有馬記念に出たい。彼女がそう言った時点で、止めるべきだったのだろうか。
勝ちたい。彼女が初めてそう思ったのを、へし折るべきだったのだろうか。
最後方にぽつんとひとり。それでも必死に、他のウマ娘が全てゴールしたあとも、ずっと。ハルウララががんばる姿から、目を覆うことすらできなかった。
彼女の脚は芝に適していないことなど、分かっていた。彼女の身体は2500mを走れるようにできていないことなど、分かっていた。
一人のトレーナーとして、当たり前のように分かっていた。それでも。
彼女には夢の舞台に登る権利がある。彼女には勝利を求める資格がある。
……彼女のトレーナーとして、当たり前のように彼女を信じていた。それでも。
現実は、冷たく。痛々しい。俺はどんな顔をして、ハルウララを迎えればよいのだろう。
「はあ〜っ! トレーナー、ただいまっ!」
「おかえり、ウララ」
それでも、彼女は笑っていて。こちらも釣られて笑顔になる。
「あのねっ、すごかったんだよ! 走ってる間ずっとね、声が途切れなかったの!」
ウララの走りはいつもみんなを元気にする。今日も、それは変わらなかった。
「全部聞こえてたの! ウララちゃんがんばってーって!」
楽しそうに、矢継ぎ早に。その言葉を、噛み締める。
「うん」
「それでね、前の子を追い抜こう追い抜こうって、すごくがんばったの!」
前を走るウマ娘は果てしなく遠く。ライバルの背中すら、見えなかったけれど。
「走ったの! けどねぇ、すっごく速くてね、追いつけなかったんだあっ」
果たして俺が同じ立場に立ったとして、彼女の見た景色が幸せなものだったと言えるだろうか。
「あともうちょっと、わたしの脚が長かったらね、きっと追い抜いてたんだよ!」
夢と現実。その差を知っていたはずの俺は、トレーナーとして止めるべきだったのか。一人のファンとして、俺は彼女の勝利を信じていた。
「それでね、それでねっ……」
ウララの目が潤む。桜色の瞳が、無色の泡をぽたり、ぽたり。
「ぐすっ……」
この気持ちを知れたことは、ウララにとって得難い経験だっただろう。でもそれは。
「あ、あれぇ? へんだなぁ」
この先も、ウララは走り続けるのだから。そのために、彼女はまだまだ成長しなければならないし、きっと成長できる。けれど。
「すっごく楽しくて、もっとずーっと走りたいって、ぐすっ、思ってたのに」
大粒の涙が、落ちる。
無垢な桜の花に、泥の味を教えるその行為は。ヒトとして、許されるものだったのだろうか。
「頑張ったな、ウララ!」
ウララを労う。この場に二人、何一つ間違っていない存在は、彼女だけ。だから彼女は尊ばれるべきなのだ。
「……っ! うええぇぇ〜ん!」
涙の痕が決壊する。きっと、彼女は今知ったのだ。本気で走るということの意味を。悔しいという感情を。
間違いなく、成長した証だ。
彼女が落ち着くよう、背中を撫でてやる。泣きじゃくる彼女を、優しく抱き止める。
彼女は全てをかけて、いのちのかぎり走った。
そして、心に傷を負った。それでも、走ることを投げ出したりはしないだろう。だけど。
俺はトレーナーとして、彼女を見届ける権利があるのだろうか。
URAファイナルズは間近に迫っている。ハルウララは今度こそ、その脚に向いたダートで、短距離で。晴れ舞台のセンターだって夢じゃない。でも。
そこに至る罪の糸。
"自分はハルウララを有馬記念で負けさせた"。
その事実は、赦されないような気がした。
……ウララの涙は落ち着いたようだ。彼女は確かに強くなった。それを実感した。
「大丈夫か?」
きっと、大丈夫だろう。
「……うんっ、ありがとう。トレーナー」
大丈夫じゃないのは。
「ライブ、行ってこい。ウララ」
送り出す。ウイニングライブのバックダンサー。有馬記念ともなれば、それも大役だ。
「……うん! 見ててね、トレーナー!」
客席へと、自分も向かう。心の靄は、黒く、暗く。
「あっ、ウララちゃんのトレーナーさん!」
ステージの客席へ向かうと、ウララをいつも応援してくれた商店街の人たちに捕まった。
「お疲れ様でした。ウララちゃんを有馬記念に出走させてくれて、ありがとうございます」
そんなことを言われた。そうだ。ウララが有馬記念に出走したのは、やはり俺のせいなのだ。
何故、自分は感謝を述べられているのだろう。
何故、自分は責められていないのだろう。
何故、自分は赦されようとしているのだろう。
「おっ、出てきた! ウララちゃーん!」
わっと周りから歓声が。ライブが始まり、ウマ娘たちがステージに躍り出た。
もちろん今日の主役はハルウララではなかったし、ファンの数だって決して他と比べて多いとはいえない。
それでも、いつも皆を元気にする。それがハルウララというウマ娘だ。……そのトレーナーとして、自分は相応しいのか。
わからなく、なっていた。
「……それでね、スペちゃんがね……」
時間はあっという間で。ハルウララと二人、帰路につく。ウララはすっかり元気になっていた。
けれど、悔しさを忘れたわけじゃないだろう。そしてその道は、皆とは違う。
ハルウララが有馬記念を走れるのは、きっとこれが最初で最後だった。その一回を、俺は敗北で迎えた。なら、なら。もう俺は─
「……トレーナー。少し、お願いがあるの」
その時。ハルウララがそう言って、歩みを止めた。
「約束して。どこにも行かないって」
「どうしたんだ、急に」
「約束して。ぜったい、いっしょだって」
はぐらかすトレーナーに向けて、わたしは約束だけを言い続ける。
「うーん、一人になりたい時もあるしなあ」
わかる。わからないけど、わかる。わかるようになった。トレーナーのおかげで。
なんとなくヘンだった。このままじゃ、トレーナーがどこかへ行ってしまう気がした。それはぜったいな気がして。でも、そんなの嫌だった。
「約束できない……?」
「そうだなあ、わからないなあ」
ウソだ。わかる。わたしでもわかるんだから、トレーナーはきっとわかってる。
「……トレーナー、ちゃんと、正直に話して。隠してること、あるよね」
わたしのトレーナー。そう、"わたしの"トレーナーだ。
「……なあ。ウララは悪いことをしたいと思うか? 誰も見てなかったとしても、だ」
気づけば俺たちは川辺に座り、二人で夜空を見上げ。話を始めていた。
「……それは、いやだよ。わたし、悪い子になりたくないもん」
「……じゃあ、悪いことをして、バレなくて。謝ることすらできなかったら、どうする?」
「……あやまったら、だめなの?」
「謝ったら、相手を嫌な気持ちにさせちゃうんだよ。だから、それは悪いことで、謝れない」
「……うーん、むずかしい……」
「ごめんごめん。とにかく謝ったら、悪い子になっちゃう時。謝らなくても、悪い子になっちゃう時。どうしたらいい?」
「……どうしても、悪い子なの?」
「そう、そういうことだ」
これが、今の俺を縛る罪の糸。誰も知らない罪を密やかに積み上げている。
わかっていて、わからなくて。ハルウララを有馬記念に出走させた。
負けさせた。
「……あ、わかった! ならひとつ、いい方法があるよ。
……この答えがあってたら、隠してること。教えてね?」
「ああ、いいよ」
板挟みになって。俺の出した答えは一つだった。"逃げてしまえばいい"。もっと大きな罪を重ねれば、小さな罪は潰れて見えなくなってしまうのだから。
ウララもその答えが分かったのだろうか。分かったとしたら、俺は正式にウララのトレーナーを辞めることにしよう。全てを伝えて。
「……えーっとねー……」
少し、考えている。嬉しい。悩むだけ、俺はウララのそばにいられる。
トレーナーが言っている話は、もしかするとトレーナーが今悩んでいることを、ちょっとだけ言ってくれたのかもしれない。
力になりたい。わたしはそう思った。だって、今までトレーナーは、わたしの力になってくれたのだから。
そう、だから。
答えはひとつだ。
「謝られる人が、嫌な気持ちをしなければいい!」
「……どうかな、トレーナー?」
予想外の答えだった。
「でもね、わたし思うんだ」
声が出てこない。彼女の言葉を聞き続ける。
「好きな人の言うことなら、なんでもしあわせだって! だから、わたしもトレーナーの言うことなら。なんでも聞いちゃうよ?
……ねえ、聞かせて? トレーナーのおなやみ」
ふぅ、と息を吐く。本当に、彼女は。俺が思っていたより、ずっと成長していた。
「ありがとう、ウララ」
なら、俺が言うべきなのは。
「……実は有馬のことで一生懸命だったから、言わないようにしてたんだが。来年明けにはURAファイナルズがある。覚えてるか?」
"こっちだ"。
「ゆーあーるえーふぁいなるず?」
ウララの頭上にハテナが浮かぶ。
「そう! ある意味ではGⅠより大変かもしれないな。ウララの得意なダートの短距離。そこで一番のウマ娘を決める! ……それに向けて、これからの練習。それを一緒に考えたいなと思ってたんだ」
「……これから。なら、トレーナーはどこにもいかないってこと!?」
「ああ、そうなる─うわっ!」
ウララが横から思いっきり抱きついてきて、痛いほど締め付けられる。気づけば、彼女はまた泣いていた。
「……よかった、よかったぁ〜! あのね、トレーナーがなんだかどこかに行っちゃう気がして、なんでかわからないけど、さっきからずっとで……」
「心配ない、どこにもいかないよ」
……また泣かせてしまったな。いつも笑顔な彼女を、2度も。でも、逃げられない。ひしりと捕まってしまったし。
ハルウララは俺の担当ウマ娘で、俺はハルウララのトレーナーだ。今まで通り、これからも。
そう、心の中で描いた言の葉を咀嚼する。
「ごめんな、何度もウララを泣かせて」
ぽんぽんと、背中をまた撫でてやる。ウララの小さく力強い身体は、より俺の身体にしがみつく。
「……むー。……そうだ! 泣いた分、もういっこお願いを聞いてよ、トレーナー!
……眼を、つむってほしいなー……?」
逆らえるわけがない。意図もわからず、眼を瞑る。
沈黙。どうしたんだろう、でも眼を開けるわけにはいかないし……。一言声をかけようか、迷う。そして、口を開く。その時だった。
柔らかい感覚が、開かれた口を塞ぐ。声は出せない。驚きで、すこしも動けない。
感覚は離れて。ウララは何事もなかったかのように、言葉を紡ぐ。
「……えへへ、トレーナー! これからもよろしくね!」
月明かりに照らされたその顔は、桜桃のように真っ赤だった。