今日から夏合宿。俺の担当ウマ娘であるマンハッタンカフェも、合宿からは復帰できるということで待っていたのだが……。
「……遅いな」
このままではバスに乗り遅れてしまう。電話をかけようか、と携帯を取った途端着信があった。……相手はカフェではなく、アグネスタキオンだ。彼女から電話をかけられるのは初めてのことではない。カフェのことについて、タキオンは都度連絡や提案をしてくる。彼女が皐月賞で言ったBプランというものにその理由が隠されているのだろうか。
「……というわけで、夏合宿中はスタミナの強化を……聞いてるかい?」
「ああ、ごめんごめん」
「……やれやれ。まあ私がやっているのもお節介に過ぎないし……。まあ、夏合宿中はカフェのために尽くしてあげることだね。彼女は君にご執心のようだからねえ……それじゃあ」
そう言ってタキオンは電話を切る。……俺なんかがカフェのためにできることは少ない。だからタキオンのアドバイスも何も言わずに聞いている。
「カフェが俺に執心している、か」
それは冗談のようなものだとしても、実際彼女は何のためにまた走っているのだろう。俺は約束を果たせる人間ではないと分かったはずなのに。……本人に聞くことはできない。それは彼女に気遣わせてしまう結果になるだろうから。
「……電話は終わりましたか」
「……ああ……って。……カフェ、か……?」
振り向いた先にいたのは、幻想のような。
「きっと暑いと思ったので、服を新調してきました。……どう、ですか?」
思えば、いつも着替えてからか変装して練習に来る彼女の私服を見たのは初めてかもしれない。……いやこれは私服なのか? 大きな麦わら帽子に純白のワンピース。露出は少ないけれど、薄い生地から少し身体のラインが見え隠れしている。
「珍しいものを見るような目ですね」
どきり。思わず見つめてしまっていた。慌てて焦点をずらし、なんとか平常に対応する。
「あーそうだな、みんな制服だからな。確かに珍しい。うん。まあでも問題はないだろうな」
「……そう、ですか」
うん、制服じゃないといけないこともないだろう。それに。
「これだけ似合ってるのに、脱がせるなんて可哀想なことは誰もしないよ」
そう口走ると、僅かにカフェの頬が緩んだ気がした。
「……では、行きましょう。そういえば電話がつながらなかったのですが、どなたと電話を」
「ああ、タキオンと電話をしてたんだ。いつものことではあるんだが、タイミングが良くなかったな……カフェと被ってしまった。すまない」
「……そうですか」
それだけ。珍しく質問をしてきたと思ったけれど、その返答は淡白でよくわからない。もっと彼女のことを知りたいと思う心は、間違いではないと信じたいのだが。
……ともかく、カフェのリハビリを兼ねて。また勝ちに行く、その願いを込めて。夏合宿が、スタートした。
「よし、上々だな」
「……はい」
「目標は、菊花賞。長距離を走るスタミナをつけるんだ。菊花賞はただの復帰戦じゃない。重賞初勝利だ!」
「……菊花賞」
クラシック三冠の最後の一つ。少し前までは、あのアグネスタキオンが確実に取ると言われていた。それを、マンハッタンカフェは射抜く。
「……あの」
「どうした、カフェ」
「……この後、時間があれば」
ある、と答えた俺に伝えられたのは、予想外の仕事だった。
ざざん、ざざん。砂浜に二人。本来なら休憩時間なのだが、マンハッタンカフェにはもう一つの仕事がある。女優業はしばらく休んでいたカフェだが、今度写真集を出すらしい。曰くそういうもので収入を持続させることが大事なのだとか。……というわけで。
「……えっと、こんな感じか?」
「……んっ……」
「ああ、悪い!」
「……いえ、なんの問題も」
俺はカフェの背中に日焼け止めを塗っていた。彼女はトレーニング用のスクール水着とは違い、パレオのついた可愛らしい水着を身につけている。……その格好で日焼けしないようにするのが、俺の仕事だ。
「……なあ、同室のユキノビジンとかに頼むのは」
「これも仕事の範疇です。友達の時間を割くわけにはいかないでしょう」
確かに俺は友達ではないが、いかがなものか。そんなことを口に出したりはできず、丁寧に……薄目で確認しながら。色白の肌は、光を反射するようで。闇を孕んだ髪の毛とは対照的だった。生唾を飲み込みそうになる自分を、すんでで止める。ただただ、綺麗だと思った。
「……なあ」
「なんでしょう」
ほんとに触っていいのか、などと馬鹿なことを聞きそうになる。代わりの質問を捻り出す。
「どうだ、調子は」
ありきたりすぎる。
「……ええ、それなりに。おかげさまで」
おかげさまという言葉が少し刺さる。結局俺は彼女に特別何かできたわけではないと思う。彼女が走るからそれを助けられるだけであって、彼女が走れない時の助けにはなれなかったのだから。
「さて、こんなもんだ。ところで撮影は」
「それも、トレーナーさんが」
えっ。
「身近な人が撮るありのままの姿、がコンセプトなので。カメラはここに」
あまりに平然と言うので、やはり女優というのは常識が少し違うのかもしれない。そう思った。
「はあ、流石に疲れた……おやすみカフェ」
「……はい、おやすみなさい」
「一応鍵を渡しておくから、何かあったら起こしてくれ」
「……はい、ありがとうございます」
そう言って俺は寝室に帰る。この夏合宿、彼女は強くなれただろう。けれどそれは彼女の功績で、俺の力ではない気がする。無力さに打ちひしがれながら布団に入る。彼女と契約したのがもう遠い昔のような気がした。あの頃の俺は何も知らなかったのだろう。今は知っていて、だから何もできない。だとしたら。
「……もう一度、できるようにならないと」
彼女との契約は理由がどうあれ続いている。彼女に相応しい存在になれるように努力しなければいけない。彼女が走ることを、間違いでないと証明したい。そんな決意とともに。俺の意識は闇に沈んでいった。
憎いという表現は適切ではない。そもそも感情を真に一言で表すのは不可能に近い。文章に起こされた動作の中から書かれていない感情を描き出す。その所作を何度もやってきたからわかる。思い出す時点で感傷は欠落していて、その時得た感覚は不完全にしか復元できない。
トレーナーさんがあのアグネスタキオンといつも電話していたと聞いた時に抱いたものは、なにか。何か暗いものであり、焼けるように熱いものであり。純白のおめかしが一瞬で色褪せてしまったような気がした。君の存在を閉じ込めたいという願望はどこかにあるかもしれない。けれどそれは本当に言葉にするならまた違う形であり、だから実行できない。たとえば肉体的接触で君を手に入れることができるのだろうか? 私の肌に触れた君は何かを感じただろうか? 少し満ちた気分はあったけれど、まだ満たすには足りない。渇き、飢える。たとえば写真に姿を閉じ込めれば、その人の姿は手に入る。君は私の写真を撮って、私を手に入れられただろうか? そうであったら嬉しいけれど、君は私を求めてはいない気がした。
もやもやと、曖昧に。眠れないという結果が積み重なり、感情は論理を求めない。ただ発露されることだけを渇望する。
だから。私は今、トレーナーさんの寝室にいる。退屈で、退屈で。それを満たして欲しいから。君だけが、私を満たせるから。
「……すぅ……」
何も知らずに寝ている君を、眠るように殺すことは容易いだろう。そう考えるとぞくぞくしたけれど、それは本当に求める何かではない。君の生殺与奪の権利を握っていることを、もっと実感したい。君がいなければ私が死んでしまうように、私がいなければ君は死んでしまう。そういうふうに、したい。
ゆっくりと、近づく。その顔を眺め、闇の中で堪能する。……そういえば、スタミナだったか。どれだけついたか、試してみようか。
「……すーっ、はむっ……」
それは口付けではなく、息と息を繋げる行為。肺と肺を口で繋げて、君が吸うのに合わせて、私は吐く。
「……ふーっ、すーっ……ふーっ……」
乾いた君の唇に、私の唇から水分をもたらす。君が起きる気配はない。私が息を止めれば、君は死んでしまうのに。
「……ふぅ……あむっ……はー……」
いつまで続けられるだろう。僅かに体温が移り変わり、熱っていく。口は片時も離さない。この時間が、永遠だったらいいのに。生まれて初めてそう思った。
「……んー、よく寝たなあ」
寝間着が汗でびっしょりだが、なんだか気持ちのいい睡眠だった気がする。唇がやけに暖かいような。けれど心当たりもなく、寝ぼけ眼で部屋を出る。……カフェがいた。
「……おはようございます」
「おはよう、カフェ。よく眠れたか?」
「……眠らないように頑張っていました」
「えっ?」
「……冗談です。さあ、最後まで。頑張りましょうか」
最後まで。その言葉を、最後まで聞けるようにしよう。そう思う。彼女はまだまだ走れるのだから。
失楽園の漆黒は、真夏の闇に揺蕩う。