放課後、熱く黒いコーヒーを嗜む。いつもの通りのルーティンだが、今日は二つ違うところがあった。一つはここが生徒会長室であること。そしてもう一つは、目の前で同じくカップに手をつけているトレセン学園生徒会長、シンボリルドルフの存在。
「よく来てくれた、マンハッタンカフェ」
「流石に会長さんのお呼び出しとあらば、出向かないわけにはいきませんよ」
「……なかなか君を捕まえるのには苦労させられたがな……」
おっと。そういえばトレーナーさんと会っている時は、他の連絡手段は全て電源を切っていたっけ。
「……それは申し訳ない」
「いや、こちらこそすまない。忙しい中、感謝する。……さて」
シンボリルドルフはカップを置いて、向き直る。此方に向けられるその風格は皇帝と呼ぶに相応しいものだった。気を抜けば喰われるのはこちらの方、そんな気がした。
「今度、君が春の天皇賞に出走すると聞いてね。……まずはそのことについて激励を」
「わざわざ会長さん自らの応援とは、痛み入ります」
「君が挑戦しようとしている記録は、難攻不落の巨大な壁だからね」
「……記録?」
「おっと、これは失礼。まずは説明からかな」
少し以外そうな表情をされる。私は走れればそれでいい。君と走れればそれでいい。何か大記録に手が届きそうだなんて思いもしなかった。その記録に届けば、楽園にも手が届くだろうか。届いてしまうだろうか。
「中央におけるGⅠレースのうち、最も距離の長い三つ……京都3000m、菊花賞。中山2500m、有馬記念。そして京都3200m、天皇賞(春)。これをクラシックからシニアにかけて連闘し、三連覇を成し遂げる」
「……なるほど」
「長距離重賞の最高峰を総なめし、最強のステイヤーとしての功績を打ち立てる。この記録は現在、ただ一人のウマ娘によってしか達成されていない」
「その一人とは」
「私だよ」
「……自慢話ですか」
そう皮肉を突き刺すと、シンボリルドルフはそれを笑って受け止めた。
「ふふっ、そうだな。そう捉えられても仕方ない言い回しだった。……ああ、でも。これが偉業だと言うのなら、達成したことを誇りに思うし、また達成されることを心待ちにしているとも」
「……貴女の後に続いて欲しい。それが今回の話の肝ですか? もしそれだけなら、大した話ではなかったですね」
私が誰のために走るか、何のために走るか、なんて。それは変わらず、決まり切っている。
「……いや、もう一つ話があってね。こんな昔話だけで君を退屈させたりはしないよ」
「……ほう」
私を退屈させないと宣言するなんて。面白い。
「もし、もしだ。レースに絶対はない。勝った後の話をするのは愚かしいことだ。そうだとしても、もし。君が春の天皇賞を獲ったなら」
ゆっくりと、彼女は言葉を吐き出す。重く、強く。
「君には、私を超えて欲しい」
その言葉には、僅かに切実さが込められていた。
「……超える。七冠バの貴女を?」
「……問題なのは強さだよ」
強さ。それは記録では測れないものだろう。
「マンハッタンカフェ。私にも不可能だったことがあるんだ。日本で幾ら勝利を重ねても、終ぞ」
彼女は少し拳を握る。悔しさというものを、無敵の皇帝から初めて感じ取る。
「海外、ですか」
「……そう。運や巡り合わせもあっただろう。それでも私は二度、確かに失敗した。遂に最後まであの門を拝むことすら叶わなかった。……世界最高峰のレース、凱旋門賞を」
凱旋門賞。私でも聞いたことがある。
「……確か、日本から出走したウマ娘で勝った者はいない」
「そうだ。我々の悲願。尤も私は挑めてすらいないけどね。……今でも偶に、夢に見るよ。おっと、それはともかく」
「マンハッタンカフェ。君が天皇賞で勝ったなら、君は紛れもなく世代最強だろう。そして私と同じ道を歩むことに成功し、更にその先へと行ける」
世代最強。そのフレーズを聞いて僅かに頭を掠めるものがあった。私はその称号に、本当に相応しいのか。けれど。
その先にいけるなら。まだ、私たちはゴールに辿り着かない。楽園への道筋が続き、君との時間を重ねられる。そうしていられる。
「……分かりました。……勿論、勝ってからですが」
「……応援しているよ。心から」
空気は緩み、今度こそ解れる。けれど心の内の黒は濃く、深く闇を増していく。
本当は、凱旋門賞にそれほど興味があるわけではない。けれどそこには、まだ誰にも到達できていない何かがあるという。それならば、私たちが向かうべき楽園に近い。前代未聞、荒唐無稽。果てなく空に浮かぶは天の庭。私たちは楽園に向かう。その道筋はまだ終わらない。
私の願い。君との楽園。海の先にそれがあるというのなら、千里を越えてみせようじゃないか。
ねえ、早く連れて行って。
失楽園の漆黒は、灼き尽くすような光へと冀望の翼を掲げる。