「大きな家だな……」
マンハッタンカフェの別荘は大きな一軒家で、彼女が人気女優だという事実を再確認させられる。
「私は狭くて暗い家でも良かったのですがね」
カフェはそう言う。この家は彼女の好みで選んだものではないのだろうか?
「ただ、広い空間で独りになりたい時もありますから。開放的なようでいて、牢獄のようであって。退屈を殺すためには、様々のものを体験しないといけません」
ぱち、ぱち、ぱち。明かりのスイッチを入れて、カフェは奥の部屋へと入っていく。
「……とりあえず、着替えさせてもらいます。……トレーナーさんは」
「ああ、俺はいいよ! そうだな、そこで座って待ってる」
着替え部屋に誘うなんて、冗談でもどきりとしてしまう。しばらくすると、彼女は装いを変えて出てきた。ルーズな部屋着。少し緩い雰囲気は、今までの彼女にはなかったものだった。
「では、食事を用意しますね。ごゆるりと」
「……ああ、ありがとう」
そのまま彼女はキッチンに消え、間もなく包丁でまな板を叩く音が聞こえる。……カフェと包丁の組み合わせはなんだかマッチしている気がした。
カフェの家をぐるっと見回す。彼女の私物が全面に広がっていて落ち着かない。
「……気になるものがあったら、ご自由に手に取ってください」
そうキッチン越しに言われたので、大人しく目に付くものを見てしまう。
「……大きな本棚だな」
ずらりと小説が並ぶ。演技の本などもあるし、果ては犯罪者のプロファイリングや実在の事件をまとめた本まで……これは一体。
「……ドラマは現実ではないですが、作中の人間は現実にいてもおかしくない思考を持っていなければなりません。それは悪役でも然り。私はそれを映し出す鏡ですから」
「……君にとっての女優業は、フィクションに現実を憑依させること?」
「……ご名答。さて、続きはシチューと共に」
いつのまにか彼女は鍋に入ったシチューを机に置いていた。家の中を回っている間にそれなりに時間が経っていたようだ。
「いただきます」
「……召し上がれ」
彼女と二人、食卓を囲む。今夜は一人になりたくないと彼女は言った。だから俺はここにいるけれど、彼女はどれほど俺を信頼しているのだろう。期待外れなトレーナーでしかないはずなのに、俺は彼女を縛ってしまっているのか。
「……美味しいな」
「それはよかったです」
身体の芯から温まる。彼女の得意料理なのだろうか。
「……女優について。私は女優であることを、物語の鏡になることだと思っています」
「……鏡」
「限りなく物語を落とし込み、私から私を消し去る。それが役割で、だから私個人には何の色もついていない。白黒の無価値。そう思っていました」
それは何となく、初めて誰かに話すかのような。
「……でも、今日の菊花賞。歓声は私に向けられていた。私自身に向けられていた。……初めての世界でした」
「……そうか、それは」
「トレーナーさんのおかげです」
虚をつかれた思いがした。
「……トレーナーさんがいたから、連れて来てもらえたんです」
「……違う」
「俺なんか、足手まといだろう」
そうに決まっている。そう言うと、それ以上の言葉は交わされなかった。
「……これ、私のお気に入りのコーヒーです」
「……ありがとう。いただくよ」
悪いことをしただろうか。彼女は未だに俺に幻想を抱いているのだろうか。それでも、それでも。彼女が走る理由は俺にある。そうだとしたら、俺のするべきことは。
「……さて、お風呂はもう湧いていますが。どうしますか、トレーナーさん」
「……? どうって……」
「……入りますよね?」
正直いくら担当とトレーナーの関係だとしても、女性の家で風呂まで借りて良いものなのだろうか。
「……安心してください。風呂場で襲いかかったりしませんよ。……先、いただきますね」
それは冗談のはずなのだが、そうは聞こえなかった気がする。
彼女が風呂に入っている間、一人先程の言葉を思い返す。俺がいたから走れたと彼女は言った。俺なんか足手まといだと俺は言った。どちらが正しいのだろう。ここに噛み合いがないことは、俺たちにとって致命的なことなのだろうか。いくつか漠然とした疑問は浮かぶが、答えは出ない。答えを出したくないのかもしれない。俺にだけ落ち度があれば、それは俺の問題になる。そこに疑問を挟み込みたくない。そういうことだ。
連れて行く。俺が彼女を連れて行く。その約束をまだ彼女は握りしめている。それは既に壊れたる幻想なのかもしれないけど、確かに彼女を生かしている。
「……先、いただきました」
もう少しだけ、考えてみよう。俺たちのことを。
「……ああ、ありがとう……」
そんな考え事をしていたので。
「……あっ、まだ振り向かないでくだ……きゃっ!」
「……あっ、ご、ごめん!」
あられもない白い肢体が目に焼き付くのを、必死に堪えた……。
「……着替えは外に用意してあります」
「……ごめん、カフェ……」
風呂のドア越しに会話が為される。ここは自分の家ではないのに、気を抜きすぎていた。……そもそも何故カフェは俺を自らの家に誘ったのだろう。やはり、それだけの信頼が寄せられているのだろうか。理由があるとすれば、結局トレーナーである自分との契約に帰結する。
ずらりと並ぶコンディショナーの列から、ボディーソープとシャンプーを取り出す。当たり前だが美容には気を遣っているようだ。彼女が女優だから……というのもあるだろうが、それ以前にマンハッタンカフェは一人の少女だ。完全無欠な存在をイメージしていたがそんなことはない。それを知る。
湯船に浸かり、身体の疲れを取り払う。……ここにカフェも入ったのか。そう思うと何だか落ち着かなくて、さっさと上がる。風呂から上がるとそこには一枚のバスタオルと……バスローブがあった。見てみれば先程脱いだ服は皆洗濯機の中でぐるぐると回っている。やられた。
「……お風呂、ありがとう」
バスローブ姿でそんなことを言う。カフェもバスローブに着替えていて、テーブルでまたコーヒーを飲んでいた。
「……ああ、トレーナーさん。こちらへ」
とんとん。カフェが自分の膝を叩く。疲れた頭は意図も読めず、ふらふらと言うがままに。
すとん、と頭を優しくおろされる。彼女の膝から上半身に目を向けると、カフェは耳掻きを手にしていた。ローブの隙間から見える鎖骨が艶かしい。……いや、そもそも。今俺が寝かされている脚には根元まで何も……。
そこまで気づいた頃にはもう遅い。身体をうまく抑え込まれ、力が入らない。
「……じっとしていてくださいね」
そうして。
耳の中をゆっくりと、じっくりと。寝かしつけられているような体勢は、自然と心を安らげる。
「……今日は、お礼がしたかったんです」
かり、かり。少しずつ掻きながら、彼女は語る。
「私には、表現の仕方がわかりません。物語に出てくる人々は、言葉で全てを解決できるのに」
「でも、どうしても。今日の勝利は二人のものだから。トレーナーさんが、私を連れて行ってくれたから。だから、お祝いされるべきは私だけではない」
熱い息が当たる。彼女の顔は見えないが、今までで一番近づけている気がする。
「……それで、わざわざ家に誘ってくれた。……ありがとう」
「……ふふ」
しばらくの間、言葉が途切れる。薄い布を互いに一枚纏い、それだけの境目を以って関わり合う。耳掻きの擦れる音と、布の擦れる音。二つだけが響く静かな空間。
「……では、こちらを向いてください。反対側も耳掻きしますから」
ぐるりと、彼女の身体側に顔を向ける。なんとなく身体が熱くなってくるのは気のせいではない。彼女の身体が熱くなっているのも気のせいではないだろう。肌と肌の密着が、少しの布で仕切られている。それを取り払って仕舞えば。
「……いいんです」
「……カフェ」
「……トレーナーさんなら、いいです、よ?」
それが、彼女の言うお礼だとすれば。それを受け取らないのは、シツレイナノカモシレナイ。
けれど。
「駄目だ」
「まだ、俺の役目は終わっていない」
「だから、カフェ。まだ君は走れるよ。有馬がある。その先にはシニアと、URAファイナルズがある。どちらも大きなレースがたくさんだ。俺はそこへ、君を連れて行く」
「……トレーナー、さん」
「だから。俺を繋ぎ止めようとしなくていい。俺は君のそばにいるよ」
ずっとあった違和感。俺はカフェの足手まといだと思っていた。けれど、カフェからすれば逆だった。俺と離れたくなくて、怖くて。不安ではち切れそうだった。
ぽたり、ぽたり。熱い雫が、俺の頬に落ちる。
「……しばらく、こっちを見ないでください」
「……ああ」
穏やかに、互いの熱が解けていく。
「……こちらが来客者用のベッドです」
「すごいな、俺の家のやつの倍はある」
「……そしてこれが、ダブルベッド」
「……なんのために?」
「広々と寝るためですが、今日は違います」
こともなげにカフェは言う。
「……一人で寝るのは、嫌ですよ?」
そう言って、彼女は少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
朝が来るまで手を繋いで、目覚めた時には抱きつかれていた。彼女は存外甘えん坊なのかもしれない。今日から有馬記念に向けてのトレーニング。立ち向かう敵は強大だが、今度こそ大丈夫だ。再び繋がりあえたような感覚。ひとつ、ひとつずつ。心の糸を結べた気がした。二人で一人、二人三脚で。そうありたい。
失楽園の漆黒は、光に照らされる。