黒髪異能ミステリアス少女の正体について 作:ぺけぺけぺい
バットを持った高橋と錫杖を持った寺門は、通行人の奇異の視線を浴びながら、二丁目の廃ビルの三階に向かった。
鉄筋がむき出しになったコンクリートと散らばった砂利の上に、真っ赤なモノと白いモノとピンク色のモノが、ぐちゃぐちゃになって転がっていた。
高橋は吐いた。げえげえ吐いた。
昼に食べた肉野菜炒めと米を吐いて、ここに来るまでに歩きながら食べたパンも全部吐いて、胃の中が空っぽになってもまだ、すっぱい味のする液を吐いた。
もう何も出なくなるくらい吐いてから、寺門が「悪かった」と呟くのが聞こえた。
それが死ぬほど悔しかった。臭いだの腰抜けだの言われてぶん殴られた方が、百万倍はマシだった。
しかし寺門はそれ以上は何も言わずに、高橋を置いてグロテスクな何かの方へ、平然と歩いて行った。
◇
「くそっ、くそっ、くそっ!!」
廃ビルの二階。凄惨な現場から逃げ出した高橋は、バットを床に柱に力任せに叩きつけていた。
悔しかった。
爪から血がにじみ出しそうなほどバットを握りしめ、思いきり床を叩く。
こんなはずじゃなかった。
俺は死体なんて見ても平然として、むしろこんな風に誰かを殺した怪異に怒りを燃やして、果敢に立ち向かうはずだった。
それがどうだ、なんださっきの醜態は。
落ちているモノが何か最初は分からなくて、隣の寺門が目を閉じて黙祷を捧げているのを見てからやっとアレが死体なんだと気づいて、その瞬間にはもう吐いていた。
情けないなんてものじゃなかった。
誰かがあんな風に殺されたことが怖くて仕方なかった。誰かがまたこれから、あんな風に殺されるかもしれないことが怖くて仕方なかった。もしかすると月宮が、あんな風に殺されたのかもしれないことが怖くて仕方なかった。こんなことをした怪異に立ち向かえば、自分も寺門もあんな風に殺されてしまうかもしれないことが怖くて仕方なかった。
何より嫌だったのは、まだ自分はあんな風に殺されてはいないことに安心してしまった事だった。
「なんだよ……! なにやってんだよ俺は……!!」
バットをもう一度叩きつける。しびれた手がバットを滑らせる。落ちたバットが床を転がる。からからと乾いた音を立てるバットを目で追った。
分かっていた。
追いかけて、拾って、三階に戻って、寺門を手伝うべきだった。恐怖に負けてここで立ち止まっていれば、これから一生このままになってしまうと理解していた。寺門の優しさは、自分のアキレス腱をもう二度とつながらないように断ち切ってしまうナイフだと分かっていた。どれだけ怖くて震えていても、無理やりにでも何でも体を動かして、あの死体とも分からない死体と向き合うべきだった。
脳みそは高橋にそうしろと言っていたし、心も高橋にそうしろと言っていた。あの時死んだ月宮も、あの時月宮のために走った自分もそう言っていた。
高橋もそうしたかった。
だけど、高橋の奥の奥の深いところにある何かだけは、高橋にそうするなと言っていた。
足も腕もその指示に逆らえなくて、高橋は一歩も動けずに、ただただ自分のみじめさを噛み締めていることしかできなかった。
口の中に残った胃液の匂いと、臆病者の魂のドブみたいな腐った匂いに高橋はもう一度吐いて、とうとう立っていることさえできずに床に崩れ落ちた。
「なんでだよ……。なんで、俺は……。月宮みたいに……」
頬を小石が刺した。砂利の味がした。弱々しく握った指がざりざりと音を立てる。
ずっと月宮の様になりたかった。自分をかばって前に立った、あの日の月宮の様に。八歳の頃の月宮にあこがれて、六年間生きてきた。恐ろしいものに立ち向かう心構えはずっとしてきた。誰かのために犠牲になる覚悟は、とっくの昔に出来ていた。寺門に、死ぬようなことはするなと言われてうなずいた時、心の中では舌を出していた。自分がどんな目に合うかなんて気にもかけずに、死地に飛び込む勇気は心に常に持っていた。
そのはずだった。そのはずだったのだ。
俺は、そのはずだったのに。
「ふーん。月宮みたいに、ねえ」
高橋は飛び起きた。
突然かけられた少女の声に、体が勝手に動いた。
涙でにじんだ視界の中に、少女がいた。腰まで伸びた黒い髪をした、黒いセーラー服の少女が。
「な……なんで、お前……」
「こんなところに、かな? 言ったじゃないか、キミとボクは必ずまた出会うって」
崩れかけの柱に背を預けながら、にこにこ笑っている少女に息を飲む。
どうしてこんなところに? いつの間に入って来た? いつからいた? 寺門は気づいているのか? 上のアレとこいつは関係があるのか?
「しいて言えば、ボクがここにいる一番の理由は、……キミがここにいるから、かな」
いくつもの疑問がぐるぐると渦巻く。何を言えばいいのか分からず混乱する。緊張に動いた目が、ついさっき落としたバットをとらえた。少女がそれを足で転がしていた。
「そ、それを返せ!」
高橋は反射的に叫んだ。
少女が笑顔のまま言う。
「どうして?」
どうしてだと? そんなものは決まっている。それが何をするための道具なのか、お前に教えてやる!
高橋は吠えた。
「それは俺が、怪異を……!」
少女が言う。心の奥を見透かすように、どこまでも闇色に澄んだ瞳で高橋を見つめながら。
「怪異を?」
高橋の心は叫んでいた。自分が何をするためにここに来たのか。少女からそれを奪い返して、何をするつもりなのか。何をしたいのか。
高橋は言う。
「か、怪異を……」
少女が言う。
「怪異を?」
高橋は言う。
「怪異、を……」
少女が言う。高橋にとって、ひどく残酷な質問を。
「怪異を?」
祓うための物だからだ。高橋は少女にそう言いたかった。言うつもりだった。しかし高橋はその言葉が口に出せなかった。出せるわけが無かった。
つい先ほど、その祓うべき怪異の脅威から逃げ出して、一人でここで泣いていたのだ。ずっとこうやって怪異に立ち向かう機会を待ち望んでいたくせに、いざその恐ろしさを目の当たりにした時、自分の師匠の優しさに甘えて、尻尾をまいて逃げ出したのだ。そんな腰抜けに、どうして怪異と戦うための武器が必要だというのだろうか。
いくら考えても、高橋にはその言い訳さえ思いつきはしなかった。
少女に向かって伸ばした腕は力なく垂れ、口は閉じた。うつむき、こぼれた涙がコンクリートに黒い染みを作る。
「……いらないの? これ」
退屈そうに足でバットを弄ぶ少女の疑問に返事はない。
高橋はずりずりと背中で壁を擦り、へたりこんで膝を抱えてしまう。顔をうずめる。
もう嫌だった。自分が嫌で嫌で仕方が無かった。消えてしまいたかった。
そんな高橋を見て少女がため息をつく。
「なんだかなぁ……。ボクは別に、キミをイジメに来たわけじゃないんだけど。こんなところで立ち止まられても、ねぇ。んー……これはキミの大事なもので、何か大事なことをするためにここに来たんじゃないのかい?」
少女は言いながらバットを拾い、片手で器用に回し始める。
高橋はそれを膝の間からほんの少しだけ見て、何も答えずに目を閉じた。
「そうだ、ほら、あの祓い屋のおじさん。あの人のお手伝いはしなくていいの? 上で頑張ってるんでしょ?」
高橋の心を探るように、何かのきっかけを探すように、少女は言葉を選びながら高橋に語る。
「キミも祓い屋なんだろう? 上のあれは、結構ひどい死体だったねぇ。あれをやった奴を早く何とかしないと、他にも犠牲者が出ちゃうんじゃないのかな?」
高橋の心を、ざらついた猫の舌の様な少女の言葉が舐める。しかし高橋は動かない。
「そうだなあ……例えば、キミのかわいい後輩のあの子とかも、もしかすると襲われちゃうかもしれないね?」
かわいい後輩――小夏の事を指しているのだと分かった。どうしてこの少女が彼女の事を知っているのかは分からない。しかし彼女も襲われるかもしれないとの言葉はその通りだと思えたし、そしてそれでも高橋は動けなかった。そんな自分を隠したくて、より強く膝を抱きしめ、小さく縮こまる。
少女の顔に薄い笑みが浮かぶ。笑顔のまま逡巡するように視線を泳がせ、少しだけためらった後に言った。
「ふふ、まったくキミは本当にもう……。……さっき言ってた、月宮くんがどうとかは、いいのかい?」
月宮。
高橋はぴくりと動いた。
それを見て少女の笑みは深くなる。嬉しそうに言葉を続ける。
「ほらほら、月宮みたいに、なんて言ってたじゃないか、少年。そのままでいいの?」
高橋は短く小さく、しかし確かに返事をした。
「……よくない」
「キミの言ってた月宮くんは、そうやってぐずぐずへたりこんで何にも出来ない腰抜けなのかい?」
高橋が、さっきよりも少しだけ強く声を出す。
「違う……!」
「キミが月宮みたいにって言ったんだ。だから、今のキミの姿はきっと月宮くんの姿そのものなんだろうねえ」
高橋が顔を上げて叫ぶ。
「黙れ!!」
「怖い怖い怪異からは逃げ出して、やらなきゃいけない事は投げだして、もし他の人が危なくなっても知らんぷり。それがキミの言う月宮く」
ぱん、と乾いた音がした。
いつの間にか立ち上がった高橋が、少女の頬を叩いていた。顔を真っ赤にして、ふーふーと鼻と口から息を吐き、それと一緒に肩を大きく上下させながら、目に一杯に涙を浮かべた高橋が少女をにらみつけていた。それはまるきり子供の怒り顔だった。
少女は目を丸くし、高橋の目を真っすぐ見つめた。そして、心の底から嬉しそうに笑った。どこか恐ろしささえ感じさせる、ぞっとするような笑みだった。
「いいねえいいねえ、上出来だ。キミはへこむのも立ち直るのもすごく早い。心の芯に、大事なものが一つあるんだろう。そういうの、ボクはいいと思うよ」
高橋は笑う少女の手からバットをひったくるように奪い取り、そして少女に突きつける。
「取り消せ」
「何を?」
バットを突きつけられてなお笑顔のままの少女。高橋の苛立った声。
「月宮はあんな奴じゃない」
それを聞いて少女はくすくすと笑った。口元に手を当て、それは楽しそうに、高橋の言葉が本当におもしろいのだという風に笑った。あの日公園で、今日廃ビルで、高橋の前で少女はほとんどずっと笑っていたが、声を出して笑うのは二度目だった。
「そうだね。月宮はあんな奴じゃない。……これでいいかい?」
少女の言葉に高橋はバットを下ろす。
もう、少女への怒りは無かった。あるのは、何かをやらねばという義務感だけだった。
どうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、お前はいったい何者なのか、お前と月宮は何か関係があるのか。この不思議な少女に聞くべきことはいくらでもあった。上に戻って寺門を手伝う、怪しいこの少女を取り押さえて拘束する。高橋がやるべきことはいくらでもあった。
無数の選択肢があり、そのどれもがすべき事に思えた。祓い屋として、絶対にやらなければならない事に。だが、高橋は、
「……ありがとう」
「なんのお礼?」
それらすべてをせずに、ただ少女に礼を言った。高橋にとってそれは、何よりも大事なことに思えたから。
「あんたがいなかったら、たぶんまだ、……もしかしたら、一生ウジウジしてた」
「ふぅん、それは良かった。来た甲斐があったかな」
高橋としては結構本気で感謝しているのだが、少女はつかみどころのない笑顔で肩をすくめるばかりだった。
自分の思いが伝わっているのかいないのか、苦笑しながら高橋は彼女に背を向けた。そして、崩れかけの階段に足をかける。
「じゃあ、俺は上に戻るから。……やっぱり怖いけど、だけど月宮みたいになりたいんだ」
おぞましい死体のあった場所へ、ついさっき逃げ出した場所へ、足を震わせながらも一歩ずつ戻っていく高橋の後ろ姿を少女は笑顔で見つめていた。そして高橋が三階まで上がり、寺門の少しだけ嬉しそうな声が聞こえてくるのを待ってから、少女は闇に消えていった。
「うん、頑張ってね、期待してるよ。……
そんな言葉を残しながら。