、私もそれに従っている。そこに不満はない、それも当然の話。
「そうかあ、スカイはいいお嫁さんになるぞお」
「ふふっ、なんですかそれ」
立ち位置のまるでわからないトレーナーさんの言葉に、思わず笑みが溢れる。それは親か何かの台詞だろうに、と。その笑みは苦笑か失笑か、はたまた。トレーナーさんは未だよくわからない距離感で、やっぱり酔っ払っているだけじゃなくて寝ぼけているのかも。だとしたらさっさと会話を進めて終わらせて、大人しくすやすや寝させてあげようか。そうするのが気遣いというものなのだろうけど、何故だかそんな気分にはならなかった。
単なる好奇心で、たとえば教師の交友関係を生徒が探るが如し。そんな質問を、あなたの微睡む瞳にぶつけられたら。サウンドオンリーの境界の前では、あなたの視界を横切ることすら叶わないのだけど。
けれど、それでも私は問いかける。単なる好奇心から、あるいは少しあなたを攻め立てたい気持ちで。策士の策は、第二段階に移行する。
「トレーナーさんは、そういう人。いないんですか?」
「俺かあ。俺はなあ、今で十分幸せだよお」
できるだけあっさりと聞いてみた質問には、なんだか素っ頓狂な答えが返ってきた。泣きが入っているようにも聞こえた。そんなつもりはなかったのだが、トレーナーさんは何かに感動しているらしい。そんなことよりちゃんと質問に答えるべきじゃないか、まったく。ここで「彼女と飲んでる」と言われたら、すぐに電話を切るくらいの配慮はするのに。そんな存在のことなど、気配すら感じさせてはくれなかった。
そして感極まったトレーナーさんは、そのままなだれ込むように言葉を繋げて。
「世界一のウマ娘に出会えたからな。それ以外は要らないよ」
ちょっと真面目そうな口ぶりで、そんなバカげた台詞を吐いてくる。世界一のウマ娘、って、なんだか今日のトレーナーさんはじいちゃんみたいだ。いや、じいちゃんでももう少し厳しかったぞ。指導者がそんな甘々でいいのか、トレーナーさんや。
などと茶化してやらないとまともに受け止められないような、本当にバカげたセリフだった。世界一、かあ。お酒は人の本性を暴き出すというが、そんなふうに思われていたのが本性なのだろうか。そりゃもちろん悪い気はしないけど、耳の奥までくすぐったくてたまらない。責任を取ってほしいくらいだ……なんて、多分そんなことを今言えば本当に取られてしまいそうなのでやめておく。そこまでずるくはなれない私は、なんだかんだで真面目なのだ。
「へーえ、どの辺が世界一なんですか?」
というわけで、他人事を装う。多分本人の前では言わないことだから、そうやって聞いてやるのが一番だろう。素直に吐き出させるのが、きっと今の私の役目だから。
鳴っているはずの雨音が本当に遠い、不思議な夜だった。湿気た熱と私だけが、部屋の中で一人閉じ込められていた。そしてやっぱり気恥ずかしい直球の褒め台詞を、透明なガラスと色のない電波越しに聞いた。一本の電話だけが、外の世界と繋がっていた。
「そうだな、まず頭がいい。一見不真面目そうでいて、その実いつでもひたむきだ。真剣勝負との折り合いの付け方が上手いんだ。あいつなら、俺がいなくてもやっていけるだろうな」
その言葉尻に、少し沈黙してしまう。これ以上ないくらいに褒められているのに、そこだけでそんなことを言わないで欲しかったと思ってしまう。最後が、引っかかる。慌てるように、言葉を継ぎ足してしまう。
「トレーナーさん、何度も助けてくれたのに、そんなこと言わないでくださいよ」
「あいつは俺の憧れだ。まあトレーナーってのは、みんなウマ娘の輝きに魅せられた存在ではあるけどな。俺たちはトレーナーであるために、トレーナーだから、彼女たちの一番のファンであり続けるんだ」
熱に浮かされたようなその声は、初めて聞くあなたの憧れの話。トレーナーを目指した理由と、その答えを私に見たということ。そんなしどろもどろでわやくちゃな、普段のあなたなら抱えても私には言わないような言葉。それを、私の前で話していた。そうやって私に直接憧れを告げるのなら、その言葉はきっとこう分類される。
「俺にとってのそれはセイウンスカイ。だから俺は彼女のそばにいたい。けれどこれは俺のわがままで、スターってのは一人でも輝けるからスターなんだろうが」
告白、と。
とても嬉しそうに語るあなたが、ひどく寂しい。遠く遠くにあるからこそだと願うあなたが、ひどく眩しい。何も言えない。言葉に詰まった。それに、わかっていた。聞こえていようがいまいが、その言葉は誰の答えを求めるものでもなかっただろうから。
私たちウマ娘は、走るために生まれてきた。勝つために生まれてきた。そしてそれは当然のように、ウマ娘でない者たちの憧れになる。けれどその憧れは身体的種族的差から決して届かない溝に阻まれ、憧れは憧れのまま終わる。
だからこそ、あなたが秘めていたものなのに。それなのに、今のあなたは白を告げていた。きっと正常な判断じゃない、だからこそ正直なのだとわかってしまうような、雲のような白。それを、私に告げていた。私に、告白していた。
「でももしずっといてくれって頼まれたら、いてしまうんだろうなあ。枷にしかならないものに信頼を寄せられていること、少し罪悪感がないわけじゃないよ」
そんなことを、ずっと思っていたのだろうか。あの日もあの日もずっと、焦がれて焼かれそうな痛みを背負っていたのだろうか。酒の席の冗談だと言ってくれないだろうか、そんなふうに一寸考えた後に自分を恥じる。吐き出したい苦しみが誰にでもあって然るべきで、それを封じ込めたいなどと望んではいけない。今の私は、図らずも彼を癒してあげられているのだから。悩みは誰しも持つもので、だから私もあなたも人間なのだ。
そう、人間だ。同じように苦しむ心を持っているのだから、私たちは同じ人間だ。それはきっとトレーナーさんもわかっていて、だからこそ普段はその憧れを口にしない。もしそれを口にすればそのまま私の悩みになるのだと、大人のあなたは人を慮ることができるから。
だけど、今の私はあなたの悩みを聞いてしまったのだから。それなら、私がやるべきことは。
「……トレーナーさん」
私が抱いていた感覚と、あなたの抱いていた感覚、その二つを擦り合わせて、同じものにしてやることだ。私の感覚。あなたと私はトレーナーと担当ウマ娘の関係、だから私はあなたを信頼する。その図式は少しあなたのものとは違っていた。あなたの感覚。私はあなたの憧れとして、ずっとあなたを引っ張ってきた、だからあなたは私に尽くそうとする。
そのどちらも正しくて、ならばどちらも尊重したい。そう思った私から、出せる答えは一つだけだ。
「私は、トレーナーさんじゃなきゃいやです」
私は、あなたと一緒がいい。
「トレーナーさんだから、ここまで来れました。今だから、こっそり本音を言います。これでおあいこです。……あなたはすぐに忘れてしまうだろうけど」
あなたは私に憧れ、だから私に道を示す。そして示された道をあなたに見せることで、私はあなたに夢を届ける。互いが互いを認め合い、互いが互いを導にする。それがきっと、私とあなたの繋がり。この電話一本の繋がりが全ての世界を変えてしまうのは、それまでの繋がりがあってこそだ。
そう、それならば。私はようやく、私に気づく。
「今気づいたことなのか、ずっと思ってたことなのか、あんまりわかってないんですけど。……いいですか?」
「……いいぞ」
そんな時だけ真面目な声で返されたら、ちょっと躊躇ってしまうかも。まあでも、ここまで来たら。あなたが私に秘めた気持ちを告白したのなら、私の方からもあなたに告白しなければならないことがある。憧れだろうか、罪だろうか、それとも。
「私、トレーナーさんのことが好きなのかも」
恋だろうか、愛だろうか。夏の暑さを込めた息が、閉じ込めていた気持ちと共に一斉に口から飛び出ていく。澄んだ空のように、清々しい気持ちだった。
トレーナーさんのことが、好き。そんなことはありえない。私を見守る大人に対して、そんな感情を持つことはあってはならない。そう考えていたから、そう考えなかったけど。もしかしたら、そう考えていなかっただけで、ずっと感じていたことなのかもしれない。夜中に電話をかけたいと思うほどに、ずっと。今目覚めたばかりの気持ちが、生まれたままの姿で口から飛び出ていった。
「なんかこう、なんですかねえ。そんなすごい意味じゃなくて、純粋に。ほんとはまだわからないのかもしれません。私はなんやかんやで子供ですから」
恋には満たない。愛には足りない。でも、あなたのことが好きだから。きっとその感情は名付けられなくて、名付ける意味のないものだ。
私はこの気持ちを、このままあなたに伝えたい。拙いまま、他の誰にも見せられないまま、あなただけに想う感情のままでいたい。愛や恋にもしたくないなんて、わがままが過ぎるかもしれないけど。
けれどきっと、大丈夫。そう思えるほどに、口から言葉が溢れてくる。名付けられない感情なら、余すところなく語り尽くせばいいのだ。それができないというのなら、できるまでずっと一緒にいればいい。あなたは私の好きな人で、私はあなたの憧れなのだから。
「トレーナーさんは大人だけど弱いところもあって、私はそれを当たり前と思いたい。あなたの全てが知りたい……というとやっぱり大袈裟かもしれません。でも、だいたいそういうことかな」
「言って、よかったのか」
そう言われると、確かに返答には困る。もっと段階や情緒を踏んでしかるべき、なのかもしれない。でも、今はこれでいい。今だけ伝えられることなのだから、今はきっと、これでいい。
「……今だけの、秘密ですよ? だから、自分に代わりがいると思っても、それを否定できなくても。私のそばにいてくださいな、トレーナーさん」
「……ありがとう」
もしかすると、私がべらべら喋っているうちにトレーナーさんの酔いが覚めてしまったかもしれない。雰囲気に酔っているのは私の方かもしれない。酔った勢いで言うことなど、信用しないほうがいいのかもしれない。それはあなたの言葉もそうで、私のこれもそうなのかもしれない。けれど、私にはわかるんだ。この気持ちは嘘じゃないし、誇張でもない。今初めて気付いた本当の気持ち。
胸に、初めて秘めたもの。
「いいなあ、トレーナーって仕事は」
唐突に、あなたが口を開く。先程までの口調と似ていたけれど、少しだけ落ち着いたような口調で、紛れもなく私に向けて、言葉を投げかけていた。私があなたを直視したから、あなたも私を見ていてくれる、ということかもしれない。
「こんなに近くに、夢と希望を見ていられるんだから」
「それはどうも。でも、少しだけ違います。もう一度、言いますね?」
夢と希望。それを叶えるのがウマ娘で、それを支えるのがトレーナーだ。私たちは二人三脚、決して脚は欠けてはならない。それは、トレーナーさんの言う通り。だけど私の結論は、あなたより先に至っているのだ。大人と子供の関係を超えた、幼年期のその先へ。
「私は、あなたが。あなたのことが好きなんです。そこにもう、立場やらなんやらは関係ありませんったら」
かーっと、顔が熱くなる。多分耳まで赤くて、ぴこぴこ忙しなく動いている。勢い任せで言ってしまったが、ひょっとしたらとてつもなく恥ずかしいことを口走っているのかも。ここまで言ってそう思っても、多分手遅れなのにね。でも、本心とはそういうものだ。なかなか言えない、だけど常に抱えているもの。お互いに本心を曝け出す、駆け引きのない場所でなくてはこんなこと言えない。そして言える時は、きっと必ず言ったほうがいいものだ。
本心というものは、信じてるとか、触れたいとか、そばにいたいとか、色んな感情がごちゃ混ぜになって、複雑怪奇な形を取る。優雅で可憐でも、歪で不器用でも、その本質は変わらない。取り出すのは難しくて、取り出してしまえばしまうのも難しい。
「……おーい、聞こえてますかー? まあ聞こえてないなら、それはそれで好都合だけど」
「そういうことなら、俺もスカイが好きだよ。ずっとずっと、デビュー前からの一目惚れだ」
「……もう、ばか」
恋や愛には届かない感情。けれど、恋や愛では語り尽くせない感情。その架け橋が二人の間に繋がっている。今までは毎日距離を置いていたけれど、互いの方から近づいていけば、きっとすぐにゼロ地点で手を繋げるだろう。今日がその日だ。
「1:06:47」
「通話終了」
一時間と少し。それだけあれば雨が止むように、世界もすぐに変わるのだ。そしてそれはこれまでの積み重ねがあるから。私たちがいつも悩みを抱えていたからこそ、それをこの瞬間に言葉にできた。生まれたばかりの気持ちでも、育んでいたのは今までずっと。だから、大切だとわかるんだ。だから今、こんなに幸せなんだ。
窓の外を見れば、黒い青空が星を包んでいた。たまらなく胸はざわついているのに、今からならぐっすり寝れそうな、そんな気がした。
※
「おはようございます、トレーナーさん。……おやおや、頭を押さえてどうしたんですか」
「昨日は飲みすぎたみたいでな……記憶すら曖昧だ。……おっとこれは秘密だ。誰にも言わないでくれ」
「昼寝一回で手を打ちましょう」
「仕方ないな」
「……ところで、やけ酒ですか」
「違うよ」
「じゃあなんですか」
「いいだろ別に」
「むー、けち」
「……スカイ、なんか変じゃないか?」
「そんなことないですよ、二日酔いのトレーナーさんよりはよっぽどいつものセイちゃんです」
朝、いつものようにトレーナーさんと挨拶を交わす。あなたは案の定何も覚えてないみたいで、本気で頭が痛そうなその姿を問い詰める気にもならなかった。そういや飲んだくれの理由も聞いてなかったなと思ったのだが、すっかり普段の調子で聞かせてはくれなかった。
はあ、と心の中でため息を吐く。やれやれ、当分は私の方から近づいていくしかなさそうだ。
「……じゃあほら、はい」
「どういうことだ」
「一緒に寝ましょう? 寝れてなさそうですし」
とんとん、と手のひらで軽くソファのスペースを叩いてやる。私はもう座っている。それにしても、自分から誘いに乗っていくなんて、ガラじゃないのだけど。私の弱音を叩き直すのがあなたの仕事だったのに。
「……ありがとう」
あなたの弱さも知ったから、仕方ない。今日は私がリードする番だ。そう思って、あなたの手を取った。眠気の篭った熱を帯びた、優しくて大きな手のひらだった。
「……スカイはいいお嫁さんになるなあ」
まだ酔っ払っているのだろうか。そう思って横に転がる顔を覗くと、トレーナーさんは既に寝言に入っていたようだ。じーっと、その顔を眺める。目をつぶって、少し口が空いていて。そんなどこにでもあるけど、今までは見せてくれなかった弱い顔。そんな顔を、私に見せてくれていた。だから私が悪戯をしたくなるのも、自然の摂理のようなものだ。
「……んっ……はあ。初めてってやつですねえ……。責任とってもらわなきゃなあ、トレーナーさん?」
これはご褒美。あなたへの、あるいは私への。
いつか素顔のあなたに、この気持ちを届けられますように。