天皇賞を終え、夏合宿までの僅かの間にある何もない日のこと。トレーナー室でトレーナーさんと私が二人でいると、唐突にアグネスタキオンが扉を開けた。
「久しぶりだね、カフェとそのトレーナー君。……いや君にはカフェのトレーニングについてよく電話をさせてもらっていたか……」
その言葉を聞いて少し腹の中に煮えるものがあったのは否定しない。まさか目の前の女性が横から君を掠め取ってしまわないか──なんてことを考えてしまい、すぐさまその強欲さを恥じる。
「……それで? なんの御用でしょうか、タキオンさん」
努めて冷静に。仮面を被るのは私の日常であり、己を無に変換することはなんの苦痛もない。
「いやなに……たまには我がBプランへの賛辞を送らねばならないと思ってね……
此度の春の天皇賞、勝利おめでとう。そして……その先」
「ご存知とは、流石ですね。……そう、私のゴールはここにはない。私たちは凱旋門を獲ります。難攻不落の頂点へ、必ず」
「……いやなに、君のトレーナーから聞いたんだけどね」
また、心が熱く熱く。熱で焼けた仮面をもう一度付け直す。努めて、私は冷静に。
「……そうですか」
「……いつもありがとう、タキオン。カフェがここまで来れたのは、君の助力も大きい」
「私の全てを託すつもりだった存在だからね。開始前によく吟味する代わりに、一度開始したプランは必ず成功に導く。それが私のモットーなのさ」
……二人は私をよそに、談笑する。私と君のための空間に、違和感なく滑り込んだ異物。
「……タキオンさん。どうもありがとうございました。では、そろそろ」
ここから。
「……む。私はまだ肝心な用を済ませていないけど」
「……は?」
するとアグネスタキオンは、一つの小瓶を取り出した。一歩、引かざるを得ない。
「……また怪しげな薬品ですか? 私にもトレーナーさんにも、そんなものを飲ませるつもりはありませんよ」
警戒を発すると、彼女はクックッと笑い声を上げる。
「……ああ、違う違う。これはボトルメッセージさ。海の向こうのマンハッタンカフェというウマ娘に届けてやってほしい」
「……やれやれ。相変わらずあなたは持って回った言い回しをしますね。……要はあっちに行ってから開けろ、と」
タキオンはこちらに返答する代わりに、続けて一つの注意を述べる。
「……それともう一つ。"開けたくなるまで、開けてはいけないよ"」
また煙に巻くような発言。この人は本気で何かを伝えようとしているのだろうか?
「……それなら永遠に開けませんが、悪しからず」
「……構わないさ。……では、邪魔したね」
そう残して、アグネスタキオンは嵐のように去っていった。……全く。いつのまにか私の抱えた嫉妬を冷ましてしまったのだから、つくづく侮れない。
「……トレーナーさん、この瓶は預けます。今は夏合宿のことを考えたいので」
「ああ、わかった。……そうだな、海外に向かうための最後の夏合宿。君を、ようやくどこかに連れて行ける」
どこか。おそらく君のいうそれはあの門を潜ること。私の見るそれは、そこにある運命を超えること。
夢に見たあるはずのない未来。マンハッタンカフェは凱旋門賞で惨敗し、その競争生命を終える。
そのイメージは日に日に鮮明になる。まるでカウントダウンするかのように。まるで、最後に現実になるかのように。
「……ええ、お任せを」
運命を越えなければならない。楽園はその先にあるのだから、私たちのやることは変わらない。
「血に飢えた猟犬のように、最期まであなたの命に従いましょう────」
たとえ私が愛という罪を孕むとしても。
たとえ私が楽園を終点とすることを望んでいなくても。
たとえ私が破滅の運命の輪に逆らうドン・キホーテだとしても。
君が私との楽園を望むのなら、私は征かねばならない。
失楽園の漆黒は、断頭台へとまた一歩。