「―――久しぶり、菜々」
曇り空の下、呼びかけた声に驚きと動揺が入り交ざった様子で目を見開く彼女―――
今までの頻度が頻度だったということもあり、その姿はえらく懐かしく感じた。
「―――コウ……さん」
どこか悲し気な表情を見せた彼女の姿に胸が締め付けられる感覚に襲われる。
今すぐでもその表情を笑顔に変えてあげたい―――彼女を救いたいのだと、俺の心が叫んでいた。
「驚かせてごめん。こうでもしないと来てくれない気がして」
「いえ……あなたには
借り―――もう彼女の中では俺との関係は恩の貸し借りのようなものなんだろうか。
悪気のない言葉かも知れないが、それがえらく寂しく感じられた。
「……それで、エマ先輩たちから話は聞いたよ」
「!……え、ええ。優木せつ菜の正体を朝香さんにバレてしまって」
やはり優木せつ菜の正体を見破ったのは彼女だったか。
俺以外の情報でそこまで行き付いたということだろうか、かなり頭が切れるみたいだ。
「やっぱり、コウさんのところにもエマさんたちが……」
小さく呟いた菜々の表情には深い影が落ち、彼女は申し訳なさそうな様子を見せた。
「あなたにも……迷惑をかけましたね……」
「……いや、そんなことないよ」
少なくとも俺にとって彼女たちの存在というのは大きな起点になった。
伝えてくれた言葉が、思いが、自分を信じようと思えるキッカケになった。
「……それで、今日はその時の話ですか?」
「……まあな」
久々に話すけれど、お互いに気まずさのようなものはない。ただ一つ、二人の視線が合うことはないけれど。
「……俺さ、もう一度スクールアイドル同好会に戻ろうと思うんだ」
その言葉に菜々の肩が一瞬ビクッと震えた気がした。
顔を上げた彼女は優し気でどこか儚さを感じさせる表情をその顔に映し出し、応える。
「ええ、きっとそれがいいです。あなたの力が彼女たちには必要ですから」
何かを諦めたような、本音を隠すように笑う菜々。
まるで自分に嘘をつくような下手くそな愛想笑いに、俺はいら立ちを感じずにはいられなかった。
「……話が終わったのなら、私はこれで―――」
一言そう言い、話を切るように彼女は背を向ける。
菜々からすれば、あの日彼女が口にし、俺が否定をした「優木せつ菜だけが消えて全て元通りの同好会」を肯定している。そんな風に見えているだろうか。
だけど違うんだ―――俺が伝えたいことはそんな自分勝手なことじゃなくて。
「―――菜々っ!!」
これが叶わない夢物語かどうかはいざ知らず、これが最初で最後のやり直しと言うならば、俺はもう間違えないのだと誓った。
背を向け足早に遠ざかろうとする彼女に手を伸ばし、その小さな右手を掴む。
悲し気な顔で振り返った菜々へ、自分の思いを、言葉を伝える。
「だからお前も一緒にスクールアイドル同好会に戻って来て欲しいんだ!!」
ギュッと握りしめた手に熱が集まるのを感じる。
菜々の小さな手。今度これを離してしまえば、もう戻れないような、そんな気がして。
「
スクールアイドル同好会の全員の総意を、彼女に向けて言葉にして叫んだ。
握りしめた手にも思わず力が入る。
「―――痛っ」
「―――あっ」
不意に小さく聞こえた菜々の声に咄嗟に手が離れる。
菜々は少し驚いた様子で痛みを和らげるよう手を擦った後、優し気な表情を見せた。
「気持ちは凄くありがたいのですが、あの時話した通りですよ。私がいるとまた皆さんに迷惑がかかってしまう」
「こ、今度はき、きっと……!」
先ほどのことで動揺してしまったのか、自分でも自分の声が震えているのが分かった。
「それにこの先、ラブライブを目指すというなら私の存在は同好会にとってマイナスになる。自分のことですから分かるんです」
そうしてまた彼女は否定する、自分自身の存在を。
彼女の中に眠る―――“
「……だからそれは、やってみねえと分かんねえだろ」
それがどうしようもなく嫌で、許せなくて―――救いたくて。
あの日と同じように上手く言葉が出せない自分の不甲斐なさに下唇を噛み締めた。
「本当にコウさんは優しいですね、ですが気づかいは無用です。私は生徒会長として、あなたは同好会の作曲担当として、お互いの場所で精一杯頑張りましょう」
そうして彼女はまた笑う。だけどその笑顔はあまりにも不格好で。
上手に笑えていると思っているんだろうか、演技力で言えば彼女のそれはしずくの足元にも及ばない下手くそな笑顔で。
それを彼女にさせてしまっている自分に俺は苛立ちと焦りを感じていた。
「それでは同好会活動、頑張って下さい。何かお力になれることがあればいつでも生徒会室に来てくだされば」
そう言い彼女はまた背を向ける。離してしまった小さな手をもう一度掴むことが出来なくて
少しずつ遠ざかる彼女背中に何を言えばいいか分からなくて、でも今ここで引き留めきゃもう二度と彼女を救えない気がして。
「―――嘘、つくなよっ!」
喉から出てきたのはそんな今の彼女の優しさを否定する、だけど少なくとも今彼女を引き留められる言葉で。
不意に遠ざかる背が立ち止まる。その背中に向けて有無を言わさぬよう口を開く。
「迷惑がかかっちまうとか!存在がマイナスだとか!お前自身はどうしたいんだよ!まだスクールアイドルやりてえんじゃねえのかよ!」
彼女はスクールアイドル同好会にとって自分の存在は不要なのだと否定した。
だけど彼女はその中で自分の“
だからこそ刺さる言葉―――それは良い方向にも悪い方にも、という意味だが。
「な、何を言って……」
「今でもちゃんとスクールアイドルが好きなんだろっ!それともお前の“大好き”ってのはこんなことで冷めちまうほどちゃちなものなのかよ!!」
菜々の肩が小さく震え、その手に力がこもるのが分かった。
「それなのに自分を否定して、傷ついて、嘘ついて……他のやつらのことなんてどうだっていい!お前は―――お前自身がどうしたいのか言えよ!!」
連ねる言葉の中でだんだんと頭に血が上っていくのが分かった。
本来なら彼女を引き留めればそれで充分、だった筈なのに口から出てくる言葉は滝のように溢れ出て止まらない。
「自分自身を―――お前の
息が切れる、呼吸をしろと脳が訴えかけていることが熱くなった頭でも分かった。
それでも言わなくちゃいけない、伝えなきゃいけない言葉があった。
「―――なりてえ
叫んだ声に我に返った俺は忘れていた呼吸を思い出すかのように肺に空気を入れる。
それでも切れた息はすぐには戻らず、肩で息をしながら目の前の菜々を見た。
少なくとも、彼女の“大好き”は俺が一番よく知っている。
期間は短くとも一番近くで彼女の“大好き”に寄り添ってきて。一番そばで彼女の“大好き”を見てきた。
そんな彼女が自分の“大好き”をそう易々と否定できるわけじゃないこと。
それだけはハッキリと分かっていた。
「……なんですかいきなり、私のことを分かったような口ぶりでっ……!」
小さく呟かれた声、肩を震わせていた菜々は怒った表情で振り返り、俺を睨む。
「私がっ……!!私が自分の“
「だからっ!他の人はどうだっていいって言っただろ!!出来るとか出来ないとかじゃなくて、今菜々がどうしたいのかを聞いてんだよ!!」
菜々の叫んだ声に呼応するようにお互いの語尾が荒くなっていく。
「ですからっ!私は同好会にいちゃいけないんです!!私の“
「いちゃいけないなんて誰が決めた!!俺か他の皆か!?それに、誰の為になるからいて欲しいんじゃねえんだよ!!」
「それでも私が―――私がいたら!!“ラブライブ!”には出られないんですよ!!」
「―――“ラブライブ!”なんて知るかっ!!そんなもん今はどうだっていい!!!」
「―――っ」
ラブライブ!―――それは虹ヶ咲スクールアイドル同好会を発足しグループが結成した時に俺たちが掲げた目標。
夏と冬に開催されるスクールアイドルの全国大会で、日夜結成されるアイドルグループのほとんどがその大会を目指して努力し、研鑽を積む。
そして優勝したグループには輝かしい栄誉と名声が得られ、スクールアイドルの歴史にその名前が刻まれる。そんなスクールアイドルとそのファンにとっての憧れで、最高の舞台。
けれど、俺には最初からそんなことどうだって良かった。
―――俺が惹かれたのは、俺が憧れたのは
モニターに映る
お互いに切れた息を整えながら、お互いを見つめ合う。
久々に見た菜々の瞳は宝石のように綺麗で、その奥に微かに感じる驚きと動揺に応えるように俺は口を開く。
「……俺は、お前に笑って欲しい。お前が笑えないのが嫌なんだ」
彼女と過ごしてきた時間の中で彼女との思い出はいつも笑顔と“大好き”で溢れていた。
だからこそ、今辛そうに笑う彼女の姿が、自分の気持ちを隠すような笑うその笑顔が無性に許せなかった。単なる俺のわがままだろうか。だけど今の俺が確かに思っていることだった。
「確かにラブライブみたいな最高なステージ、立てたらそりゃあスゴイけど、俺にとってはそんなことはどうだっていいんだよ―――菜々が笑ってくれればそれで」
彼女がラブライブ!を目指すというなら俺は全力で力になろう、けれどそれで彼女が苦しむことになるのなら、俺は“ラブライブ!”なんて目指さなくたっていいと思う。
菜々がいれば―――彼女が自分の“大好き”を心から叫べて、彼女が笑顔になれるのならそれでいい。俺はそれがいいんだ。
俺はゆっくりと彼女へ歩み寄り、その手をそっと、きゅっと、今度は菜々が痛くならないように優しく握る。
「もう一度、最初からやり直そう。ラブライブに出られなくたって、俺たちならきっと―――優木せつ菜ならきっと、ラブライブなんて目じゃないくらい熱いステージを作れるって信じてるから」
見つめる瞳はもう二度と逸らさない、握りしめた手を握り返すように菜々の手に力がこもる。
「……どう……して」
菜々の口からこぼれた小さな声。彼女はこちらを見上げたまま、不安そうな表情で言葉を続けた。
「……どうして。どうしてそこまでして私のことを……」
彼女と初めて会った日、優木せつ菜計画のことを聞かされたあの日。
最初はスクールアイドルに興味なんてなかったし、断りもした。
けれど彼女と一緒に過ごしていく中で、俺は少しずつ彼女の笑顔とその“大好き”に惹かれていった。
彼女の“大好き”は知らない間に俺にも伝わっていて、いつの間にか彼女の“大好き”は俺にとっても大切なものになっていたんだ。
不意に脳裏に侑の言葉が過ぎる。
―――伝えたい思いはいつだってシンプルだよ。
質問の答えを待つ菜々をしっかりと見つめ、一つ一つ言葉を口にする。
「俺は……お前が―――」
出会った日から今までの積み重ねてきた時間で確かなこと。
守れなかった彼女を助けたいとか。
彼女の“大好き”を肯定したいとか。
終わった関係をやり直したいとか。
結局、救うなんてのは聞こえの良い言葉でしかなくて。
そんなのはただの体のいい理由で、単なるカッコつけで。
そこには菜々の気持ちなんてなくて、俺自身のわがままでしかない。
それよりもっと伝えなきゃいけないこと、俺が言葉にしなきゃいけないこと。
気持ちは真っ直ぐに、思いはシンプルに、伝える言葉を探すけど。
結局浮かんでくるのは彼女との日々、一緒に過ごしてきた時間の中で彼女が教えてくれたこと。
それを口にする。言葉にする。思いにする。伝える。
―――優木せつ菜のことが。
「―――“大好き”だから」
彼女が教えてくれた思いを、湧き上がる感情を、この愛おしさを。
彼女がそうしていたように、真っ直ぐと言葉にして伝える。
「この“大好き”はお前が俺に教えてくれた
何かに夢中になる姿が、嬉しそうに喜ぶ姿が、楽しそうに笑う姿が。
菜々は揺らぐ瞳の中で震える唇をキュッと結び、先ほどより少し赤くなった頬のまま、一つ一つを口にする。
「本当に……本当にいいんですか?私の本当のわがままを、“大好き”を貫いてもいいんですか?」
「―――当たり前だろ。菜々が悩んだら何度だって俺が手を握る。だから一緒に歩いていこう。笑っていよう。今日を、明日を一緒に駆け抜けよう」
真っ直ぐと見つめる菜々の瞳に、真っ直ぐと言葉を紡ぐ。
「もしかしたらこの先も辛いこともあるかも知れない、泣きたいこともあるかも知れない。だけどこれだけは覚えていて欲しい―――俺はいつだって菜々の隣にいるよ」
菜々の頬を伝った涙。彼女の頬に手を伸ばし
彼女の“大好き”の一番そばで、彼女の隣でその思いを。
「だから―――菜々の
その言葉に応えるように彼女は笑う―――涙ながらも無邪気に笑うその姿は俺がずっと見たかった大切な笑顔で。
彼女の中の“
空を覆っていた雲の切れ間から降り注ぐ天使の梯子は、まるでそれを祝福するかのように俺と菜々を照らして輝いていた。