それは冬の終わり。2月のことだ。夜はまだ冷たく、寒空に僅かに欠けた月が浮かぶ夜だった。僅かに欠けた月は天頂を超えて傾き始めている。
僕はルーピンに連れられて『叫びの屋敷』へ足を運んでいた。
「これはまた…派手にやったね」
昨日の満月の夜。人狼となったルーピンは理性を失い、ここで衝動的に壁を破壊してしまったそうだ。
普段なら自分の部屋で過ごしていて、脱狼薬の効果で暴れる事も無い筈なのに。壁を直すのだって本来なら杖を振れば良いだけだ。僕を呼ぶ理由は無い。
それを本人に訊いたら、
「昔を思い返したくなりまして」
とのことだ。まだ脱狼薬が開発されていなかった頃、『動物もどき』の僕が彼の在学時代によく付き添いでここに来ていたのを懐かしみたいのだろうか。
もしうっかりでも、変身中に屋敷に誰か入ってきてしまえばどうなるか。彼も分からないわけじゃないだろうに。その責任は彼だけでなく、彼を雇用したダンブルドアにも重くのしかかる。
「こんな風に暴れてしまった以上、もう二度としません」
そう言うが、彼の顔には後悔や反省の色はない。
むしろ何か、企んでいるような感じだ。
不審に思いながらも、彼なら特に警戒する必要もない。僕は壁を直して、散らかった瓦礫を片付けていく。ルーピンは上の階に行って、爪跡を消すそうだ。
「…まったく。妙な所で子どもらしいというか、何というか…」
過去を振り返るのは結構だが、こうして後始末に連れ出されるのは良い気分ではない。
まあ彼の体質を知っていて、尚且つこの屋敷の事を知る人間となると僕かダンブルドア、もしくは看護師のポンフリーぐらいなのだが。スネイプも知っているが、彼はこんな事に付き合わないだろう。むしろ嬉々として校長に報告に行きそうだ。
そんな事を思いながら片付けをしていると、ある事に気がついた。
爪跡の無い瓦礫が多いのだ。
人狼は理性が無ければ本能のままに暴れる。その牙で噛みつき、その爪で引き裂く。なのに瓦礫は、ただ破壊されただけに見える。牙や爪ではなく、単に壊されただけ。
爪跡も不揃いで浅い。何か道具で後から付けたかのようだ。
「……これは…」
足跡だ。
埃の溜まった床にボロボロの靴の跡がいくつもある。新しいものだけではなく、薄くなった古いものも。
僕やルーピンのものではない。こんなに傷んだ靴を履くのは、新しい靴が買えないような立場の者。
「シリウス・ブラック…か?」
可能性は高い。ここは『忍びの地図』の範囲から外れていて、人の立ち入りが無い場所だ。潜伏する場所としては最適だろう。それに彼は在学時代にこの場所に出入りしていて詳しい。なぜ思いつかなかったのか不思議なくらいだ。いや、数回はここの見回りにも訪れたがその時は何の異常も痕跡も見つからなかった。
とにかくルーピンにこのことを言わなければ。今は居なくてもいつブラックが戻ってくるか分からない。彼を呼びに部屋を出ようとした時。
「ミスター・フライト。…お話があります」
神妙な面持ちで彼が降りてきた。何か話したいことがあるようだが、今はここを離れることが先決だ。そんなことを言おうとした時、ルーピンが僕の言葉を遮った。どうしても言いたいことのようだ。
「そのシリウスについてなのです」
ルーピンは降りてきた階段に視線を送る。何があるというのだろう。
「どうか、彼を見ても杖を上げないでください。全て彼の口から聞いたほうが良いと思いますから」
ルーピンの言う彼が誰の事か。状況から考えればすぐに分かる。僕は杖を出さないことを、一応は約束する。身の危険があっても『魔除けの羽』もあるのですぐに命に関わることはない、という判断だ。
ルーピンが合図をすると、上の階からやせ細った小汚い男が降りてくる。
ボロボロの靴は、僕が見つけた足跡の主であると気付かせる。纏っているのは破けた囚人服だ。
「…やあ、少し痩せたみたいだね。…シリウス・ブラック」
僕が声をかけると、ブラックは口角を上げた。
子供の頃と変わらない笑い方だった。
「ミスター・フライト…。久しぶりです…。アンタに会えるなんて…」
「…説明してくれ。なぜ君がここにいる?」
会話をしながらも僕は素早く周囲に目をやり、脱出できる場所を探す。天井に穴をみつけた。人間では通れないが、鷲に身を変えれば大丈夫だろう。問題は高い所にあってブラックの気をそらす必要があること。そして二階に出たところでそこから外に出られるかということだ。
「アンタにはずっと感謝してるんだ。『動物もどき』になってなきゃ、俺は今頃まだあの牢獄で震えてただろうからな…」
「…それはどうも。僕としては大人しくそこに戻って欲しいんだけどね」
「そうもいかない。俺はアイツを殺さなきゃいけない。…俺が殺さなきゃダメなんだ」
彼が『死喰い人』であるならば、その狙いは想像がつく。
「ハリー・ポッターかい?」
「違う‼」
確信を持ってそう尋ねたが、彼は声を荒げて否定した。図星を突かれた、というわけではないようだ。だが他に何を狙っているのかと考えても、思い当たるものがない。まさかダンブルドアというわけではないだろう。『彼』が唯一恐れた人物とされているが、杖のない脱獄囚が狙うにはあまりにも力不足だ。
まさか僕か?
そう考えると辻褄が合う。司書として管理している『閲覧禁止の棚』には闇の魔法使いが欲してやまない禁術が山のように保管されている。或いは、身体に流れる『スコーピス』の血を狙ったのか。それは知る者は非常に少ないが、よりによって『彼』は知っている。何かの手段でブラックに連絡を取り、そこから派生してルーピンが僕をここに呼び出したのならば。恐らく昨夜ここで暴れたというのは僕を呼び出すための嘘だろう。魔法を使ってそう見えるように破壊したに違いない。
嫌な汗が背中を流れる。どうやら僕はまんまと罠に誘い込まれたようだ。
そう思いながら警戒していると、ルーピンがブラックを小突いた。
「シリウス、さっさと本題に入った方がいい。ミスター・フライトは気が短いわけじゃないが、不必要に緊張させるのは私たちにとっても危ない。彼の呪文の腕はよく知っているだろう」
「ああ、そうだな。もうあんな思いはごめんだ」
今なら2人とも僕を見ていない。大鷲に身を変えようとしたところで、ブラックが予想もしていなかった名前を口に出した。
「俺がここに来たのは、
「…何だって?」
ピーター。
ありふれた名前だが、彼がこの場で口にするなら、それが指す人物はただ1人。
ピーター・ペティグリュー。
「彼は君が殺したはずだ。バラバラに…。指だけを遺して…」
「そうだ。俺はあそこでアイツを殺すはずだった…。…だがアイツは逃げた!忌々しく、指だけを残して‼︎」
ブラックは感情のままに壁を殴りつける。
今なら逃げられるだろうが、僕の頭からその事は抜けていた。今は真実と、彼の事情を聞くことが優先だった。
「ピーターは『死喰い人』だった‼︎俺がアイツを追い詰めた時、何て言ったと思う?…俺がジェームズを『ヤツ』に売った犯人だと!俺が親友を裏切ったと‼︎…そう叫んで、マグルを巻き添えにして爆発しやがった‼︎」
「君は『秘密の守人』だったんじゃないのかい?君が話さなければポッターらは『彼』に見つからなかったはずだ」
「みんなに俺が守人だと言いふらしたのは、俺に眼を向けさせるためだった。俺に眼が向けば、誰も落ちこぼれのピーターに眼を向けないからな」
なるほど。自分を囮にしたのか。それは友人への最大の献身だ。
「ルーピン…。君は何故、彼を信じたんだい?最初から全部を知っていたわけじゃないだろう?」
今まで交わした会話の中で、ルーピンは何度もブラックへの警戒を口にしていた。それが全て演技だったとは思えない。
そしてルーピンが語ったのは『忍びの地図』が生徒の1人の元から回収でき、そこにペティグリューの名前があったのを見つけたらしい。
「実際に見てもらった方がいいでしょう」
彼が懐から取り出した地図には、確かにペティグリューが居た。倉庫に居るのを見るに、ネズミに身を変えて潜んでいるのだろう。不用意に近づけば逃げられてしまう。だからこそブラックは機会を窺ってこの屋敷にいるのだろう。
「僕を呼んだのは何故だい?…僕に何をして欲しい?」
わざわざ隠れていたブラックを、僕に会わせる理由が分からない。彼の容疑を晴らしたいならば、ダンブルドアかファッジを招くべきだ。いや、それでは大事になりすぎるか。だがそれは僕も同じこと。この件を彼らに話すことは想像がつくはず。
「…アンタはピーターに関わらないで欲しい」
「どういうことだい?」
ペティグリューがポッター夫妻を裏切った真犯人なら、彼を捕らえることはとても重要なことのばすだ。僕は長年ホグワーツに勤め、校長からの信頼もある。僕が主張すればブラックの潔白を証明するのに有利なはず。それを拒否するとは。
「ピーターは今、ホグワーツに隠れている。アンタが動けば、奴は必ずそれに気づくだろう。もし学校から出られたら、俺たちに見つける術はない」
「…なるほどね。確かに彼は僕の前に姿を見せたことはない。それは僕を警戒していたからだろう。僕にできるのは、普段通りに過ごして彼が気づかれていることを察さないようにすること…と、いうことかい?」
「察しが良くて助かる」
彼はウィーズリーの飼いネズミになっていたらしい。そういえばパーシーもロンもネズミを飼っていたのだったか。僕は見たことが無かったので分からなかったが、今思えばそれもペティグリューが僕に気づかれるのを恐れていたからだろう。
「分かったよ。これは校長にも話さない方が良い。僕もなるべく動かないようにする。…君もできるだけルーピンに任せるようにするべきだ。また校内で君が見つかったと話が出れば、ペティグリューは今度こそ学校から逃げ出そうとするだろう」
「そんな事は分かっている。だがアイツを殺すのは俺だ。親友の仇は必ず討つ」
「そのやる気が空回りしない事を祈るよ」
ペティグリューは能力こそ他のマローダーズのメンバーに劣るが、それでも『動物もどき』に成れる程には優秀な子だった。敵に廻れば厄介という訳ではないが、捕まえるとなると相当に手こずるだろう。
「ブラック…。少し手を出してくれないか?」
「…?…良いぞ」
「失礼するよ」
もはやブラックを疑ってはいないが、あくまで確認のために彼の手首を握る。そしてそこに、僕の魔力を集中させる。
「何か感じないかい?」
「アンタの手が温かいってことぐらいだな」
「…そうかい。なら大丈夫だ」
『死喰い人』は皆、その手首に『闇の印』を刻印されている。これはトムが学生時代に創り出した魔術だ。僕も開発に関わり、僕かトムの魔力に反応して強い熱を持つ。だがブラックが何ともないのは、彼が本当に『死喰い人』ではないからだ。
「君の友人殺しが上手くいく事を願っているよ」
少しばかりの皮肉を込めて言うと、彼は凶悪な笑みを浮かべた。
「あんなヤツ、もう友人でも何でもない。この手で必ず殺してみせるさ」
その笑みは他人が見れば、殺人鬼だと疑わないだろう。彼は仲間思いという点ではグリフィンドールよりもスリザリンの近いのかもしれない。その点は生まれも関係しているのだろうか。
寒空の月がその高度を落とし始めた。夜明けが近づいている。僕とルーピンは彼に別れを告げ、城に戻る。そこに潜む矮小な邪悪を、犬の牙が届く所に引きずり出す日は遠くない。