心臓から血が流れている。気分はそれなり、レース前にコーヒーを一杯嗜む。血とコーヒーが混ざり合い、私は黒と紅に染まる。身体の内で液体が煮えたぎる。
走れるから私たちは走る。勝ちたいから私たちは走る。走ること、勝つこと。それがウマ娘の本能だから。はるか昔にどこかで聞いたその言葉の意味が、今ならわかる。
そして。私はこの瞬間も、走り続けている最中だ。まだ届かない、楽園へ向かって。君と私の理想郷へ向かって。
今日のレースは有馬記念。おそらく最も有名なレースであり、世代を超えた猛者が集う。私が今からやらなければならないのは獅子の狩りではなく、王者の首を掻き切る大物喰いだ。
「……テイエムオペラオーに、メイショウドトウ、ですか」
その戦績はまさに比類なく。彼女達の見る景色がどんなものなのか、興味が湧いた。私は常に追い立てる猟犬であり、追われる者の立場には立てていない。最初に追ったのはアグネスタキオン。……彼女にはまだ、追いつけていない。私はまだ走らなければならない。そうでなくては、追いつけない。追い越せない。
部屋を出て、少し外を見て回る。トレーナーさんはまだ来ていないのだろうか。ありえないとは思うが、もし君が来ないとしたら。私はどうすればよいのだろう。この舞台は、君に捧げる舞台なのだから。私は君がいなければ、走れないのだから。
「……おや。そこにいるのはマンハッタンカフェ君じゃないか」
名前を呼ばれ、振り返る。
「……あなたは、テイエムオペラオーさん」
「……実はボクも君のファンの一人でね。いやなに、君は女優ながら歌唱力も素晴らしい。そのことを純粋に称賛していた。だから、君のトゥインクル・シリーズへの参戦には驚いたよ」
「……そうですか、ありがとうございます」
彼女が見ているのもまた、私を包む情報だけなのだろうか。そう思った。
「でもね」
「……?」
「君を今見て、それまで構築していた勝手なイメージはすぐに崩れ去った。……君は、王の首を狩りかねない逸材だ。その目。闘志。わかるとも。済まなかったね、正直侮っていたかもしれない」
「……こちらこそ、申し訳ありません。その王位は見せかけのものかと勘違いしていました」
「……はっはっは! ……いいね。そう、人は余りにも現実離れしたモノを目の当たりにすると、それを歌劇や戯曲、誇張や幻想だと思いたくなるものさ。でも、ボクは違う。世紀末覇王は此処に在る。……そして。君も紛れもなく、"本物"だ」
瞬間、彼女の眼差しが強くなる。それはまさに、威光と呼ぶに相応しく。
「……オペラオーさ〜ん、どこですかぁ〜?」
「おっと。ドトウが呼んでいるみたいだ。……彼女も強いよ。侮るべきではない……なんてアドバイスは不要かな。では」
そう言って、テイエムオペラオーは去っていった。その風格はまさに老王。全盛期を過ぎて尚、立ち振る舞いに衰えはない。
「……それでも。私がやることは変わりません」
走れる限り、走る。胸を借りるつもりなどと生半可な覚悟ではない。胸に食らい付き、心臓を食い破る。それが私の楽園への覚悟だ。
「……カフェ? どうしたんだ、控え室から出て」
「ああ、トレーナーさん……いえ、少し暇潰しを」
「……緊張してるのか?」
「……何故?」
「いや、落ち着かないから出歩いてたとしたらそうなのかなって。なんてったって有馬だからなぁ」
確かに、少し。気分は落ち着いていないかもしれない。昂っていて、滾っている。
「……そうかもしれません。……と、いうことで」
思い切り抱きついて、胸に顔を埋める。引けていく腰を掴んで離さない。すーっ、はーっ。深呼吸をする。君の匂いを身体に取り込み、私の匂いを君に擦り付ける。
「……ふぅ、これで。では、いってきます」
「……ああ。いってらっしゃい」
今なら、本当に。楽園に手が届く気がした。
「年末の中山、有馬記念! あなたの夢、私の夢は叶うのか!」
私の夢。あなたの夢。それは私たちにとっては同じものだ。私と君は、同じ夢を見ている。
「ゲートイン完了、各ウマ娘一斉に」
だから。ここが夢を叶える舞台なら。
「スタートしました!」
夢を束ねている私たちが、負けるわけがない。
割れんばかりの大歓声。彼らは誰に夢を託しているのか。先行している二対の王が、やはり今年の大本命。テイエムオペラオーとメイショウドトウ。私を呼ぶ声は決して一番大きくはない。
中団から全体を見渡す。蹄鉄の音が鳴り響く空間。残りは遠くの歓声と、己の息の音だけ。それはここに走る全てのウマ娘にとって平等で、だから私には王座へ喰らいつく資格がある。
幾千の風を切り、集団が徐々に速度を増していく。一人、また一人。一度抜き去った相手には二度と抜かれるつもりはない。だから私の走りは獲物を捕らえるが如く。
「最終コーナーを抜けて、テイエムオペラオー徐々に進出!」
これなら、
「……ふーっ……」
いける!
だん、と思い切り地面を踏む。抜く、抜く、喰らう、鏖殺する。速度の先にある、退屈を射抜いてくれる刺激。その快感に嗤ってしまう。そう、誰が相手だろうと。私の走りには何の関係もない。皆平等に狩るのみ。
「マンハッタンカフェが外から一気に突っ込んでくる! 追い縋る子たちは届かない!」
「マンハッタンカフェ、ゴール! 一着はマンハッタンカフェ! 年末のグランプリを制しました!」
君がいれば、私はどこまででも走れる。
「……おめでとう、カフェ君」
「……ありがとうございます、オペラオーさん」
「……はーっはっはっ! まさに完敗! ……いよいよ我が御世も終幕ということかな、ドトウよ」
「えぇっ、私ですかぁ!? ……えっと、とりあえずおめでとうございます、マンハッタンカフェさん」
「はじめまして、メイショウドトウさん」
メイショウドトウは自信なさげなウマ娘だったが、その走りは本物だった。私は強敵たちに打ち勝ったのだと今になって実感する。
「……実はね、ボクたちはこのレースを以て引退することにしたよ」
「……それは」
引退。アグネスタキオンのことが頭をよぎる。
「……うん。これからは君たちの時代だ。君は新時代の幕開けを告げるウマ娘となるだろう」
「……どうして、ですか」
まだ、走れるはずなのに。走り続けるのがウマ娘だ。私たちは永遠であるはずだ。
「……ボクは強かった。けれど、それは永遠じゃないからさ。それに今日、勝つことはできなかったけど」
一拍置いて、テイエムオペラオーは続ける。
「確かに、走り続けたことへの答えを見たからね。……それ以上は、幕引きを誤る行為だよ」
「……私もオペラオーさんと一緒に引退します。私はオペラオーさんのライバルですから。同じ時間を過ごしたい」
「……お疲れ様でした。そういう他ないのでしょうね」
答え。私には答えが見つかっていないけれど。答えが、楽園が見つかれば。私も走る理由を完結させるしかないのだろうか。
ライバル。私にはライバルがいない。私は孤独に戦い続けるのだろうか。……もう永遠に勝てない一人のウマ娘が、頭を掠める。
楽園に一番近い位置まで来た私は、もうすぐ終わりなのだろうか。永遠は退屈だ。だけど、今の私はこの時間に終わってほしくない。
「おめでとう! カフェ!」
トレーナーさんが自分のことのように私の勝利を喜んでくれる。トレーナーさんの方から抱きついてくるのを、逃さず捕らえる。私と君が一緒にいて、とても幸せだけど。この関係は楽園への契約だ。ならば。私が辿り着いて仕舞えば、終わる関係なのだろうか。
それなら、私は。
連れて行って欲しくなんか、ない。
失楽園の漆黒は、光の陰にある闇を望んで。