太陽の下のこみち 作:くず餅
今日は全国的に晴れますが、依然として気温は高く、熱中症への注意が必要でしょう。さて、本日は夏至ですが云々。情報番組のキャスターはそう読み上げた。
キッチンの弁当箱は二つ。一つは言わずもがな自分の分。もう一つは──
「お、径。今日も精が出るね」
「お母さん。もう行くの?」
パンツスーツ姿の母がひょっこりとダイニングを覗いた。
洗顔や歯磨き、化粧で汚してはいけないから、と母がスーツに着替えるのは、完全に出社の準備を整えてからである。
径を含め家族は皆そのことを知っているので、わざわざ聞き返すようなことではない。それでも聞き返してしまうのは、潜在的に清々しい朝を迎えるためのルーチンワークを行っているのだろうか。
「お、今日も良くできてるね。これなら、
「もう。だから幸彦とはそんなんじゃないってば」
そんな径の言葉を背中で受けながら、母はいってきますと玄関から出ていった。
母に冷やかされては、食い入るように否定する。これも何度も交わしているやり取りだ。
もしこの場に父がいれば、渋い顔をするに違いない。年頃の娘の色恋沙汰には耳が痛いのだろう。父だって、幸彦のことを昔から知っているはずなのだが。
もう一度径は弁当を見る。うん、我ながら完璧だ。蓋を締めて、ナフキンで包む。青とピンク。
以前、急いでいて両方ともピンクのナフキンで包んだことがあったのだが、そのとき幸彦はかなり恥ずかしいがりながら受け取っていた。思春期の男心にはピンクはやはり派手すぎたのであろう。
その反応は面白いものだったが、わざとやるのは酷というものだ。
「さて、じゃあ私も行きますか」
誰に言うでもなく、径は独り言ちる。起きて、顔を洗って、朝食を食べて、幼馴染みと自分の弁当を作る。朝のルーチンワークを全て終えて。
◯
待ち合わせ場所は、二人の家から程近い場所にある公園だった。他の通行人や車の邪魔にならず、それでいて学校までの道程にあるという条件を満たせるのは、そこくらいであった。
径は歩を進める。眩しい陽の光に、思わず瞼を半分下ろした。そうか、今日は夏至なんだっけ?
梅雨真っ只中の時期で、当然湿度は高い。雲はいくらか疎らに散っているものの晴天のおかげか不快感はない。
公園が見えて来た。小さな頃はこの公園に集まって、幼馴染みや近所の子同士で遊んだものだ。
今でも親交のある幼馴染み、幸彦はフェンスに背を凭せていた。夏用の、白い半袖のカッターシャツ。もしフェンスが汚れていたら、それで一日過ごす破目になるのに。幾つになっても、そういうところがぬけているのだ。
径は苦笑して声を張り上げた。
「おーい。幸彦!」
幸彦は声する方へ視線を転じると、小さく手をあげながら径に近づいていった。
「おはよう、径」
「うん。おはよう。はい、これ。今日のお弁当」
「ありがと」
径が弁当を手渡すと、幸彦は微笑んで受け取った。その顔を見ただけでも早起きした甲斐があるというものだ。
径も半年前までは母に弁当を作って貰っていたが、その苦労と喜びを同時に思い知った形だ。それからというもの、径は「いただきます」や「ごちそうさまでした」をより一層大きな声で言うようになった。
「そういえば、フェンスに凭れ掛かってたけど、背中大丈夫? 汚れてない」
「大丈夫だよ。第一、汚れてもちゃんと自分で洗濯もアイロン掛けもできるっての」
幸彦は半年前から一人暮らしだ。そのため家事も少しはこなせるのだろう。
しかし、寂しさから、一時期は学校にも来なくなり、食べ物にも一切手を付けなかったが、現在はすっかり回復している。
「本当? 料理は壊滅的に下手じゃん」
径は訝しげに言う。
一度だけ彼が自分で作った料理を口にしたことがあるが、それは滅茶苦茶なものだった。塩辛さで舌が麻痺してしまうかと思うものもあれば、全く味がしないものもあった。
以来、径は彼にバランスがとれたちゃんとした食事を摂ってほしくて、弁当を作っている。
「それとこれとは別なんだよ」
幸彦は不貞腐れながら言った。
何それ、と径は思わず吹き出した。
やがて学校に近づいてくると、小道が見えてくる。詰めれば二人がギリギリ通れそうな細い道だ。この道は二人が通う学校の裏門に通じている。大通りに面した正門は、自転車通学者がよく使うので、彼らと入るタイミングが被らないようにするため、徒歩通学者はこちらを使った方が都合が良いのだ。
小道は両側に桜の木が植えられている。春になると花が開いて、新入生を祝福する花道になり変わる。昨年の春、そんな気分で此処を歩いた径としては、あと一回しかあの桜を見ることができないのかと思うと感慨深いものがある。
しかし、径は春以外の小道も好きだ。
今の時期は街に降り立った初夏の陽気が青く色付いて、小道に錯落とした影を落として、優しげな清涼感を与えている。
秋になれば、梢は紅葉のドレスを纏い、来るべき冬に向けて、風に揺すられながら舞を踊って身体を温めているみたいになる。
冬は冬で、すっかり葉を落としてしまった樹枝たちは侘びしさに満ちていて、それでも強く生きているところに洒脱な印象を受ける。
小道に入ると、自然二人の距離は縮まってゆく。半袖のシャツは、通気性も考慮されてか、幅が広く作られている。その余った部分が、一歩また一歩と歩くたびに、径の肩と擦れ合った。
考えてみれば、幸彦は大きくなったなと思う。小学生の頃や中学一年生の頃はほとんど同じ身長だったのに、中学二年生から徐々に差が付き始め、今やすっかり見上げるようになってしまった。
顔立ちも精悍さを帯びてきて、しかし幼少期からの爽やかさも残している。
径の母は彼を見かけるたびに、「まあ、幸彦君。男前になって〜」と、ころころ笑いながら言うのだ。
そういうときは大抵径も側にいるので、窘め役を務めるのだが。
しかし、幸彦が垢抜けてきたというのは同感だ。女子の間で、どの男の子が格好いいか、という話題が時々あがるのだが、幸彦はかなり上位の方に食い込んでいる。
そのたびに、径は複雑な心境になるのだ。
勿論、径と幸彦の関係は幼馴染みという範疇を出ない。お互い中学にあがって、思春期に入り、異性と接するのがどことなく気恥ずかしい年頃になっても、特に変わるようなこともなかった。つまりは、異性として意識したという感覚がない。毎日弁当を作っているのだって、偏に彼の健康を気遣ってのことだ。
彼のことを大事に思っていることは事実だ。しかし、それが恋愛感情なのかと問われると、自信を持って首肯することができない。
もし仮に、そうもしも仮に、彼に恋人ができたとして、私はどうなるのだろうか。
私がその恋人の立場ならば、自分の恋人には自分以外の女の子と登下校を共にしてほしくないし、その子が作った弁当も食べてほしくはないと思う。
自分は独占欲の強い人間なのかな。
木漏れ日が柔らかな斑点となって、二人の白い夏服の上を滑ってゆく。忙しなく切り替わる明暗のコントラストが、径の目にチカチカと刺さった。
◯
径と幸彦が学校についたのは、朝のホームルームまであと十五分程度といった時間帯だった。
四階建ての校舎の三階。二年四組。それが二人の教室である。後ろのドアを開け、駄弁っているクラスメートを半身で避けながら真っ直ぐ進む。最後列の窓際。それが径の席で、幸彦はその隣席だった。
新学期がスタートした段階では出席番号順であったが、席替えを経て径と幸彦は隣同士の席となった。このことを母に話した際、流石の腐れ縁だと言われた。
「おや?」
径は異変に気付いた。自分の席の後ろにもう一席用意されている。これはどういうことだろうか。
「何だろうな、これ?」
「さあ?」
幸彦も疑問に思ったようで、小首を傾げている。
すると一人の男子生徒が二人に近づいてきた。
「よう。径、幸彦!」
「おはよう。
理央は、高校から仲良くなった男子生徒で、昨年も径や幸彦とは同じクラスであった。男子にしては小柄で声も高め。些かいたずらっぽい性格と相俟って、子犬を連想させるような人物である。
「ねぇ。理央は何か知ってる? 席が一つ多いんだけど」
幸彦が言う。理央は待っていましたとばかりに快活に笑う。
「おう。さっき職員室の前通った時、先生が話してるの聞いちゃったんだよなぁ」
理央はわざとらしく周囲を見回し、声のボリュームを落とした。
「なんと! このクラスに転校生が来るらしいぜ。しかも女子!」
“しかも”の意味を、径は良く解せなかったが、何となく理央の高揚感は理解できなくもない。それは、転校生というミステリアスな言葉の響きに裏打ちされたものだ。
以前の学校は何処だったのだろう。部活は何をやっていたのだろう。趣味は何だろう。何故転校してきたのだろう。
滾々とした泉の如く、次々と湧き出る疑問が転校生への関心になっているのだ。
一方で、それは何だか卑怯な関心だと思う。
こちらは少なくとも四月から今日に至るまでの二ヶ月間、中には径と幸彦のように十年以上、ともかくクラス内や学校内での人間関係が完全に固まっている状況だ。
つまりは、インサイダーであるという安心感がある。転校生に対して質問を乱発できるのは、その安心感があるからだと径は持論を立てている。
チャイムが校舎に鳴り響いた。教室の喧騒はフェードアウトしていった。理央も慌てて自分の席に戻っていく。
担任の教諭が教壇に立ち、僅かに笑みを浮かべると言った。
「今日はみんなに新しい仲間を紹介する」
教室は再び喧騒に包まれる。
左右上下、クラスメートたちは無手勝流に身体の向きを変えて驚きを共有し始める。
径は視界の端にひらひらと手が振られるのを捉えた。そちらに視線を転じると、理央がニヤケながらこちらを見ていた。
言ったとおりだったろ、とでも言いたげだ。
「はいはい。お前たちの気持ちも分かるが、静かにしなさい」
教諭は手を叩いて静寂を促すと、ドアの方に顔を向け、それじゃ入りなさい、と言った。
クラスの皆の視線が集まる中、彼女は教室に這入って来た。
窓からは強く太陽の光線が注がれている。それとは対照的に、薄く影を落とした教壇に立ったその娘の顔は、闇のヴェールに覆われたようで、その未知感に径の胸はざわつきを覚えた。