「注目のマンハッタンカフェ、ゲートに入ります」
馬場は良く、枠番も悪くない。それでも存在する圧倒的なアウェー。最早現実と見まごうほど鮮明に脳裏を蝕むようになった敗北の運命。マンハッタンカフェは凱旋門賞で惨敗し、その時の怪我で競走生命を終える。
だから走るな? 見えた破滅に飛び込むな? 灼日に身を投げるのは愚行であり、可能性のない挑戦は何も生まない。だから。
それは正しい。正しい。だが、だからこそ。私は最初から罪科の黒に手を染めている。私は髄まで咎罰の闇に脚を漬けている。
故に私にとって正しさとは相容れないものであり、また受け入れる必要もない。私が邪道を走り続ければ、運命さえも捻じ曲がると信じている。
そう信じてくれている人が、いる。
「ゲートイン完了」
君と私は、ここから始まる。スターティングゲートの先には、漸く届く楽園が。そこが神の座だというのなら、神殺しを為して楽園を手に入れよう。
歓声。ゲートオープン。踏み出した一歩目。どれが最も早かったか、或いは同時だったか。大した差はなかった。待ち侘びて弾けるそれぞれのタイムラグはゼロに等しい。
わかるのは、はっきり一つわかるのは。私は、マンハッタンカフェは。抜群のスタートで飛び出したということだ。
そう、思わず笑みを溢してしまうほどに。昂りが頬を緩ませた。或いは引き締め、その歪みを口元に浮かび上がらせた。
……と、掛かってはいけない。ペースメイクを行う先頭が固定されると、私は好位に付けて追走する。気持ちの昂りはレースに於いてままあることだが、自分でも異常なほどに興奮している。
だが、それで瞳を炎に曇らせることはない。冷静に、獰猛に。全ての狂気は刹那に於いて解放されるべきだ。刃物の切れ味は殺せなければないのと同じだ。だから、更に研ぎ澄ませなければ。
坂を越えた先の第3コーナー。ゆるやかだが着実な下り坂は、春天や菊花賞で淀の坂を越えた後の下りを思わせる。……いや、それよりはるかに難しい坂だ。一歩の幅、ペース配分、踏みしめるは慣れないロンシャンの芝。どれも緩やかにこちらに牙を剥いてくる。
だが。私がやることは、君をゴールへと連れて行くこと。君がここまで連れて来てくれたのだから、私はそれを継ぐしかない。そのためにいる。
それ以外は、いらない!
ぞくり。身体を、全身を何かが迸る。手ごたえが、あった。見えた。視界を埋めていた絶望が、眩い光に染め返されて行く。運命よりも強い、勝利の糸が私から伸びている。
第4コーナー手前の300m。ロンシャンレース場最後の難所、フォルスストレート。偽りの直線、偽りの終わり。それに遮られるものがあるとしたら、きっと我々の繋がりも偽りなのだろう。
けど、違う。ここまで来た。ゴールは見えた。抜かなければいけないウマ娘の数などどうでもいい。私が走れば、全て抜き去れる。全て、鏖す。
だか、ら─────
がくん。
その感覚は、体験したことがなかった。恐らくほぼ全てのウマ娘は知らない。知っているわけがない。
知ってしまったら、走れないから。
だめだ。
だめだ。
なにが? 私は脚が折れても走ると決めたじゃないか。私には君がいるじゃないか。私はトレーナーさんを、裏切るわけにはいかない。だから、文字通り死んでも走るのだと!
そう、脚に告げるのに。脚は、脳より先に全てを理解してしまった。運命のレールに、両脚が沿う。私の意志から、離れていく。
ぷつん。
その時解けたのは、勝利の糸か、緊張の糸か、あるいは。
※
「大丈夫か、カフェ!」
トレーナーさんが駆け寄って来る。私はしっかり両脚で立っている。演技もしていない。それなのに、何を心配して……。声が出ない。確かに自分の顔が涙を流し、満面の笑みを浮かべているのはわかるのに、それ以上がわからない。まるで内側と外側が区切られてしまったかのよう。
「……とりあえず、病院に行こう」
その声が、私に向けてのものだとわかるのに。私には、届いていない気がした。
※
「屈腱炎です」
「そんな、それって……」
屈腱炎。あのアグネスタキオンもだったな。ウマ娘が一生走れないといえば大体これだ。
「……それより、問題かもしれないのは」
「屈腱炎より……?」
医者はこちらに向き直り、ジロジロと観察する。流れる涙が邪魔で相手が上手く見えない。引き攣るように裂ける口元がだらしなく唾液をこぼすのも、ついついそのままにしてしまう。
「マンハッタンカフェさんは、確かにレース中脚の故障に気付いたようです。途中で様子がおかしくなったので、恐らくその時。それゆえに、最小限の故障で済ませることができた……ですが」
「……」
私は何も言わない。言葉の動かし方を忘れてしまったから。端的に言えば失語症だ。潤い続ける瞳と、開き続ける口と。私の何もかもが、歪んでしまったようだ。それを見る心も含めて。
「マンハッタンカフェさんは、深い傷を負いました。なにより、心に。それを助けてあげられるとしたら……トレーナーさん」
「俺に、できますか」
「……」
「……昔だったら、こんなふうに何も言わないカフェを珍しがりもしなかったと思う。でも、今は君の少しの異変だってわかる。……今の君なんて、目を覆いたいくらいおかしいだろうな」
「……」
私の顔は変わらない。私の心は俯瞰している。身体の中の繋がりが全て、途切れたような。
「敗北のショック……君がそのせいでこうなったとしたら、君をここまで連れて来た俺には責任がある。当然だ。君をスカウトして、勝たせて来た責任がある。……だから、カフェ」
「……」
「俺が、君を連れて行くよ」
その言葉が、確かに。僅かに。密かに。強かに。
「……ねえ」
「早く連れて行って」
私に、響いた。呼応するように、開け放たれた口から語句が漏れた。
それきりで、マンハッタンカフェの肉体は再び焦点の合わないヒトガタへ戻る。私の心は正常でありながら無感動で、そもそもマンハッタンカフェの身体と心が切り離されている異常を理解出来ていない。
ただ、結果として。凱旋門賞の後に残ったのは。
13着という結果。失語症と精神の錯乱と脚の故障を抱えた、マンハッタンカフェという"終わった"ウマ娘。
そして、何を考えてるのかもわからないトレーナーさん。
はて、私は何に立ち向かい、愚かにもこの結果を得たのか。黒すら失った無色の私には、何も思い出せなかった。
※
少女は壊れた。運命の車輪を越えられないことを証明したことで。だが、なら運命は変えられないのか? そう、決まってしまっているのか?
魂に刻まれた運命の先。光速で世界を描く運命を捕まえるもの。
光の先、そこにいるのは。そして、並び立てるのは。たとえ一度斃れたとて、翼が焼かれたとて。それは挑戦をやめる理由にはならない。
さあ。
楽園へと、羽ばたこう。