いつか、きっとどこかで 作:ディニクティス提督(旧紅椿の芽)
一頻りに泣いていた私はいつのまにか涙が止まっていた。頭の中にあるのはこれからの私はどうなってしまうんだろうかという漠然な不安。そして、否が応でもフラッシュバックしてくる、私の知ってる千冬姉さんの影。頭ではわかってる、わかってるはずなんだ……今私の目の前にいる千冬姉さんは私の知っている千冬姉さんとは中身が全く違うってことくらい……でも、それでも、外見が全く同じだからどうしても過去の記憶がちらついてくる。
「……うぇっ……」
記憶が微かに姿を見せるたびに、とてつもない不快感に襲われる。心なしか息も苦しい。
「……ふぅーっ……ふぅーっ……」
なんとか息を整えて落ち着くことができたのはよかったけど、これからもずっとこんな感じなのかなって考えたら辛くなってくる。なんで私ばっかり苦しまなきゃいけないの……なんで、なんでなの……!? 誰か教えてよ……ねぇ、教えてよ……私が何か悪い事でもしたの……!? 込み上がってくる感情を抑えることがどんどんできなくなってくる。わからない……わからないよ!! どうしたらいいのかわからないよ!!
「ねぇ……来てよ……助けてよ、悠助……」
思わず彼の名前が口から溢れ出てしまう。でも、名前を呼んでも彼は今この場にいない。私の事を大事な人だと、好きだと言ってくれたあの黒き龍の姿はない。でも……だからこそ、今は会いたい。会えるのなら今すぐにでも会いたい。そして、抱きしめてほしい。頭を撫でてほしい。手を繋いでほしい。——今は叶わない願いを挙げていく度に、もう一度悠助に会いたいという気持ちは募っていくばかり。そして、現実を意識したときに全てが叶わぬものと自覚して辛くなる。思わず両膝を抱え込んで顔を伏せてしまった。
「会いたいよ……悠助」
『全く……相変わらず甘えん坊だな』
「……ッ!?」
思わず顔をあげる。だが、そこに声の主はいない。幻聴……か。彼の声が聞こえたと思ったけど、結局は私の願望が生み出した悲しい影。そうだよ……だって、まだ黒龍の信号を確認してないみたいだし、だから悠助も……そこまで考えたところで、一度その答えを振り払った。いや、悠助はきっとどこかにいるはず。だから、きっといつかまた会えるはずなんだ……私にとって今はそう思っていることが一番いいことなんだと勝手に結論づけた。
(そうだよね……きっと、いつかどこかでまた会えるんだよね……そうでしょ、悠助……)
目尻から零れ落ちる涙は止まらない。会えない寂しさからくるものなのか、彼がいないという現実への悲しさからくるものなのかはわからない。でも、零れ落ちる雫は私の頬を濡らしていった。
「——おい、戻ったぞ」
そんな時だった。しっかりと記憶に残っている声が聞こえてきた。千冬姉さんが戻ってきた——その事実を確認した瞬間、私の体は突然震え始めた。いや、あの声の主は違う……私の知っているあの千冬姉さんじゃない……もっと優しい千冬姉さんの声なんだ……そう思って震えを抑えようとするけど、一向に治る気配は無い。震える腕を無理矢理押さえつけるけど、それでもダメだった。
どうしたらいいのかわからない私はぐちゃぐちゃになった感情を吐き出せず、ただ震えているだけだった。
◇◇◇
「おい、戻ったぞ」
部屋に戻った千冬が見たのは壁に寄りかかって座り込んでいる一夏の姿だった。顔を伏せているため表情はわからないが、おそらく突然の事に疲れているのだろうと彼女は判断した。
「言われた通りのものは持ってきたが、これで足りるのか?」
千冬の手には一夏から頼まれたゼリー飲料式の流動食のパウチが持たれている。学園の購買で売っているような一般的なものだ。銀色のパウチを差し出して声をかけると、一夏はその顔をようやく上げてくれた。
(またあの目か……)
怯えるような不安に満ちた目。今日初めて一夏と会った時に千冬が見たその目だ。誰がどう見ても千冬に対して恐怖心を抱いているようにしか見えない。彼女を見つめる琥珀色の双眸。見る者全てに美しいという感情を抱かせる瞳からは今にも壊れそうなほどの儚さが伝わってくる。
(なぜお前は私にそこまで怯える……? 私が怖いのか……?)
しかし、千冬自身にその理由は皆目検討がつかなかった。出会ってからまだ一日経ってもいないはずなのに、なぜこれ程までに怯えられているのか……目の前の少女の心情を察するに彼女はまだあまりにも少女の事を知らなすぎた。
「……まあいい。とりあえず、これを受け取れ。このまま何も口にしないというのも身体に悪いぞ」
千冬はそう言うとしゃがみ込み、一夏と同じ目線の高さに合わせた。そして流動食のパウチを渡そうと手を伸ばした直後の事だった。乾いた音が部屋に響く。突然のことに千冬は何が起きたのか状況を飲み込めずにいたが、しばらく経つと己が伸ばした手を一夏が叩いて振り払ったのだと理解した。
「お、おい! 一体どういうつもり——」
「——ッ!?」
あまりにも突然的に手を振り払われた事に対し、千冬もこれには多少の怒りを持たずにはいられなかった。しかし、それと時を同じくして一夏もまた自分のしてしまった事に気づいていた。多少の諍いはあったとしても多少の謝罪と釈明があれば解決につながる程度の問題ではある。だが、それはあくまで一般人同士の間でのみのことだ。一夏にとって今回の行為は『抵抗』——すなわち、千冬に逆らうということに値するものである。微かに怒気が含まれた声を千冬よりかけられた一夏は血の気が引いたような顔をし、再び頭を抱え込んで顔を隠すように蹲ってしまった。
「……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい——」
「お、おい。今度は一体どうしたんだ……」
まるでテープレコーダーのように繰り返し同じ言葉を発する一夏。震えているような声がより一層異常さを際立たせる。多少の怒りを持っていた千冬もこれにはどうしたらいいのか分からず、ただ困惑するばかりだ。
(一体何が起きているんだ……私には検討がつかんが……なんとかしなければな……)
しかしながら、それでも現状を打破しようと考え始めるのは千冬がしっかりとした成人だからであろうか。それとも教師としての務めを果たそうとしているからなのか。いずれにせよ、彼女には目の前の少女を見捨てるという発想は無かった。
千冬は一夏の近くまで寄るとそのまましゃがみ込む。一夏との目線の位置はかなり近づいた。
「なぁ、顔を上げてはくれないか?」
「………ごめんなさい……わ、私が悪かったです……だ、だから、ぶつ、打つのだけは……」
「そんな事はせん。いいからこっちを見るんだ!」
千冬の手によって一夏の顔は半ば強引に上げさせられる。無論、突如として開けた一夏の視界には千冬の顔が否応なしに飛び込んでくる。一番大きな心の支えを失ってしまっている一夏にとってそれは最も精神的にダメージが入ってしまうものであった。無理もない。いくら中身が違うとはいえ、外見はかつて一夏を苦しめてきた存在と全く同じなのだ。精神的苦痛を感じないわけがない。
だが、千冬にはその事が分からない。ましてや一夏の心情を知る由などない。自らの行っている行為がどれほど彼女を苦しめることになるのか検討もつかない。それでも、千冬はなんとかしようと必死になっていた。
「お前……私が怖いのか?」
一夏の恐怖と悲哀に満ちた表情を見た千冬の口からはそんな言葉が出ていた。怯えから涙を流しぐしゃぐしゃになったその顔は千冬にとって見るのが辛いものだ。だが、千冬は一夏の事を知らない。だからこそ彼女に直接聞くしかないと判断したのだ。
千冬に腕を掴まれている一夏はその言葉に震えながらも首肯で答える。今の彼女にできる精一杯の返答だった。
「そうか……」
しかし、千冬にはそれで十分だった。
「——ぇっ……」
「——怖がらせてしまってすまなかったな」
千冬は一夏を優しく抱きしめた。突然のことに一夏は戸惑ってしまう。どうして自分は今千冬に抱きしめられているのか、何故いつものように怒声や罵声を浴びさせられないのか、困惑することばかりだ。だが、聞こえてくるのは優しい声音と温かな感触。涙の流れは止まった。
「信じてくれないかもしれないが、別にそこまで怒るつもりはなかった。突然の事だったからついなってしまったんだ」
「……で、でも……」
「確かに突然手を振り払ったのはよくない事だ。だが、あれも理由があったんだろう? ……それに自分でも悪い事をしたと思ってはいるのだろう?」
一夏は静かに小さく頷く。
「ならそれでいい。私もお前を怖がらせてしまったようだからな。お互い様というものだ」
「……千冬姉さん、もう怒ってない……?」
「ああ、怒ってないさ。だから、話してくれないか、お前の事を」
優しく、幼子をあやすように声をかける千冬。一夏もその安らかな温もりに包まれ、視界がぼやけ、歪んでいく。声を出そうにも嗚咽が出て、うまく言葉にならない。だが、千冬はただ一夏を抱きしめる、それだけだった。
「……わ、わたっ、私っ……い、いつも、ち、千冬姉さんや、は、春十や色んな人っ……い、いじめられててっ……」
ずきり。心のどこかが痛む。
「……で、出来損ない、とかっ……お、落ちこぼれとか…….み、みんなから言われたりっ……」
ずきり。また心のどこかが痛む。
「……な、何かあると……な、殴られたりっ……ぶ、打たれ、たりっ……み、みんな、も、嫌がらせ、してきたり……」
ずきり。痛みがこれ以上聞くなと訴えてくる。
「……ち、千冬姉さん、に、みす、見捨てられたりっ……してっ……」
ずきり。不意にくる情けなさが心を痛めつける。
「……だ、だから……も、もしかすると……また、た、叩かれるかも、って……」
「——大丈夫だ、そんな事はしないさ」
千冬は改めて一夏を自分の胸に抱きしめた。そして、一夏の頭を優しく撫で始める。
「本当、よく頑張ってきたんだな……今の私にはこれしかできないが、許してくれ」
「……ち、ちふゆ、ねえ、さん……?」
「違う人物とはいえ、私は私か……どうしてお前が私に対してあそこまで怯えていたのか、少しだがようやく分かったよ」
出会ってからずっと、怯えられていた理由を知った千冬はどこか腑に落ちた気持ちになっていた。まだ断片的な事しか聞いてはいないものの、一夏の声音からして相当な恐怖を植え付けられてしまっていた事は間違いない。その事が知れただけでも千冬にとっては小さくとも大きな収穫であった。
「確かに私も怒る事はあるし、手が出る事もある。だが、それは本当に必要な時だけだ。理不尽にお前を責め立てるためではない」
「……ほんとう?」
「ああ、本当さ。それとも私はお前の知るような私に見えるか?」
「……ううん」
「そういう事だ。だから、もう怯えなくていい。少なくとも、私という存在にはな」
ぱきり。一夏の心のどこかでそんな音がした。
その瞬間、安堵や不安といった様々な感情が混ざり合い、流路を見失う。行き場が分からなくなった感情は押し留めていた堰を越えようとする。
「……ち、千冬姉さん……わ、わたっ、私、私っ……!!」
「今はゆっくりした方がいいだろう……本当、よく頑張ったな
思わずかけられた言葉。その言葉を一夏はどれだけ待っていたのだろうか。どれほどまでに切望していたのだろうか。それは彼女にしか分からない。何よりも、自分の名前を呼んでくれた事に、慈しむような声で呼んでくれた事に、一夏の心は限界を迎えようとしていた。
「……うぅっ……うわぁあぁぁぁぁぁ……!! あぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ……!!」
堰を切った感情の濁流は形にならずとして流れ出ていった。嗚咽まじりで泣き叫ぶ一夏を千冬はただ優しく抱きしめていたのだった。
◇◇◇
「やれやれ……寝てしまったか」
しばらくの間一夏を抱きしめていた千冬は、いつからか聞こえてくる安らかな寝息に安堵していた。先程までの不安定さはどこにもない。自分のとった行動は少なくとも傷つける結果にはならなかったのかもしれないと考えると、彼女自身どこか心が軽くなっていた。しかしながら、断片的にだが聞いた一夏の過去。それが今度は千冬の心を痛めつける。彼女の良心が、いくら別世界であるとはいえ、自分のしてしまった事であると、自責へと駆らさせてしまう。別世界の自分への腹立たしさと、何もできない現世界の自分への情けなさがより一層強めさせる。
「それにしても、これ程までに追い詰められていたとはな……」
「——ええ、少なくとも貴女にも私にも想像できない程には、です」
千冬のふとした呟きに応えが返ってくる。声の質感は一夏と同じだ。だが、その当人はもう眠ってしまっている。そうなるとこの声の主は一体誰なのか。幾ばくかの間、思考を巡らせた千冬だったが、ふとその存在を思い出した。
「……コア人格の者か」
「覚えてらしてくれたんですね」
「忘れようにも忘れられんからな……」
千冬の前に姿を現したのは蒼龍のコア人格である榛名だった。だが、いつものようなお淑やかさのある雰囲気ではない。千冬の視界には左腰に日本刀を携えている榛名の姿が入ってきた。
「……事情は全て聞いていました。中身が違うとはいえ、一夏にとってはトラウマそのものですから」
「……それが私自身という事か」
「……大変失礼ではありますが、その通りです。そして、万が一の事態が起きた際は私も全力で事に当たるつもりでした」
そう言って榛名は日本刀の柄に手をかける。振り抜く素振りはない。ただ、一夏の為であるならば、その手を血に染める事も厭わないという覚悟の表れであった。
「……やはり、信用などされていないわけか」
「……本当に最初はそうでしたが、今では身構える必要がない、そう言えます」
榛名は柄から手を離すと日本刀を量子化する。
「それは一体どういうことだ……?」
千冬は榛名の行動に疑問を持つ。もしかするとまたこのような事態になる事だって考えられる状況。その元凶とも言える自分を消し去るのが一番手っ取り早く安寧を得られる方法なのではないのか。自責の念は千冬の思考を自己破滅願望へと誘い始めていた。
「まぁ、とりあえずは……一夏を寝かせましょうか。そのままでは貴女も大変でしょうし」
そんな千冬の事を他所に榛名は言葉をかける。実際のところ一夏が寄り掛かってきている事で千冬は動けずにいた。この状況において榛名の提案は渡りに船といったところであろうか。榛名は千冬から一夏を引き剥がし、千冬が一夏をベッドに寝かせる。もしその光景を見る人がもしいたとしたら、仲の良い姉妹が末妹を寝かしつけているようにも見えた事だろう。ベッドに寝かされた一夏は起きる事なく寝息を立てている。とても安らかに寝ているようだ。
「……一夏がこうして寝ていられる事が何よりの幸せなのかもしれません」
「……ああ、そうだな……」
今まで見せていた子供っぽい一面は無く、榛名は一夏を慈しむように見つめ、優しく頭を撫でている。ここに来るまで、一夏と榛名の関係性はある程度察しているつもりであった。だが、どちらもが姉のようであり妹のようでもあるという雰囲気を察した彼女はその関係性にあえて聞きに入るという事はしなかった。その方が彼女達にとって一番いい結果になると、千冬は考えた。
「それにしても、本当に外見は全く同じなんですよね……どうしてここまで内面が違っているのでしょうか、貴女は」
「その疑問を私に投げつけないでくれ……私だって別世界の自分が卑劣な存在であると認識したくはない」
「そうですよね……御無礼を失礼しました」
「気にするな、こればかりは仕方あるまい」
榛名としては千冬が自らの知る千冬と性格が大きく異なっている事が気にかかっていたようだ。気になってしまうのも無理もない。相手は中身こそ違えど外見はかつて一夏に対して暴力を振るってきた存在なのだ。榛名にとって一夏とはコア人格と操縦者という関係を超えて最早家族も同然の存在であり、そんな彼女を守ることが榛名にとって何よりも優先すべき使命である。故に彼女の外敵とも呼べる存在である千冬は十分警戒するに値する人物だ。
「だが、何故ああなってしまうような仕打ちを受ける事になったんだ。少なくとも、此奴はそんな事ないと思うのだが……」
その警戒対象である千冬は依然として一夏がどうしてパニック状態を引き起こす程の仕打ちを受けてしまっていたのかをわからずにいた。一体何が引き金となってそうなってしまったのか、要因こそ分かったとしても至るまでの過程がわからずにいた。
「一夏はとても良い人です。誰かが傷つく事も、誰かを傷つける事も苦手な、時々意地っ張りで子供っぽくて、誰かの幸せのために自分を犠牲にする覚悟がある、優しい人なんです」
「だったら尚更だ。全く理由がわからないぞ……本当に過去に一体何が……」
「それに関しては榛名もなんとも言えません……いくらコア人格は思考を読み取る事が可能であったとしても、心の奥底に眠ってしまっている記憶までは読み取れませんので……」
それに、と榛名は言葉を続ける。
「一夏にとっては思い出さない方がいい記憶である事には間違い無いので……」
「……そうか……いや、それも当然だな……すまない」
「……いえ、私も一夏の事は全てを知っているわけではないので知りたいという気持ちは同じです」
重苦しい空気が部屋を支配する。幾ばくかの静寂の後、榛名が口を開いた。
「……では、私はコアに戻ります。しなければならない事が沢山ありますので」
「……わかった。お前には世話をかけるな」
「この程度、私にとって負担ではありません。今の私は一夏のために存在しているようなものですから」
そう言って榛名は少しだけ微笑んだ。そんな彼女の姿に千冬は感心せざるを得ない。その辺の人間よりも人間らしい振る舞いと言動をし、人を大切に想うその姿は正しく人間そのものともいえる。それが千冬が榛名に抱いた感想だ。
「しかし、今となっては本当に私だけです……私以上に一夏を大切に想う方と離れ離れになってしまいましたので……」
「そう、だったのか……」
「はい……だからこそ、貴女にも協力していただく他ありません。一夏を守るためにも……今の貴女になら一夏を任せても安心、そう確信しています」
「……いいのか? 私はこいつに対して非道を行ってきた者と姿が全く同じ——」
「それでも、です。確かに外観は全く同じですが、中身は全くの別物。それにさっきまで一夏を優しく抱きしめていた、それが何よりの理由です」
榛名は一息つくと言葉を続けた。
「おそらく一夏はこれからも貴女に怯える事になるかもしれません。酷なお願いを無茶を承知で申している事は存じています。ですが、一夏のためにどうかお力をお願いします……!!」
深々と頭を下げる榛名。突然の事に流石の千冬も一体何を言われたのかを理解できずにいたが、暫しの間を置いてその言葉の意味を理解する。しかし、彼女の言葉に首を縦に振っていいものなのか、千冬は悩んだ。確かに現状からすれば自分に頼む事は間違っていない。しかし、その対象は自分に対して恐怖の感情を抱いてしまっている。そんな自分が引き受けてしまっていいのか……千冬は答えを出せずにいる。だが、目の前のコア人格はそんな自分を信用して頭まで下げているではないか。同時に数刻前に榛名から言われた言葉を思い出す。
「『今では身構える必要がない』とはこういう事だったんだな……わかった、引き受けるとしよう」
「本当ですか!? ありがとうございます……!!」
「あまり期待はしないでもらえるといいがな」
故に千冬はその言葉に秘められた信頼に応えようと思った。おそらく出来ることには限りはあるだろう。それでも、自分にできる範囲のことならしてやりたい、そう思う気持ちが勝ったが故の答えだ。
「それでも、です……一夏の支えになってくれる人がいる——榛名はそれだけで嬉しいです」
では私はこの辺で、そう榛名が言うと粒子となって消えていく。未だに慣れないこの光景に千冬は肝を冷やすが、最早そういうものだと心の中で言い聞かせる。
「信頼、か……まさか出会ってそう時間も経ってない私にそれを抱くとはな。余程のお人好しか、あるいは……どちらにしてもいい相棒を持ったじゃないか」
千冬は夢の中にいる一夏に向かってそう声をかける。そのまま彼女は部屋の明かりを少し落とし、一夏が起きないよう静かに作業を始めた。部屋には時折聞こえて来る一夏の寝息とキーボードの音だけが微かに響いていたのだった。
感想及び誤字報告お待ちしています。
今後も生暖かい目でよろしくお願いします。