有馬記念。一年の最後を締め括る大レースであり、シニア級とクラシック級のウマ娘が一堂に会する。つまりマンハッタンカフェにとってはシニア級チャレンジの登竜門となるべきレースなわけだ。
「……やあ、こんにちは。まずは菊花賞おめでとう」
電話をかけてきたのはアグネスタキオン。今年の皐月賞を勝った強力なウマ娘であり……今はレースから身を引き俺とカフェのサポートをしてくれている。
「ありがとう、タキオン」
「……で、次はどこを射抜くんだい?」
次の勝利。アグネスタキオンにとっては手に入りそうで手に入らなかったもの。どんな気持ちでその言葉を紡いでいるのだろう。
「次は有馬記念だ。カフェがそう言った」
「へェ……。彼女にも一厘の積極性が見えてきたかもねえ」
「彼女はいつだって真剣だよ」
彼女から逃げたのは俺の方だ。
「……いや、いやまあいいか。姑役をするために君たちに関わっているわけではないし……ふむ」
電話の外からぱらぱらと紙を捲る音が聞こえる。
「さてさて、君はシニアの有力ウマ娘を知っているかい? 有馬に出走するなら当然同世代だけに注目していてはいけない」
「特に注目しなきゃいけないと思ってるのは……二人だな。ライバル関係にあり、一着二着を独占してシニア級を暗黒で染め上げたというウマ娘たち」
「……さすがだねえ。君もカフェのために努力を惜しまないというわけか」
そうでもない。俺が彼女のために出来ているのは最低限のことだけだ。全力を尽くしても何にもならない。彼女の道標という最低限の役割すら果たせているか怪しい。
「……テイエムオペラオーと、メイショウドトウ。少し衰えが見えてきているとはいえ、他の追随を許さない存在だろう。スターウマ娘に近しい」
世紀末覇王と怒涛王。二人の王がシニア級の壁として立ち塞がる。勝てなくても仕方ないとすら言える。……けど。
「勝てるかはわからないかもしれない。でも。勝てなくても仕方ない、って思うのはもうやめたんだ」
「ふぅん……」
「俺は、今でも。カフェなら君に勝てたと思ってるよ。タキオン」
「……それは仮定の話、だね」
「過去の話さ。体調管理をしっかりしていれば、今日のパフォーマンスが出せるなら。カフェは誰にも負けない」
負けるとしたら、全て俺が悪い。
「それが君の信頼の形」
「そうだ」
「……なら見せてもらうよ。私の幻影を追いかけるというならそれでもよし。なんであれ勝利すればいい……じゃあ」
電話が切られる。勝利。そのために、必要なものは。
「ふぅ。ウイニングライブというのは体力を使いますね」
センターに立つのはメイクデビュー以来か。観客の数は段違いだったけれど、私にとっては差がない。どちらも君が見てくれている。その一点が重要だ。
「んっ……ごくっ……ふぅ」
黒塗りのコーヒーをじっくりと飲み、疲れた身体に鞭を入れる。一人の空間は落ち着く。昔はこれが一番好きだった。今はもう少し好きな空間があるけれど。
私の独奏。人生は独りによって動かされるものだと思っていた。揺れ動く何かをあくまで自分が捉え、それを命の糧にする。退屈を噛み殺すには自分から動かなければならない。獲物を捕らえるには自分の働きが必要である。
私の独創。だから、私は私でいる。私にしか創れない人生があって、それはつまらなくても私の価値を担保する。他者とは違う、他者とは関わらない。それが私を生かしている。
けれど。今の私には。君とのデュエットが必要だ。君と二人で創る何かが必要だ。そうでなくては退屈だというのは、私に課せられた呪いなのかもしれないけど。この呪いは心地よいのだから構わないと思う。獣であるためには私たちは餌を多く喰らわねばならない。二人でいる方がより多くの餌を得て強い獣になれるというのなら、私は喜んで二人になる。しかしそれなら果たして。餌を分け合うことが弱さに繋がるとしたら、私は君と分たれるべきなのだろうか?
「……いけませんね」
今日は勝利に酔うべき日だ。それなのに不穏なことばかり考えてしまう。偶像の蠢く未来ばかりを描いてしまう。しっかりしなければ。君の隣に立つのに、相応しくならなければ。
「……カフェ、入っても大丈夫か?」
「ああトレーナーさん、どうぞ」
そう言ってトレーナーさんを招き入れる。部屋に二人きり、その状況は少し心を揺らしてくれるけれど。まだ、私は相応しくない。
「有馬記念、警戒すべきはテイエムオペラオーとメイショウドトウだ。歴戦のウマ娘で、実績も実力も申し分ない」
「……なるほど」
「でも」
「勝つのはカフェだ。それを伝えに来た」
「ええ、お任せを」
当然だ。君がそう言うのだから、私は勝つ。今の私の行動指針は、全て君の中にある。
「……トレーナーさん」
「……なんだ」
「……まだ、連れて行ってくれる?」
「……ああ。約束したからな」
約束した。君は私を楽園へと連れて行く。それを脅迫材料にするかのように、今の私は君を繋ぎ止めている。きっと君の心は私をもう見たくない。でも、私は君に見て欲しい。君のためを想うには、私は弱すぎる。君を求めなければ直ぐに死んでしまう。
「……じゃあ、帰るか」
「……トレーナーさん、もう一つだけ」
「……いいぞ」
「……今日は、独りになりたくない。朝まで、手を。繋いでいてくれませんか」
これも脅迫のようなものだ。きっと求めるほどに、君は私に恐れ慄く。心は離れていく。
「……わかった」
それなのに、君は私を赦してくれる。私はいつまで君に甘えられるだろう。きっとこれも永遠ではなく、いつかは退屈極まりない私の存在を見限る時が来る。
「……ここが私の家です」
「……なあ、大丈夫なのか」
私の家はトレセン学園の寮とは離れたところにもう一つある。女優業ばかりをしていた頃の古巣だ。
「……なんですか。今更手を離したりはしませんよ」
君の手は私の掌の中に。
「……言いましたよね? 朝までって」
「言ってしまったしなあ。……カフェが大丈夫なら、いいよ」
勿論。
「ではいらっしゃい。風呂とご飯を用意しますから、寛いでいてください」
ぎぃ、と扉を開いて。一瞬、愛の巣という言の葉を幻視する。そうでなくても、この時間は誰にも邪魔されたくない。
失楽園の漆黒は、闇へと手招きするが如く。