電車に乗ると、周囲の目線がこちらに集まってきた。これは動物として自然な反応で、それなりにリラックスした空間に入り込む余所者を誰しも警戒してしまう。やはり、人は獣の一種に過ぎないのだ。
それでも理性は目を逸らさせ、すぐに全ての人は自分の空間に戻るのだが……。
おや。どうにもこちらを見る視線は収まらない。職業柄目線には敏感になっているが、それでなくてもこれだけの視線は誰でも気にしてしまうのではないだろうか?
……確かに今の自分の格好は、少し目のやり場に困るかもしれないが。それでいい。
今日から2度目の夏合宿。君のためにおめかししたいというのが乙女心だ。
君と私の運命を超えるため。最後の追い込み。あるいは最後の夏。
「……おっ、あれはカフェだな」
バスを待ちながら、遠くに黒い長髪を湛えた彼女の姿を見る。今日からマンハッタンカフェとの夏合宿が始まる。去年の夏合宿を思い出すと、なかなか波乱があったような……。白いワンピース姿で現れ、私物の水着を着たカフェに日焼け止めを塗り……。
一見静かで大人しそうでいて、意外とカフェは有無を言わせない行動を取ることがある。とはいえその力強さが彼女をここまで連れてきた。今ならわかる。
「凱旋門賞、か……」
これから俺と彼女が挑むのは、難攻不落の凱旋門。誰一人として日本のウマ娘はその頂を獲れていない。前代未聞の偉業へ向けて。その呪いを、彼女なら。
……と、ゆっくり歩いてくるマンハッタンカフェの姿が徐々に近づいていた。制服ではなく、今年も少しお洒落をしてきているような──。
「あれ……カフェか……?」
近づくにつれて、その人影がよく知る少女であると信じられなくなる。あまりにも、普段のイメージと違う。今までもそんなことは何度かあったが、今回は特別違う。
一言で言えば、快活で、扇情的な服装だった。上はノースリーブのトップスで、胸のすぐ下で布は途切れている。下はミニスカートだけで、色白な肢体が惜しげもなく曝け出されている。
「おはようございます、トレーナーさん」
彼女は確かにそう言ったのだけど。
「……ああ! おはよう、カフェ」
目が泳ぎ、答えに躊躇ってしまう。……やはり彼女は人気女優なのだと、久しぶりに思い出す。このような服でさえ着こなしてしまうのだから。
「……ふふ。見惚れてしまっていましたか? ここに来るまでもそうでしたので、隠さなくてもいいですよ」
そう、妖しく笑う少女は。少女と言い切るには余りにも艶やかで。
「……いや、その……目のやり場に困るかもだが。似合ってるよ、すごく素敵だと思う」
「……それなら良かったです」
けれど薄く浮かべた笑みは、今度こそ少女のそれで。危ういバランスの上に成り立つものの美しさというものを、初めて目の当たりにした気がした。
そうして、夏は過ぎていき。海外のレースは全てが未知の領域。相対する者も、走るべきターフも。だけど、見えない目標に向かって走るのには慣れている。私はまだ、君に連れて行かれる最中なのだから。
今日の夜はトレーナーさんと祭りに行くことになっている。ミニスカートと薄手のトップスに身を包む。学園指定の水着よりよっぽど露出が多いかもしれないな。
だけど、君の目は捕らえられたから。これはきっと間違いじゃない。
トレーナー寮に向かうと、示し合わせたようにトレーナーさんが出てきた。こんなタイミングの一致すら運命を感じさせて、心がときめいてしまう。
「……おお、カフェ。……夏とはいえ、それ寒くないか?」
「……そうですね、少し寒いかも」
そう言って、私は。
ぎゅっ、と。
「……俺の腕はそんなに暖かいかな」
「ええ、もちろん」
だって君に抱きついていれば、それだけで私の身体は灼かれるように熱くなるのだから。
祭囃子が鳴り響く屋台通り。ずっと、身体で君の腕を包んでいる。
「そこのお熱いカップルさん、こっちはどうだい!」
「ああいや、俺たちは……」
そんなふうに否定したって、人の見る目は変わらないのに。顔を赤くして必死に説明する君を見て、さらに身体を擦り付けてやる。
「……人が多いと目立つな」
「目立つのには慣れていますが」
「俺は慣れてないよ……」
そういうことなら仕方ない。人気の無い所で二人きりというのもいいものではあるし。
祭りの中心から少し離れた高台に行く。……人は少ないけれど、其処にいたのはカップルばかりだった。おやおや困ってしまうな。
「ここなら目立ちませんね、トレーナーさん?」
「……そ、そうだな……」
周りに倣うように、手すりに二人並んで腰掛ける。啄むような口付けさえ、今の私達には叶わないけれど。
「……そういえば、今年は女優の仕事はどうなんだ?」
ふと、トレーナーさんが口を開く。今年か。確かに去年は心配をかけてしまった。周りにも、君にも。
「マネージャーが色々と配慮したスケジュールを組んでくれたので。それなりに両立できていますよ」
「マネージャー、か。そういえばカフェのマネージャーさんの話、ちゃんと聞いたことないかもな」
マネージャーの話。彼女は誠心誠意、私のことを考えてくれているのだと思う。時に厄介な案件を持ってくるけど……例えば。
「レースなんかは、マネージャーの指図でしたね。女優としてのキャリアのために……と。女優のための副業のはずだったこちらにかまけている今は、彼女の本心からすれば怒られてしまうかもしれませんね」
全く難儀なのは私の元来の性格で、それに怒る気力など残っているだろうか。
「なるほど……ならマネージャーさんには感謝しないとな」
……はて。君は意外なことを口にする。
「だって、それならマネージャーさんのおかげじゃないか」
瞬間。
ぱぁん、と打ち上がり。ひゅるるる、と上り。
「俺が君に会えたのは。一緒にレースに向かえるのは」
どかん、と花火が咲いて。君と私を鮮やかに染めた。
光華爛漫。君と私を照らす夢。
「……そうですね、彼女のおかげかもしれません」
「いつか、会わなきゃな。君を支える者同士として話してみたいよ」
「……では、凱旋門での勝利を手土産にしましょうか」
「……ああ」
「……綺麗ですね」
私の眼は、君の瞳に映る華を見遣り。
「……そうだな、すごく綺麗だよ」
君の眼は、私の瞳に落ちる影を映して。
二人の影は。生み出す闇は。一つに重なる。
失楽園の漆黒は、夜の闇に咲き誇る。