さて、桃白白は言葉通り翌日はまる一日外出していたが、次の日の朝にはすんなりと戻ってきた。
怒っているどころか妙に機嫌のいい様子に、天津飯だけでなくフーイも胸をなでおろす。
鶴仙人だけは彼の雰囲気の違いを感じ取ったが、気を使って(ひよったともいうが)口を噤んだ。
異変が起こったのはその日の午後。裏山の開けた空き地に、フーイ、天津飯、桃白白の三人は集まっていた。
世界一の殺し屋として名高く、それなりに忙しく世界中を飛び回る桃白白が、頻繁に鶴仙流の道場へ帰ってくるのは、何も里帰りが目的ではない。
一番の理由は弟子であるフーイの指導だが、弟弟子である天津飯、最近では餃子にも主に実践的な面に関して指南している。
いつのころからか、弟子たちと桃白白の組み手は習慣になっていた。
だから、これ自体は決して特異なことではない。しかし――
「さて、今日の組み手だが……面倒だ」
そう言って、彼は挑発的に手招きをする。
「二人まとめてかかってこい」
言われた方は煽りに乗るどころかむしろきょとんとして、顔を見合わせた。
構えることもせず、しばらくまごついていたが、やがてフーイの方がおずおずと口を開く。
「いや、でも、私と天津飯って一応ピッコロ大魔王を倒してるし、一対一ならともかく、2人同時って言うのはちょっと……」
「なんだ、来んのか」
「だからさぁ」
「ならこちらから行くぞ」
次の瞬間、フーイのいた場所には、桃白白が代わりに立っていた。
天津飯が自分の目を疑うのよりも早く、裏山の一際巨大な古木がミシミシと音を立て、地響きを響かせながら倒れ落ちる。
裂けめのすぐそばには、フーイの姿。
状況を整理し、彼女が桃白白によって吹き飛ばされ、その衝撃で木が折れたのだと気付くのにはさらにもう少しかかった。
その上、普段どれだけ強烈な攻撃を受けようと、叩きのめされようと、20秒もすれば元気に起き上がり、次の攻撃に移る姉弟子が、一向に立ち上がる様子がない。
どっと天津飯の全身を冷や汗が濡らす。心臓の高鳴りで自分の鼓膜が破れそうだ。
咄嗟に構えるが、次の動きに踏み出せない。
金縛りにあったように手足が堅く、重く、吸う空気すらずっしりと質量をもつ。
桃白白は手を後ろに組み、いつもと変わらない様子でそれを眺めている。
口の端がほんの少し笑っているように見えたのは、自分の錯覚だ、と天津飯は思いたかった。
何故だろう、自分は一応とは言え世界を救ったヒーローであるはずなのに、まるで蛇に睨まれた蛙そのものだ。
「天津飯、お前もまだ来んのか」
「――ッ!」
このままではやられる。そう彼は直感した。
殺気を向けられたわけでもないし、桃白白は手を後ろに回したまま構えすらしていない。
しかし、何かが彼の直感を激しく揺さぶる。
それが幼いころからのある種のすりこみだと、彼本人は気付いていない。
「ハァッ!」
意を決して、というよりも緊張に耐え切れず、地面を蹴った。
不自然に力んだ足先がほんの少し滑り、充分にスピードが乗らない。
それでも、並の相手ならなすすべもなく気を失うしかないような一撃。
が、残念ながら桃白白は決して並の相手と呼べる存在ではなかった。
あっさりと腕を掴まれ、綺麗な一本背負いで地面にたたきつけられる。
巨大な拳で全身を殴られるような感覚に、背骨が反り返り、空気が押し出され肺が空になった。
立ち上がろうにも、上手く手足に力が入らない。衝撃で痺れてしまったらしい。
さらに恐ろしいのは、と、あることに気づいて天津飯は身震いする。
何処かを怪我した。という感覚がまったくないことだ。
着ている服で肌をすりむいていないのは勿論の事、骨にひびが入った嫌な痛みや、後で痣になる打撲の独特な熱をまるで感じない。
つまり、相当に手加減されている。
「おい、フーイ、いつまで寝ている気だ」
立ち上がれない天津飯にあっさり背を向け、桃白白は少女の方へ向かっていった。
瞬間、木々が揺れ、突風のような動きで何かが突っ込んでくる。
さらりと避けた彼のその軌道に向かって、無数の気弾が飛ぶ――のを、無数のドドン波が正確に打ち抜き、その場で爆発させた。
巻き込まれたフーイは溜まらず後ろへ逃げた、その先で先回りした桃白白にぶつかる。
「えっ」
胸倉をひっつかまれ、投げ飛ばされ天津飯の隣にあっさりと転がる。
今度はどうにかすぐさま起き上がったが、明らかにその頬は引くついていた。
弟弟子の方も顔からすっかり血の気が引いている。
「なんだ、こんなものか? そうだな、ではこうしよう
今日の組み手は儂から一本取れば終わりだ。何、二人がかりなら簡単なことだろう?」
そう言って、桃白白は笑った。
心底楽しそうに。
獲物をいたぶる猫というのは、鼠から見ればああいう顔に見えるのだろうか。
「いや、これもう、組み手っていうか、ただのいじめじゃ…ッ!」
思わず溢したフーイの鼻先数ミリを、どどん波がかすめる。
「おっと、手が滑った」
それは手が滑ったからどどん波を撃ってしまったということだろうか、それとも手が滑ったから命中させるつもりが外してしまったということだろうか。
「ほれほれ、攻撃してこんといつまで経っても終わらんぞ」
「……天津飯」
「……なんだ」
「骨は拾ってね」
「……ふっ」
兄弟子譲りのニヒルな彼の笑顔だったが、過去最高に格好がつかない。
「それは俺の台詞だ、フーイ」
かくして、鶴仙流道場の裏山では、うら若い男女の断末魔の叫びが数時間にわたって聞こえたとか。
雲よりも高い塔の上、その様子を千里眼で眺め、思わずため息をつく人影――いや、猫影が一匹。
短い腕と丸い指先で髭をなでなで、威厳たっぷりのしぐさも今日は何処か困惑気味である。
「にゃんともかんとも……」
「どうした、カリン様」
「いや、コチラの話じゃ」
流石はフーイの師匠なだけはあると、仙猫はらしくなく嘆息した。
強さを求めカリン塔に上るものは数知れず、上り詰めるものは数えるほど、さらに超神水に挑んだものは両手と少しで足りてしまう。
超神水に打ち勝ったものとなれば、これは最早片手でも余るほどの人数だったが、桃白白はつい先日その誉の末席に名を連ねた。
カリンは止めた。いくら孫悟空、天津飯、フーイの三人が三人とも生き残ったとはいえ、彼らを除いた超神水の生存率は、やはり0%である。
いくら兄弟子、師匠と言えど、生き残れる保証などどこにもない。むしろ、死ぬ可能性の方がはるかに高いのだ。
その上、世界一の殺し屋といえど、齢は300に迫ろうとしている。昨日今日鍛えた武術ではなく、かなりの年月をその研鑽へ捧げていた。
生き残ったとしても、大幅なパワーアップはとても望めない。
しかし、桃白白の意思は強固だった。強固すぎて、拒むカリンを殺そうとするそぶりすら見せた。
カリンの名誉のために断言しておくが、彼は決して脅しに屈したわけではない。
それほどまでに強い決意があるのならば、武の仙猫としてこれを否定することは出来なかったのだ。
加えて、文句なしの極悪人である桃白白が死んだとしても、それはそれであまり困ることはないなとも、ちょこっと、爪の垢程度は思った。
とにかく、超神水を飲んだ桃白白は地面へ這いつくばりはしたものの、のたうち回って無様にうめく様子すら見せるようなことはせず、歯を食いしばり無言のままに乗り越えた。
カリンですらその目を疑い、ヤジロベーすらたじろぐほどの力を手に入れて。
その執念の理由、先の戦いでの己のふがいなさと言えば聞こえはいい。
しかし結局、本音のところは、はるかに年下の弟子や弟弟子に負けたくないという、なんとも格好のつかない格好つけであった。
命を懸けられるなら、それも本物である。本人は少しも死ぬ可能性など信じていなかったようだが。
嬉々としてフーイと天津飯をいたぶり、もてあそぶ桃白白の様子にカリンは心底微妙な顔をする。
頑張れよーと、届かない声援が、天高くからうら若い二人に送られた。