ウマ娘の某所に載せた短編集   作:春華ゆが

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初期設定のマンハッタンカフェの弥生賞

 何も恐れることはなかった。君が見ていてくれるなら。何も違うことはなかった。君が見ていてくれるなら。私の舞台はどこにあっても変わらない。何個あっても変わらない。だから大丈夫。きっと楽園へ辿り着ける。

 君が見ていてくれるなら。

 そう、そのはずなのだ。だから、あり得ない。どこかで何かを盲目的に信じていたけど、信じていたものが何かわからない。それを暴いたら、取り返しがつかない気がする。だからわからない。わかることはただ一つ。

 

「アグネスタキオン一着! マンハッタンカフェは四着に終わりました!」

 

 その結果は、揺るがない。ドラマにやり直しはあっても、現実にやり直しはないのだから。

 

「うん、いいタイムだ。この調子だカフェ」

「……はい。すみません、最近撮影が忙しくて」

 

 弥生賞は着々と迫っている。それなのにレースのために割ける時間が限られてしまうのは心苦しい。君は全てを捧げてくれているというのに。

 

「いいんだよ、カフェにはカフェのやるべきことがあるんだから」

 

 やるべきこと。トレーナーさんはよくそのフレーズを使う。だから、私は何かを投げ出すわけにはいかない。

 

「まあ、正直なところ。次の相手はベストでも勝てるか分からない。だから……いや、そんなことを言ってはトレーナー失格だな」

「アグネスタキオン……ですか」

「そうだ」

 

 アグネスタキオン。未来の三冠確実とさえ言われるウマ娘。彼女の出走を受けて既に弥生賞は出走回避が続出し、私は数少ない出走者の一人となっている。

 

「……以前、トレーナー室に来たと言っていましたね」

「ああ。ライバルの視察だと言っていたな。その後会ったりしてないのか?」

「……いえ」

 

 アグネスタキオンを名乗るウマ娘が会いに来たという話はマネージャーからも聞いていない。私を見たいなら私に会いに来るはずなのに。それなら何故、彼女はトレーナー室に? ……まさか。

 

「……トレーナーさん」

「……? どうした、カフェ」

「……いえ」

 

 心に湧き上がる何かを言葉として処理できず、問いかけは中断される。

 

「よし、今日はこの辺にしよう。お疲れ様」

「……お疲れ様です」

 

 これが不安だとすれば、何に対する不安なのか。答えは導き出せず、ただ日数が過ぎる。

 

「……負けるわけにはいかない。君が命ずる通り、私は全てを喰らう」

 

 そう何度も、何日も。願うように口にする。ただ、君が見てくれるなら。それが私の祈りなのだから。

 

 わからない。意識をここまで巻き戻しても、この結果を認識できない。

 

「ふゥ……お疲れ様だね、カフェ」

「……そのように親しげに呼ばれるような覚えはありませんが、アグネスタキオン」

「それは申し訳ないね。……時に君」

「……なんでしょう。敗者に情けの言葉でもかけるのですか? それなら結構。私は──」

「これが情けだと取られてしまうなら申し訳ないが。……その調子じゃ春いっぱいは無理だね。休暇をトレーナーに嘆願した方がいいよ。……おっと、副業もあったかな。それもだ」

「……! なに、を」

 

 何を馬鹿な。何をわかっているというんだ。何を、なにを。言葉は空を切り、ただ己の身体を鑑みる。力は、明らかに入り切っていなかった。でも、私に休むなんて。

 

「助言の類ではなく、警告だよ。……走れなくなっては元も子もない、だろう? こういう目については一家言あるのさ」

「私には、トレーナーさんとの約束が」

 

 楽園へ行く。そのためには、一歩だって止まるわけには。

 

「……とにかく療養することだね。走れる刻は永遠ではないとしても、その時間を伸ばすことは重要だ」

 

 そう言ってアグネスタキオンは立ち去る。私はただ、それを見ているだけの黒子だった。

 

「……お疲れ様」

「……気休めは要りません。全力を出せなかったが故の結果です」

「そんなことは……!」

「……少し、一人にさせてもらえますか」

「……わかった」

 

 トレーナーさんを追い出して、控え室に一人。私は敗北を噛み締められなかった。私の牙は勝利のためにだけ生えていて、挫折を飲み下すようにできていなかった。

 

「うまくいかなかった。だから私のこの生活には、無理がある」

 

 そういうことだ。アスリートと女優の両立。そんなものは不可能なことで、まだ密室殺人の方がありふれている。

 

「……違う」

 

 違う。それが出来ないのは、己が無力だから。もっと、もっと。退屈を埋めるほどのワーカホリックが、私の見る世界には必要だ。それに身体が耐えきれないとしても、そんなの。

 

「……もしもし。休暇を取ります。よろしくお願いします。……何と噂を立てられようと、構いません」

 

 マネージャーへ休暇の連絡を入れる。文句を言われても構わない。どうせ事実だから。私が耐えられなかったのは、事実だから。

 

「……それでも、レースは」

 

 休みたくない。完全に休むべきだとしても、こちらは手を離したくない。全身の疲労は、数日分一気にのしかかってくる。でも。

 

「……皐月賞を、目指す」

 

 よろめいてしまうのは、今回の疲労のせい。まだ、私は喰らいつける。さあ、トレーナーさんに心配をかけた。何事もなかったかのように出ていかなければ。

 ……そこで、意識は途切れた。

 

「……これは、過労ですね。しばらく休ませた方がいい」

「……わかりました」

 

 こえがきこえる。あなたのやさしいこえ。

 

「……トレーナー失格だな、俺は」

 

 なかみはわからないけれど。あなたのこえは、あんしんする。……また、ねむくなってきた。

 

「……ごめんな、カフェ」

 

 そうだ。わたしもあやまることがあったのだ。

「タキオンとのレースのことばかりで、君の体調管理を忘れるなんて」

 

 まけてしまってごめんなさい。

 

「……次があるなんて思わないよ。お別れをしよう。君をレースに連れ出すなんて間違ってた」

 

 つぎは、かちます。だから──────。

 楽園への道筋は閉ざされた。

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