いよいよマンハッタンカフェのメイクデビュー当日だ。彼女が待ち望んでいたレースへと、ついに連れてくることができた。
「さて……ようやくですね」
マンハッタンカフェは控え室でコーヒーを嗜んでいた。淹れたてで湯気が出ているそれを苦もなく飲んでいる。ごく、ごく。コーヒーとはそんなに勢いをつけて飲むものだっただろうか? 黒い湖面に柔らかい唇を沈め、腕を持ち上げて少しカップをあおる。黒い髪と対照的に白い喉が、流れ込む液体の熱さにも構わず蠕動する。彼女はその熱さすら楽しんでいるようで、少し脂汗が浮かぶ。黄金色に輝く眼をゆっくりと閉じて、艶やかな睫毛が顔を覆う。喉がごきゅり、ごきゅりと音を立てて、彼女は一気にコーヒーを飲み干した。カップをテーブルに置き、こちらに向き直る。水分を含んで黒い彩を湛えた上唇だけが、残滓のように残っていた。
「……? どうしましたか、トレーナーさん」
……見惚れてしまった。
「ああいや、よく飲むなと思って」
「……私の飲みっぷりはそんなに関心高いものでしたか……? ふふっ、おかしなトレーナーさんですね」
彼女は少し、くすりと。……緊張が解けたのなら何よりと思おう。
「さあ、カフェ。頑張ってこい」
初戦。だけど彼女は微塵も油断など見せず。あるのは強者たらんという欲求。
「ええ……お任せを。血に飢えた猟犬のように、レースを制してみせましょう─────」
ゆっくりと、彼女はパドックへ向かう。狩りが始まるのだ。
血が沸るという表現では足りない。私の全身は何処を切っても噴水のように鮮血が溢れそうなほど。それほどまでに、血が疼く。けれどまだ足りない。レースは一人で走るものではない。同じように熱狂の中にあるウマ娘達を差し切る。喉笛に食らいつき、血祭りに上げるように。そうしてこの黒い身体を紅く血に染めてこそ、楽園への道は開かれるのだ。
「……あの、マンハッタンカフェさん!」
「……?」
声のする方を見れば、一人のウマ娘が。
「サイン、お願いできませんか!?」
「……ああ」
珍しいことではなかった。ターフの上で頼まれるのは初めてだったが。
「……レースの後でもよければ」
「……! ありがとうございます!」
そう言って彼女はゲートへ向かっていった。……ファンであろうと手加減するつもりはない。ここは狩場。闘技場。あるのは喰われるもの同士の喰い合い。それだけだ。
さて。平等に皆、血を喰らわせてもらおう。
ゲートに入り、開幕を待つ。ようやくだ。ゴールを目指して、ようやく駆動する。
「スタートしました!」
ぱん、という破裂音に合わせて、一斉に走り出す。後方に位置して全体を見渡す。終盤のスパートまでは、ゆっくりと獲物を見張るのだ。……あのウマ娘が先頭か。ちょうどいい。彼女をマークして最後に差す。そこに意識を向けて、身体を風に任せる。気持ちいい。空の青さと芝の緑。その間を吹き抜ける風は、心臓の鼓動を加速させるようだ。きっと皆、同じなのだろう。ターフを走る者は皆、命の輝きをあらんかぎりに響かせる。……そして。
「マンハッタンカフェ、ここで一気に抜け出す!」
その輝き全てを狩る。この私が。
「マンハッタンカフェ、差し切ってゴール!」
最高だ。久しぶりに、退屈しない。
恐ろしいと思った。テレビで見るのとは違うとか、そういう次元じゃない。走り切った時、ゴール板の奥でその顔を見た。嗤っていた。眼を細めて、口を歪ませて。舌なめずりをしたようにすら見えた。サインなんて、頼めなかった。
「……ふう」
「お疲れ様、カフェ」
「……いえ。……おっと、少し目眩が」
ふらふらと、マンハッタンカフェは脚を崩す。危ない! だから思わず駆け寄ったのだが。
がしり、と掴まれる。ふらついたはずの脚は俺の脚を絡めとり、しっかりと捕まえている。
「カフェ、何を……つっ!」
鋭い痛みが首元に走る。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。痛みの奥にある柔らかい感触。少し尖ったものがちくりと刺す。暖かく滑りを伴ったものが俺を舐めとる。……これは、血……!?
「……んっ……あむ……ぇぉ……っ」
マンハッタンカフェは、俺の肩に噛み付いていた。……それも、僅かに血が出るほどに。
「……ふぅ。トレーナーさんの味、ですね」
「……何を、急に……」
「ちゃんと吸いましたから、すぐに止まります。……絆創膏で隠したりなんて、やめてくださいね?」
確かにもう痛みは引いて、甘い痺れのようなものだけが残っているが。……カフェは一体何を考えて……。
「さて。ではライブの準備があるので。……次のレース、計画しておいてください」
そう言って、彼女はまた離れていく。でもその実力は本物だ。彼女なら、きっと求めている物を手に入れられる。それが何かはわからなくても、行くべき道はわかっているのだから。
楽園への道筋は胎動する。