「急に『疲れた……抱いて……』とか言い始めるからおかしいと思った。
あんたが変な事言う時は、大体疲れてるか調子悪い時だからね」
「ご心配お掛けします……でも抱いて欲しいのはほんとですけど」
「調子悪い時は抱かない。あと期待しても冬の間も抱かないからね」
「む…」
「あのね、こっちだって色々と寒い時期は無理させられないと思って我慢してるんだから」
「存じ上げておりますとも。そういうことは春になったらね」
冬もだんだん深まっていく頃、無性に抱かれたくて零した私(微熱気味)の言葉を聞き咎めたヨハネさんと、そんな会話をしていた時のことだった。
「別に、付き合っててもそういう行為が必要ないってカップルもいるでしょ」
「そうだね、うちみたいな」
「じゃあ、あんたがボクに求めるものって何?」
会話の流れで、唐突にふと、ヨハネさんがずばりそう聞いてきた。
うーん、と考えるように炬燵に俯いたまま声を出すと、彼は慌てながら言った。
「別に、嫌とかじゃなくて。単純に、なんでなのかなって。なんであんたは……その……ボク、なんかと……」
その先をそんなに気まずそうに口籠らなくても、誰も聞いてなんかいないのに。
その顔を愛しくなって眺めながら、私はそうだねぇと相槌を打った。形のいいヨハネさんの眉が顰められる。
「飽きたりしない?」
「ううん、全然。愛理みたいにそういう気分じゃないから〜って相手が自分から距離を置いてくる場合は別として、そうじゃないのに私は相手を取っ替え引っ替えするような性格じゃ…ないとは言えないか。
ヨルくんにも直生くんにも、寄らせてくれるってわかったらフラっとしてるもんな」
「それは別にいいんだけどさ。あんたのは、飽きるっていうのとはちょっと違うでしょ」
「いいんだ」
「最終的に、ボクのところに戻って来るならね?」
ちゃっかり独占欲を見せびらかしてくる。でもそういうの、悪くない。
私は、過度な束縛はイヤなくせに、相手に独占したいって執着されて初めて安心するような、面倒くさい女だから。
肩を抱かれて、すっかり定位置になったその場所に収まっていると、陶磁器みたいな薄青の瞳が怪訝げに覗き込んだ。
「植能の制御に必要だから、っていう理由以外で求められると、正直意外だな、っていうか」
「そんなに私遊び人に見える?」
「『あんたが肉体関係を求める』ことが不思議なんじゃない。『あんたがボクを選ぶ』ことが不思議なんだ。
発散が必要だから、とかならまだ割り切れるかなって気がしたけど、あんたはそうじゃなくて……」
そこでまた口籠る。自分が愛されているのが、信じられないみたいに。
もうちょっと、そこは自信を持って欲しい。一応、はっきりとはどういう関係か口にしないだけで、私以外の誰の目にも見えないだけで、あなたは【オレンジの片割れ】なんだから。
どう言ったらわかりやすいかな、と考えながら、私は言葉を探した。
「……体の距離は心の距離って言葉、聞いたことある?」
「うん。電車の中で人が隣に座るのが居心地悪いのは、自分の領域に侵入してきてる感じがして落ち着かないから、ってやつだよね」
「そう、それ。
友達や恋人以上になるとボディタッチが許される人もいるし、それ以上のことを許し合う人もいるわけでしょ。
でもそもそも、身体接触したいかしたくないかは当人によるだけで、相手に抱く信頼や感情とは無関係なんだから、別にそれは心の距離とイコールでもないよね。
触りたくない人もいれば、触られない方が落ち着く人もいる」
逆に、このヨハネさんは私のことをすんなり受け入れてくれるけれど、本当は触られるのは嫌なんじゃないかと、心配になったこともあった。
そうならそうで距離の取り方を……と思ったけど、文句を言いながらも握った手を離さないこの感じは、多分それとは違うだろうという気がして、その感覚を信じたまま、甘え続けたし付け込み続けてきた。
だからたまに、こうして隣に座ったまま、手を握って気持ちを言語化する機会が出来ると、私は落ち着く。
「ただ単純に、私は親しさに釣られて触られたい方の人で、その究極形が、セクシュアルな接触になってくるってだけの話」
別にそうじゃない人を否定しようとは思わない。悪いとも思わない。
ただただ私が、そうであり貪欲なだけ。世の中に沢山の人間がいる中、たまたま私がこういう形になったというそれだけで、たまたま所謂マジョリティに当たるだけで、偉くも正しくもない。
そこだけは強調してから、私は心の内側を探るようにして目を閉じる。
「心の奥底に触れるのって、物理的にはできないでしょ。だから代わりに、一番大事なところを触って欲しいのかな。こうして……」
彼の褐色の滑らかな掌を、するりと両手で掴んで、私は自分のパジャマの胸元に当てた。
ビー玉みたいな瞳が、小さく見開かれるのがわかった。
「あなたを信頼してる、って気持ちを表す代わりに、一番脆くて柔いところを触らせてあげる。
大好きだから、私の一番……身体の奥深い場所に、触れて欲しい。そんな気持ちになる」
私はイメージする。
透明な触手が、身体を貫いて心臓の内側へゆっくり入ってくるところを。
そこを触られるのはとても気持ち良くて、あたたかくて、あなたにだったらこの場所を、無造作に触れただけで壊れてしまいそうなガラス細工のような此処を、握り潰されてしまってもいい。
私がヨハネさんに全部身を委ねているのは、いつもそんな気持ちからだ。
「あんた……」
「裸を見せられなきゃ信頼してるって事にならない訳では、決してないよ。そこは覚えておいて欲しいんだけど。
でも、私の中ではそれが一種の指標だったし、今もそうなの。危険だし脆い賭けだけどね」
文字通りの「裸の付き合い」って奴。
それが合う人もいるし、合わない人もいる。
だからもう、間違えない。私は『合う』人にしか、けしかけない。
「それであわよくば、そうやって私の脆い場所に触れても、どれだけ面倒くさい壊れ易い人間だって分かっても、まだあなたが私のところを去って行かないって、捨てて行かないって証明してくれたら、なおのこと……」
「っ……」
そこまで言ってから、息を飲んだ顔を見て、完全に重い女になり過ぎたと気が付いた。
反省した。
「……って、余計なこと言い過ぎたね。忘れて忘れて」
ついつい、居心地が良すぎて本音ばかり漏らしてしまう。話すつもりのなかったことまでも。
こんな私を見ても愛想を尽かさないで、どこにも行かないで、なんて。
慌てて軽い調子で言ってのけ、そろそろ寝室のヒーターが温まったからと、炬燵から立ち上がり掛けた時。
思いっきりその腕を掴まれて、柔らかな細身の体に倒れ込んだ。
閉じ込められた腕の中で、どくどくと心臓の音が聞こえて来る。冬なのに、薄いTシャツの胸元が熱い。心の熱を、そのまま伝えてくるみたいに。
「……ヨ、ヨハネさん?」
「……」
「……あ、あの……」
「離して欲しくないんだろ」
ぎゅ、と腕の力が強まる。
怒っているのとも悲しんでいるのとも違う、掠れた切なげな声。
これは……拗ねている? 自信はないけど、なんとなくそれに近い感じ。
細いシルエットの服に包まれていても、なお力強さを感じる腕の中で、私は耳を澄ませてじっとしていた。
「そ、それはその、わかったけど」
「あんたが嫌って言っても、離す気は無いけど? ……少なくとも、今のところは」
「……」
ぽかんとしてしまう。
もしかして、ヨハネさんが私を捨てるかもしれないって、例え話だとしても言ったから怒っちゃった?
澄ましたようでも、思いっきり拗ねているのが声に出ているし、全然抱き締めたまま離してくれない。
「これで安心した?」
軽くドヤった感じの声。
なんか、普通に会話してただけのはずなのに、また私がひとつ、甘えたみたいになってしまった。
悔しいなぁ。なんでこんなに包容力あるんだろう。
安心したに決まってる。今夜もまた、ゆっくり眠れそうなくらい。だからもうひとつだけ。我儘が胸の内から顔を覗かせてしまう。
「……それだけ?」
「え?」
「私のこと、安心させてあげようって気持ち……だけ?」
嗚呼、つくづく欲張りだ、と思ってしまう。この気持ちは。
相手が自分を心配してくれる。相手の痛みを自分の痛みのように慮ってくれる。
このやさしい人に求めるのは、それだけでいいじゃない。
なのに、私は。
「……なるほどね?」
うっすら微笑む口元だけで、大体ヨハネさんが察してしまったことがわかる。
その気持ちは、その言葉は、捻くれている彼は口にはしない。
口篭って目を逸らした私を引き寄せて、唇を重ねるだけで、全部を伝えてくる。
浴びせられるほどのキスで腰が抜けた私をそっと横抱きにして、寝室に運んでからも。頭をぶつける心配がない場所に押し倒してからも。
冬の空気の中で、鼻にかかった吐息が絡み合う。こんもりした布団の中で、ぬくもりが離れないように、繋いだ指先を絡めて、頬や脚を寄り添わせて。雪国のトンネルを走る汽車みたいに、どこまでもキスは続いていく。
もう。「なるほどね」じゃないでしょ。
私はただ単に、「ボクがあんたを好きだからだ」って言ってくれたら、それでいいのに。受動的じゃない愛が、欲しかっただけなのに。
そんな言葉が物足りなくなるほど、柔らかくて、あつくて、気持ちいい。
応えようと辿々しく開いた唇を、どこで習ったのか、吸うように両唇で挟んで、押し付けて、啄んで。自分から差し出した私の唇を喜ぶように、舌先を優しく絡めてくれる。
ずるい。春まで我慢しなさいって、そっちが言ったのに。
(あ〜あ、これ春までもつのかなあ)
冬はまだまだ長そうだ。
こんなに我慢してたら春はどうなっちゃうんだろう、と空恐ろしくなったけれど、目の前の心地良さに甘んじて、もうそれは考えないことにした。