歩く、歩く。ゆっくりと、トレーナーさんと手を繋いで。それだけで私は幸せだけど、どうも先ほどからのトレーナーさんはしきりに腕時計を見ていて落ち着かない様子だ。
「……やっぱり……いや、これくらいなら想定内だ」
今日の"お出かけ"のコースはトレーナーさん主導だ。次はどこへ連れて行ってくれるのだろうか。そう、私が心を弾ませていると。
「よし、カフェ。ここら辺で徒歩は終わりにしよう。その、間に合わない」
む。
「私と歩くのは嫌になりましたか……?」
そうではないとしても、そう言いたくなるのが乙女心というものだ。
「いやいや! そう、ここからは自転車を借りようかなと」
むう。君との触れ合いがなくなってしまうのは忍びない。……しかし。
「約束する。絶対君を最後まで連れて行きたいんだ。そのために」
彼の言う最後とは、この道の終わりか、はたまた。
「……わかりました。トレーナーさんを信じましょう」
そう、決めた。ずっと前から決まっている。
パリにはヴェリブという市が提供する貸自転車システムがある。景観を損なわない程度に自転車置場とレンタル待ちの自転車がそこかしこに並んでおり、最初の30分は無料。つまり街中で出発地点から目的地まで30分以内に移動してしまえば、レンタルの料金はかからないという寸法だ。
けれど、一つ問題があって。
「……じゃあ、私は並走しますから」
「いいのか、トレーニングでもないのに。……ほら、これだけ空きはある。ちゃんと二人分あるんだ」
問題というのは。
「……その、自転車は」
「自転車は?」
「……乗ったことが、なくて……」
私は自転車に乗った経験がない。子供の頃から部屋の中で過ごすことが多かったし、走れば移動には困らなかったから。現に今だって、自らの脚を使えばなんの問題もないだろう。
だけど。
「……そうか、そう言われるとその可能性はあったな……。しかし、カフェを一人走らせるというのは……」
「トレーナーさんには、私を連れて行きたい場所があるんですよね」
「ああ、そうだな……。確かにそのためには、急がないと」
「……それなら、尚更。……トレーナーさんと同じ目線を持ちたいです」
だから。
「私も乗りましょう。……体幹ならそれなりに鍛えていますから。初めて、ですが」
他愛もないことだけど、君の手で。君の手で、初めてを経験するのだ。それはどんなにか素晴らしい。そう、想う。
「……っと、止まると転けてしまいますね」
サドルに跨り、ペダルに足をかけ。まるで生まれたての子鹿のように、よろよろと動き回る。
「……さて、行きましょうトレーナーさん」
「……よし、カフェが勇気を出してるんだしな」
「ふふっ、大袈裟ですよ」
並んで、走り出す。戸惑う私を、君がリードする。まだ手を引かれているような幻覚。何度も丁寧にこちらを確認する君は、きっと優しいのだと思う。そうして視線が合うと、私は少し笑ってみせる。
あくまで私は君を捕える者だから、強者の余裕を誦じるのだ。たとえ、心は既に君に囚われているとしても。
「……っと」
気は抜けない。確かに走るよりは楽だけれど、操縦はなかなか難しい。ハンドルに汗が滲んでいる気がする。
「うまいぞ、カフェ」
「ありがとうございます……。……っ!」
不意に。
がたん。気の緩みからペダルを踏み外し、バランスを崩す。危ない。維持を諦め、そのまま倒れ込もうとしたところで。
「カフェ!」
横から飛び込んできた人影が、私を包んで引っ張る。倒れゆく方向は反転し、暖かいクッションが私を包んだ。
がしゃん、と二台の自転車が倒れる。それと同時に、私の心臓が跳ねる音がした。
トレーナーさんが、私を抱きしめている。私が倒れるのを庇って、そのまま地面に己を引き摺り込んだのだ。私の身体に一分の痛みも走らないように。その気遣いを理解しただけで、私の心臓は切り裂かれたように血を流す。
熱く、熱く。君にそのつもりはないのだろう。きっと万一が私に起こらないように、思わず体を投げ出しただけ。それでも、それでも。
「……カフェ、ごめん……。大丈夫か……?」
言葉を使うことなく、こっそりと君の背中に手を回して。愚かと言われようと、やはり。
私は君の身体に触れるだけでときめいてしまう。私は君の心が触れてくるだけで色付いてしまう。だって、だって。
私は、君のことを愛してしまっているから。
日はまだ陰らない。まだ、私はこれを逢い引きと幻視できる。