『新潟大賞典』
新潟レース場で開催されるGⅢレースなのだが、芝の左回りで距離二千と正直言って宝塚と有馬のどちらを想定するにしてもあまり適してなさそうなレースである。
適してないからこそ選んだようなものなので別にいいのだが。
自分の戦法は弱者が強者に打ち勝つためのものだ。それはつまり、正攻法とは真逆な姑息で悪どいやり方と言っていい。それでいて奇抜さや唯一性には欠けていて、対処困難な訳でもない。
来ると分かってさえいれば容易に対処可能という悲しくなるような戦い方だ。なればこそ、情報の漏えいが敗北に直結する。
知られてはならない。意図を読まれてはならない。たった一度だけ、天才を後ろから一刺しするためだけの刃。
しかし、半端な付け焼刃や
「ネイチャさん、今日のオーダーを伝えます。第一に用意した札を一通り試すこと。第二に使用感とトウカイテイオーへの有効性について考察すること。第三にそれらをしっかり熟しつつ勝利することです」
試運転を万全に行い勝負には勝つこと。自分の掲げている目標を思えばGⅢで負けていてはお話にならないのは事実だが、周りのウマ娘からしたら舐めプと取られても仕方ないことかもしれない。
「はいはいっと。しっかりとオーダーにお応えいたしますよー」
それでもやり方は変えない。これ以外の方法では勝利が掴めないとか、自分に一番合っているからとか色々と事情はあった。だが、今はそれらの事情を除外したとしても、押し通したい理由ができた。
(トレーナーがアタシは勝てるって信じてくれてるんだもんね……)
トウカイテイオーに勝てると言い、自分を支えると言ってくれたヒトが提示した戦法。そこには実用性とかセオリーなんてもの捨てて構わないと思わせてくれる熱量があった。
心の中で縮こまって燃えていた
アタシは勝つ。勝ちたいと思う自分のために。勝てると信じてくれる相方のために。勝ってほしいと願ってくれる仲間のために。
「僕も修正点や対トウカイテイオーに向けた小技が他にないか分析しながら見るつもりです。まだ前哨戦のさらに準備段階ではありますが、気を抜かず行きましょう。ターボさんたちも学園で応援してくれていますよ」
新潟入りしたのは自分とトレーナーだけで他の三人はお留守番。夜も独占している状態が続いているし、はっきり言って今の自分はトレーナーにもチームメイトにも大迷惑を掛けている。
決して長いとは言えないウマ娘の大事な現役時代。その内の一年間、トレーナーがかける比率を大きく自分に傾けてもらっているのだ。笑って許してくれた三人には脚を向けて寝られないし、慢性的な睡眠不足に陥っているだろうトレーナーにはどれだけお礼をしても足りない。
体を壊されても困るし、毎日しっかりと冷蔵庫の食材を活用して栄養のある食事を作ってあげることにしよう。
ちなみに深い深い経緯があって得意の余りもの活用術ではない。
食堂も閉まった後に空腹を凌ごうとトレーナー室の冷蔵庫を覗いたら、そこには飲料の缶しかなかった。飲むと翼が生えそうなやつだったり、怪物に変貌するエネルギーが摂取できそうなやつだ。そんなバカな菓子の
ネイチャさんは危機感を覚えた訳ですよ。このまま行ったら有馬記念でテイオーに勝ったとしても、トレーナーが倒れて月9ドラマみたいな展開になってしまうのではないかと。そうでなくてもこんな生活をして有馬までに体調を崩されてはトレーニングに支障がでる。アタシには現実逃避のオーバーワークはやめろと言っておきながら自分は刹那的に生き過ぎだろと、怒りさえ湧いてきた。
それからというもの、毎朝早起きして昼食のお弁当と温めれば美味しく食べられる夕食を二人分用意してから朝練を始めるのが常態化した。南坂は時間と体力がもったいないからこの栄養補給バーにしようとかほざいていたが、そんなことは天が許してもアタシが許さない。
体は資本。これはアタシを信じてくれたヒトへのお礼も兼ねた立派なトレーニングなのだ。
「ターボたちに勝ったよって報告できるよう頑張りましょうかね。それじゃ、いってきまーす」
トレーナーと別れ、控室を出てターフへ向かう。
地下道の出口が近づくにつれて、聞こえてくる歓声と視界を照らす光が大きくなっていく。
それを感じながら、カチリとスイッチを切り替える。
傍に居てくれる人達がくれる温かさをひっそりと胸に仕舞いこみ、冷徹に思考する。頭に思い描くのは年末のレース。あの天才をへし折ったとき、浮かべるだろう表情と奏でられるであろう音。自然と口角が吊り上がり足取りは軽くなる。ともすれば、鼻歌さえ歌っちゃいそうなほどだ。
(さーてと、勝ちにいきましょうかね……)
吊り上がった口角を誤魔化すようにとろりと綺麗な笑顔を浮かべて、観客に手を振りながらナイスネイチャはターフに立った。
■
『さあ、新潟大賞典、芝二千。ウマ娘たちが一斉にスタートを切りました』
『ナイスネイチャがとても綺麗にスタートしましたね。今回は先行策なのでしょうか?』
晴れ渡った空にポカポカ陽気。南西から迫る梅雨前線も、五月の新潟にとってまだ先の話だ。
そんな最高のロケーションである良バ場で、ナイスネイチャは逃げウマ娘がハナを奪取するため入念に準備してきたかのようなスタートダッシュを決めた。
本日、三枠三番だったナイスネイチャは他の逃げウマ娘を差し置いて、先頭に立ったのだ。
そして、ほんの少しだけ外に
自分よりも外枠の――具体的にはメジロのウマ娘がいる――側へ。
作戦その一、逃げウマ娘潰し。
内容は至ってシンプルだ。綺麗にスタートダッシュを決めて、ハナを取りたい逃げウマ娘を焦らせる。そして、厄介な相手のいる内か外へ進路をとって位置取りを阻害する。ただそれだけ。
(いやー、我が事ながら、みみっちいというかショボいというか)
基本的にナイスネイチャというウマ娘が用意できる策なんてこの程度の事なのだ。相手を蹴飛ばせる訳でもタックルできる訳でもない。なんともささやかな嫌がらせ。
それでも逃げを得手とする者達にとって差しウマ娘にハナを取られるだなんて屈辱でしかない。冷静に考えればナイスネイチャが暴走しただけの可能性大なのだが、どちらにしろハナを取られたままのレース展開では勝ち切れない。その考えが体力配分を誤らせ、前へと掛からせる。
やらないよりはマシな嫌がらせの初手先頭争いと走行妨害。
ツインターボが泣くまで止めず、鉄の女が泣いても止めなかったトレーニングの成果は実を結んだと言っていいだろう。
逃げウマ娘たちとも競える見事なスタートを会得した。
(本当はもっと露骨に妨害したいんだけどね。国外のレースだとかなりアグレッシブにポジション取り行っていいみたいだけど、日本は国際レース以外だと判定もシビアっぽいから仕方ないよね)
過去のジャパンカップを見てみれば、国内GⅠとは毛色の違うレースが見られる。
日本のウマ娘が中々勝てない理由の一つは体格に物を言わせた文字通りのぶつかり合いにあるのだろう。
(ワイルドそうなウマ娘はともかく、お上品な見た目のウマ娘も平気な顔して接触してくるんだもんね。アタシは日本に生まれてよかったわ)
今の自分としてはむしろ望むところなのだが、こんな歪んだ思想になる前に潰されてたんじゃなかろうか。
(なんて関係ない話は横に置いて、三番手が似合いそうな地味ウマ娘はひっそり沈んでいくとしましょうかね)
実況解説も驚くほどに鮮やかなスタートを切ったナイスネイチャは、その後スーッと速度を落としてお馴染みのポジションに収まった。
一体なんのためのスタートダッシュだったのかと逃げと先行策のウマ娘が首を傾げながらも前に出れば、数秒後にはその頭からナイスネイチャのことは消え去っていた。
それは自分の走りに集中するための自発的な行為だったが、仮にナイスネイチャに意識を割いていたとしても探すことは難しかっただろう。
ナイスネイチャはバ群に沈んだ。息を潜めて、中段でひと塊となった集団に溶け込むように。
そうして注目を集めなくなったナイスネイチャはバ群の中で細かく位置取りを変化させていく。前方を走るウマ娘たちの視界に入りづらい位置を、横と後方を走るウマ娘たちがスパートを掛け辛い位置を常に模索して。
話は変わるが、ミスディレクションという言葉がある。
簡単に言えば、他者の認識を誘導したり勘違いさせたりするテクニックのことだ。
フジキセキが得意とするマジック(手品)などは、この技術を多分に利用している。
ナイスネイチャと南坂はこれを極限まで悪用する策を採用した。
強いウマ娘は極一部の例外を除いて広い視野と高い観察力を持っている。
明確に思考しているか本能的に判断しているかの違いはあるが、九割九分九厘に当て嵌まる特徴だと言っていいだろう。
レース展開を俯瞰し、後方にまで意識を伸ばして仕掛けるタイミングを図っているのだ。
そして、俯瞰して得た情報から精緻に展開を思い描いているほどに、突発的な予想外が訪れたときの崩れ方は激しくなる。
本番のレースを想定して積み重ねたトレーニングが想定外に対する体の反応を遅れさせる。
読み込んだ資料と繰り返し見たレース映像から得た知識が想定外の状況に思考を白紙にする。
極限まで高まった集中力が、立て直すことが不可能なほどに霧散させられる。
レースを走るウマ娘は十三人。上空から見て数えれば誰にだって分かるだろう。
しかし、ターフを駆ける十二人どころか観客席から全体を視る者達すら見逃しそうなほど、ナイスネイチャは巧妙にポジションを変え、その気配を薄くしていた。
全ては最終コーナーから最終直線の間に行われれる一事のために。
ウマ娘たちがラストスパートへと移行する瞬間のために。
いける、とウマ娘たちが脚に力を込めるより一瞬だけ早く。
ナイスネイチャは自分の存在をターフに誇示した。
作戦その二、サプライズアタック。
潜めていた息を鋭い呼気へと変える。静かに軽やかにを意識していた踏み込みを、大きく音を鳴らすほど強いものに変える。視界に入り辛いよう下げていた頭を上げて一番速く走れる体勢に変える。一番厄介そうで勝ちに近そうなウマ娘に視線という名の圧力を飛ばす。
急激な静から動への、無から有への変化。
知っている自分だけが対応できて、知らない他者は阻害する。
(地味なアタシですけどね、流石にその場にいきなり瞬間移動してきたら驚かれるくらいの存在感はある訳ですよ)
むしろ、それすら無かったら泣いて引き籠る。
そんな自虐を内心に浮かべながらも周りの変化をつぶさに観察する。
いきなり増した存在感による落差と、最初から居たはずなのにどうして忘れていたんだろうかという疑問。
状況の変化に付いていけず、考える必要もないことに脳のリソースを使ってしまい『えっ?』と間抜けな声を上げてしまった前方のウマ娘にしてやったりと笑みを浮かべ、ナイスネイチャは全力疾走を開始した。
他者をベストパフォーマンスから遠ざけ、己だけはベストに近づく。
邪道という謗りは受け入れよう。スポーツマンシップに悖るという考えにも同意しよう。
だが、これはレースだ。セパレートコースで自分の最高速を実現させる陸上競技とは違う。
勝つために清濁併せ呑み、硬軟織り交ぜて相手を下す事こそ本質。
(なにより、勝てば官軍ってなもんですよ)
初手で逃げウマ娘に嫌がらせ、ラストスパート直前にバ群全体に嫌がらせ。自分はさっさと全身全霊。
狙うのは心と体と思考の隙間だ。生き物である以上、必ず変化するタイミングがあって、そこはなんとも脆いものだ。
ときどき、その脆い隙すらも逆に利用してきたり、徹頭徹尾全速力しか出さないなんて例外がいない訳でもないのが困りものだが。
シンボリルドルフとか、サイレンススズカとか。
そんな、少なくともこのレースには全く関係ないことを考えられる程度には余裕を持ってナイスネイチャは完勝した。
ほんの短い時間に全てを注ぎ込むレースであるからこそ、崩れた状態を立て直すのは難しい。それはトウカイテイオーだって変わらない。
(『領域』だっけ。それってさ、要はめっちゃ集中してる状態ってことでしょ)
一旦入ってしまえば、なるほど崩すことは困難極まるのかもしれない。だが、その前ならばどうか。極限状態に踏み入ることに全力を伴うからこそ生まれる無防備。
付け入る隙はあると、とナイスネイチャは確信していた。
誰よりも憧れを抱いている自覚があるから。誰よりも同じレースを走ってきた実績があるから。誰よりも勝ちたいと執着している自信があるから。
何が起こったのかも理解できぬままに負けて呆けているウマ娘たちに労いの言葉を掛けてから、ナイスネイチャは南坂の下に向かった。今日のレースは何点か。宝塚記念に向けてなにが必要か。残された時間の中でもやることは山積みだ。
しかし、肝心の南坂は近づいてきたナイスネイチャに気付きながらも、手元のスマホを難しい顔で凝視していた。
えー、勝ったんだからまずはアタシを褒めてくれるところじゃないのーと不満に思いながらも、効率を優先するトレーナーの不審な対応を訝しんで声を掛けた。
「三次元のネイチャさんよりスマホの二次元にご執心なんですかー? 担当ウマ娘が重賞レースで勝ったんですよー」
ちょっとだけ厭味ったらしく言うと、南坂は渋面はそのままに勝利を称えてきた。
「おめでとうございます、ネイチャさん。レースの出来自体は良いものでしたよ。ただ、想定外の事が起きてしまいまして」
そう言って向けられたスマホに映る情報を見て、ナイスネイチャは思った。
(あー、なるほど。意表を突かれて頭が真っ白になるってこういう状態のことを言うのか)
画面に映っていたのはニュースサイトの速報。それが二つ。
『メジロマックイーン、宝塚記念出走を断念。年内いっぱいは休養か』
これはまあいい。予定していた役者が舞台から降りてしまった訳だが、トウカイテイオーに勝つという目的達成のためにはどちらかと言えば居てくれないほうが好都合だったから。
問題はもう一つのニュース。
『マルゼンスキー、宝塚記念への出走を表明』
……いや、なんでさ?
ニューカマー(最古参)のエントリーだ!
あと、ごめんなパーマー。
ドリームトロフィー・リーグとトゥインクル・シリーズの両方に出走できるというオリジナル設定上、当然グランプリにも出てきます。
手順としては二つ。そもそも出走意志がない場合は事前の投票時点から断ることが可能です。そして、投票にエントリーして十八位以内に入る票を獲得していた場合は回避するか選択します。ドリームトロフィーに進んだほとんどのウマ娘はそもそも投票にエントリーしません。マルゼンスキーは望んだレースに出られなかったトラウマがあるため、戦いたい娘が現れた際に機会を逃したくないという想いが強いため宝塚と有馬の投票に毎回エントリーしています。ちなみに毎回得票はするものの結局レースに出ないので外野からは賛否両論。チヨノオーが万全の状態だったなら宝塚に出ていたかもしれない。