私たちの道のりはまだ始まったばかりだ。ようやくオープニングが終わるところなのだ。開幕戦を終え、ライバルとなるべき相手を見つけた。だからまだ走る理由はある。そうであるべきだ。そうでなくてはいけない。
「……ここは」
白い天井。身体に力が入らず、状況を把握できない。私は弥生賞でアグネスタキオンに負けて、それで。
「ここは、病院だよ。……カフェは控え室で倒れてて。運んできた」
「……それは、申し訳ありませんでした。ありがとうございます」
「……申し訳ないのはこっちのほうさ」
「……」
「医者は過労だって言ってた。働きすぎたんだ。頑張りすぎてたんだ。俺が止めるべきだった」
否定の言葉を発するほどの元気もなかった。頭にも身体にも血が足りない。喰らう獲物を失って、みすぼらしく飢えている。
「……だからさ、カフェ。これで終わりにしよう」
「それは、どういう」
「君には大事な仕事がある。今まで培った生活がある。俺とのよくわからない約束なんかに惑わされず、レースは辞めよう」
「……!」
「それが、俺からできる最後の指導だ」
なんで。どうして。答えの分かり切っている問いは、口から出て行こうとしない。
「……じゃあ、これで。さよならだ」
私の沈黙を肯定と受け取って。君は病室から独りで出ていった。
「ねえ」
「連れて、行ってよ」
一つとして、言葉は届かない。
それから。病室に来たのは、共演していた俳優だとか、マネージャーだとか。そういう人たちばかりで、レースと私の縁は途切れてしまったようだった。でも、忘れられない。血を求める感覚は、私の中で強く強く。そんなある日のことだった。
「……こんにちは、カフェ」
「……あなたですか、アグネスタキオン」
本当に求めている人ではなかったけれど。あの世界と私がまだ繋がっている気がして、少し嬉しかった。
「……今度の皐月賞だけど」
「……出れません。出ません。私は走れない」
「そんなことは知っているよ。だからお見舞いに来たんじゃないか」
クククっと、アグネスタキオンは笑う。けれどその深層に、愉快そうな感情は見えなかった。
「残念だったなどと言うつもりはないよ。そういったお節介は聞き飽きているだろうしねえ……」
「要件は。皐月賞に何か」
「私は皐月賞に出る」
「……ああ、そんなことですか」
分かり切ったことだった。弥生賞を勝っておいて出ない選択肢もあるまい。そして彼女がその後のダービー、菊花賞を勝ち取るのさえ。分かり切ったことだ。けれど。
「君には見てほしい。できれば君のトレーナーにも……と思ったのだが。居ないようだね」
その口ぶりは真剣なもので。まるで、できたばかりの硝子細工を触るかのように。壊れかけの硝子細工を愛おしむように。そんな印象を与えた。
「……わかりました。トレーナーさんも呼んでおきます。まだ連絡はできますから」
「……何かあったのかい」
「……これは私の問題です」
私が耐えられなかったから。弱き獣には何の権利もないのだ。
「……ふゥん。それなら今すぐ呼んでくれるかな。君の問題だと言うのなら、トレーナー君は何の問題もなく元気にしているのだろう? きっと暇をもてあましているに違いない」
「……その通りですね。お任せを」
手荷物の中から一つの携帯電話を取り出す。
「流石女優だねぇ。連絡用とプライベート用で通信機器を分けてあるのか」
「……これは」
「これは?」
「……いえ」
これは、君専用の電話。君の番号だけが閉じ込められた優しい牢獄。だけど今はもう、飛び去ってしまった。
「……もしもし」
「……お久しぶりです。マンハッタンカフェです」
「久しぶり」
心臓が熱くなる。再び血が流れ出すような。
「……今度の皐月賞。一緒に見ませんか」
「……いいのか」
いいも悪いもない。
「……続きは、その日に」
私が生きていくのには、君が必要なのだ。
「……そろそろです」
「……タキオンが君に言ったんだったな。皐月賞を見てくれと」
久々に君と話せるだけで、嬉しい。彼女には感謝しなくては。
「各ウマ娘、スタートしました! 断然人気のアグネスタキオン、光を超える素粒子の名を冠するウマ娘はどう出るか!」
「……まさに好位追走だな」
アグネスタキオンは中団、先行バとして理想的な位置からレースを進めていた。彼女にはおそらく勝利の可能性が眩いほどに見えている。
「……彼女の見る景色とは、どのようなものなのでしょうね。確実に勝てるとさえ言われ、その重圧をも跳ね除ける」
本物のスターダム。星より疾い超光速の景色が、彼女の眼前に。
「……君にだって、見える」
「私には見えませんよ」
君が、連れて行ってくれなければ。
「……アグネスタキオン抜けた! アグネスタキオン一着! アグネスタキオン、まず一冠です!」
やはり、彼女は勝った。これを見せてどうなると言うのか。彼女は走れて、私は走れない。その現実を突きつけたかったのか。
その疑問は、すぐさま明らかになった。
「私はダービーには出走しない。未来の三冠ウマ娘のインタビューが聞きたかった諸兄は残念だが、これはもう決めたことだ」
「……なん、で」
耳を疑う。そんなこと一言も言っていなかったではないか。彼女が扱っていた硝子細工は、彼女自身だったとでも言うのだろうか。
「……きっとこれを見てくれている彼女に、Bプランを託す。追って詳細は発表しよう。では」
騒然となる会場を後に、アグネスタキオンは去っていった。……ライブにすら彼女は現れなかった。脚に異常があったということだろう。でもそれ以上の覚悟が、彼女の語気には込められていた気がした。
「Bプラン」
その詳細は不明だが、その託す先はわかる。
「……トレーナーさん」
私にまだ走る理由が、走らなければいけない理由が生まれた。
「……あなたがなんと言おうと、私はまた走ります。協力して貰えますか」
そして、そのためには。
「……わかった」
君がいてくれなくてはいけない。
ここより始まるのは、最初の約束を忘れたかのような一方的な契約。その形は歪んでいて、壊れている。でも、私を見ていてくれるなら。私は、それでいい。
失楽園の漆黒は、閉ざされし闇を喰らう。