ウマ娘の某所に載せた短編集   作:春華ゆが

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こえる


初期設定のマンハッタンカフェと運命を超えて

 マンハッタンカフェというウマ娘がいる。女優として活躍していて、レースの世界とは関わらなかったウマ娘。それが一人のトレーナーと契約して、ターフへと足を踏み入れた。楽園へと向かうために。しかしその道は決して楽ではなかった。惜敗を喫し、リベンジの機会も与えられなかった。

 勝利の後には孤独を感じた。それでも夢を空に見て、朧げな翼で羽ばたき続けた。苦難の中で、確かに実績を積み上げた。それを、俺は見ていた。骨身を焼いて捧げ続けた。彼女が一人で歩けるようになるために、我が身を滅する覚悟だった。

 なのに。

 凱旋門賞。レース中での故障と、惨敗。

 屈腱炎の発症と、精神的なショックによる失語症。マンハッタンカフェはそれきり糸が切れたようになってしまった。あらゆる異変よりも、彼女の魂が抜けてしまったようなそれこそが取り返しがつかない気がした。俺は結局何もできていなかった。以前の俺なら、そう思って止まっていたかもしれない。

 けれど、今は違う。俺は彼女を信じる。彼女が信じて、着いてきてくれた己という存在がいる。俺はマンハッタンカフェのトレーナーだから、彼女が信じてくれた自分自身を信じるのだ。言葉を失う前に、彼女が最後に告げてくれた言葉。

 俺に、答えてくれた言葉。

 

「ねえ、早く連れて行って」

 

 最初に彼女が告げた言葉と同じ。走ることを決意した言葉と同じ。だから、まだ彼女は羽ばたける。羽ばたく意思がある。

 

 ※

 

「おはよう、カフェ」

「……」

 

 彼女の介護と療養のためもあり、俺たちはまだパリにいる。彼女の心はこのパリに囚われているのだと思う。だからまだ帰るわけにはいかない。

 

「ほら、カフェ。朝ごはんを食べに行こう」

 

 今日もホテルのビッフェへマンハッタンカフェを連れて行く。抵抗はない。彼女は何も喋らない。彼女に宿っていた何かが立ち消えてしまったかのように。もう、そこにマンハッタンカフェはいないかのように。

 脚の不調もある。ゆっくりとテーブルへ連れて、食事も全て代わりに取ってやる。これくらいしかできないのがもどかしい。だけど必ず彼女を取り戻してみせる。

 レースを司る三女神が存在するというのなら、彼女にもう一度。もう一度翼を授けて欲しい。そう、願う。

 

「美味しいか?」

「……」

 

 返答はなくとも、心は繋がっている。言葉をかけるたびに、彼女の心をこちらに引いてこれるはず。非現実な発想だとしても、その虚な瞳と曖昧に開く彼女の唇を見て何かしないわけにはいかない。

 部屋に戻ってやることは、彼女に本を読み聞かせること。何もしなければ、本当にマンハッタンカフェは死んでしまう。脚より先に、心が骸に堕ちてしまう。だから俺は必死にもがく。彼女が今まで闘ってきたように、そのトレーナーとして闘うのだ。

 

「……」

 

 それでも時間は無常で、何事もないかのようにただ過ぎていく。引退。きっとそれがマンハッタンカフェが辿るべき運命で、俺がやっているのはそのレールを違えることなのだろう。

 それでも、それでも。諦めるわけにはいかない。

 そう思った時だった。

 不意にマンハッタンカフェが立ち上がる。暫くぶりに意思を持って、よろよろと歩き出す。

 

「カフェ!」

 

 咄嗟にそれを支える。倒れそうになる彼女を抱き止める。カフェに変化があった。その理由を逃さないように周りを見渡す。彼女の震える眼が何を捉えているのか。その先を、見る。

 ……一つの小瓶が置かれていた。これは。

 

「……タキオンからの贈り物、だったな」

 

 凱旋門に向かう前、アグネスタキオンから渡されたボトルメッセージ。あの時は激励の意図を込めたものだと思っていたが、結局開かずに凱旋門賞は終わってしまった。

 これを渡した時のタキオンの言葉を思い出す。

 ───開けたくなるまで、開けてはいけないよ。

 そう、カフェに向けて言っていた。……まさか。

 

「開けたいのか?」

 

 それを渡された時とはまるで変わってしまった彼女に問う。返答はない。カフェはうめくように両手を宙で泳がせている。

 

「……わかった」

 

 なら。

 

「開けるよ」

 

 今が、その時なのだろう。

 

 

 小瓶の中には折り畳まれた紙が入っていた。恐る恐る、それを開く。

 

「これは……アドレス?」

 

 恐らくアグネスタキオンが立ち上げたwebサイトのURL。それが小瓶の中のメッセージ。

 いつものカフェがいたら、「やれやれ、相変わらず回りくどいですね」などと言っていただろう。

 藁にも縋る思いでそのURLを手元のパソコンに打ち込む。……そこにあったものは。

 

「これは……タキオンの言っていたBプランか。カフェに思いを託し、あらゆる手段でサポートする」

 

 URLの先は、そのデータベースのようだった。スクロールするたびに膨大な情報が目に入る。

 

「……彼女もカフェのために全力を尽くしてくれていた」

 

 今更ながらそれを思い知る。今のカフェを見たら、タキオンは何を思うだろうか。そうしてその情報を見続けていたが、途中で手が止まる。妙なリンクを見つけたのだ。

 

「ENTER……か」

 

 悩んでいると、いつのまにか隣にカフェが来ていた。これこそが彼女へのメッセージだとしたら、一緒にこのリンクの先を見るべきだろう。

 

「いいか?」

「……」

 

 返答はない。でもきっと。

 

「開けるよ」

 

 かちり。クリック音が、確かに響いた。

 

 ※

 

 

「えー……この動画を観ているのはカフェか、はたまたそのトレーナー君か……」

「これは……タキオンが撮った動画か」

 

 画面に映ったのは白衣のアグネスタキオン。いつもと変わらず妖しい笑みを浮かべている。

 

「私は長々と説明してもいいんだが、カフェはきっとそういうのはお気に召さないだろうからねぇ……手短に言うよ」

「……」

 

 名前を呼ばれて、僅かにカフェが反応した気がする。そう思いたい。やがて画面の中のタキオンが、ゆっくりと口を開いた。

 

「年末の中山で待つ」

 

 ……なんだって?

 

「私は運命を超えた。不可能と言われた復帰を果たす。……復帰戦で討つのは、世代最強のウマ娘、マンハッタンカフェだ」

 

 ライバルだ。あらゆる理屈より先に、その語句が頭を掠める。

 

「……親愛なるBプランへ。君は間違いなく強い。私が全身全霊でサポートしたのだから当然だがね。……でも、スピードの向こうを見るのは私だよ」

 

 アグネスタキオンは、確かに競走生命を終えるとあの時宣言したのに。

 運命が、姿を変えた。ならば。

 

「……カフェ」

「カフェ」

 

 画面の中のウマ娘と同時に、俺は彼女に語りかける。

 

「私と走ってくれないか」

「俺と走ってくれないか」

 

 言葉すら重なる。けれど、その意味はまるで違うだろう。それでいい。

 

「……わた、しは」

 

 彼女の瞳に闇が宿る。口元が少しずつ、意思を持つ。

 

「俺と」

 

 そう言って、考えるより先に華奢な身体を強く抱きしめる。……彼女と契約した時の真逆だ。奇しくも外の天候も、あの時と同じ雨。

 

「俺と行こう。もう一度!」

 

 やっとわかった。彼女を連れて行くということの意味。彼女のためになるだけでは足りない。それはマンハッタンカフェというウマ娘と、手を繋ぐことを意味していて。

 手を繋いでいるなら、互いに互いを引っ張りあって。いつかは、並んで歩くのだ。そう、それが真に楽園へ行くのに必要なもの。

 

「運命は、私を運命の通りに処刑しました」

「誰にも運命なんてわからないよ」

 

 マンハッタンカフェに、魂が宿る。

 

「栄光は全て、運命の通りだと思っていました」

「そんなことない。君だから、君と俺だから勝てたんだ」

 

 彼女の両手を、強く強く握る。

 

「……屈腱炎は絶望的な故障です。まず年末には間に合わない。その先ずっと、走れないことだって」

「アグネスタキオンは復活した。そのライバルが、これくらいの絶望で挫けるわけがない。……いや、挫けさせないよ」

 

 そう、だって。

 

「君は、俺と」

「私と、トレーナーさんは」

「「楽園に行くんだから」」

 

 そう、遥か昔に契約したのだから。

 

「……ご心配をおかけしました」

「心が治っても、脚も治さなきゃいけない。……時間は短い」

「それでも、行かねばなりませんね。あのアグネスタキオンに宣戦布告をされたのだから」

 

 爛々と輝く黄金瞳。深闇を湛える真黒の長髪。そしてなにより、心に秘めたる焔の座。

 漆黒の摩天楼が、ここに帰還する。

 最愛の人と、楽園へ向かうために。

 

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