――私が、こうして座り込んでどれ程だろうか?
腕時計なんていう大層なモノはないのだが、とうに夜は更けた。太陽は既に頭上を登り既に私を追い越している。ずっと膝をついていたせいで、アスファルトの硬さで膝が痛む。恐らく帰っても怒られるだけだ。そう考えると帰りたくない気持ちの方が強くなってくるのだが肉体は限界らしい。飢えを訴えて腹を鳴らす。小さく響く音を聞けば、一気に虚脱感に襲われて。それがまたどうにも情けない。
――それでも、失われた喪失感は胸の空虚さを誘う
目の前で見える視界は灰色がかったように色彩を感じず、肌に感じる冷たさも分からない。まるで伽藍洞な人形のようだった。
――後悔し、悲しみに暮れた後のヒトの心はこうなってしまうのだろうな
そんなことを他人事のように思う。……一度ならず、二度までも、私は子供を二人失ってしまった。どちらも不慮の事故ではないのに、私自身の甘さ故に。
――その事実は、私の戒めになるのだろう
失ったモノは戻らないし、治せない。時間は巻き戻らぬのもまた事実、それが摂理。私に出来ることは受け止めることしかないのだ。次に続かぬように、学ぶのみ。……そうすることしか出来ないのである。グルグルと、黒い淀みが腹の内で循環した。
――家に帰ればやはり家族に怒られた
何処に行っていたの、母の言葉に始まり父親の拳。罵声に涙、その他諸々。迷惑も考えられないんだ?年の近い妹は相変わらず、私に厳しい言葉を吐き捨てるだけだった。その後色々言われた気がするが、大半の言葉は聞き流してしまったから覚えてはいない。服装も砂だらけだったから余計に言われたが、そんな言葉は最早響くことはなかった。
「腕は動くの?」
そうして、いつもの言葉を私に吐き出した。心配だと、そう言って。……私の心配などとのたまう口はどんな心境なのだろうか、とも思うが性格上厚かましいのだから今更だ。
――心配なのは私の腕だけだろうに
内心で吐き捨てた言葉が胸の中で黒く淀む。次第に蓄積したどす黒い何かで胸焼けがする、気持ちが悪い。それを吐き出す術は、未だない。また音が雑音になって塗りつぶされる。ギャアギャアと騒ぐそれらが自分と同じ人間であるのかも疑わしい。
――……どうやら疲れているようだ
適当にそれらに返答して、私は部屋に籠る準備を始める。鳴き声はまた一層激しくなったが扉を閉ざす。そのまま背を向けた。
――――――――――――――――
――どうして出来ないの?
皆出来ていることなのに、そう言って母が私の肩を掴む。ゆさゆさと揺られるまま、頭が動く。脳が揺らされて気持ちが悪いのに、そんなことなど言える立場ではないことも知っていた。だから黙って受け入れる、受け流す。流れる水のように、そのまま風に流れる草木のように。
――いっそ私がそんなモノになれたら良いのに
いつもそう思っていた。そうすれば何も言われないし何も考えずに済む。花は良いな、川は良いな。ただ見られて鑑賞されて褒められる。私は褒められたことはないから余計に羨ましい。同時にそうした自然の景観に癒される。生命力の躍動と、力強さをいつまでも見ていた。そうして頑張って笛を吹く。リコーダーとかいう縦笛を必死に指を動かして、息を吹けば息苦しくなった。何度も繰り返してようやく出来るようになって母に聞かせる。
――それで?
他の子はもっと凄いのをやっていたよ?もっと上手くならないと。そう言って母は私に新しいことを押し付けた。また新しいことに追い立てられて責められる。必死に追いかけるのに、私だけがいつも遅いのだ。
――……いつも私はそうだった
勉強も運動も、平均以下、愚鈍でノロマ。頑張って追い付いても、既にその先で誰かが立つ。周囲も私と同じくらい頑張ってやっているのかと思えば、成長すればそうでもないことにも気付く。適当に聞き流しても出来る生徒、不真面目でも平均的な生徒が妬ましい。劣等感を抱くには充分で、卑屈にもなった。妹は後者の部類で、そつなくこなして私を笑う。
――馬鹿みたい
……私もそう思う。妹のように、私もそつなく出来ればこうはならなかった。そうして出来れば両親は私に無関心にはならなかっただろうし、妹とだって上手く関係を続けていられただろう。だけど、そうはならなかった。つまるところ、私は私のままだった。腫れ物扱いの現状で打破するには至れない。周囲の人間が私をなんて言っているのか、知らない訳ではなかった。
――私は現実を見たくはないまま、初めて絵を描いた
クレヨンを持って絵を描いてみる。家にはそれしかなかったからそれで描いた。パステルカラー独特の色彩が紙に乗り、赤い線が走る。それが何故か楽しくて、私はそれをいつまでも描き続けた。
――最初に描いた絵はいつか見た公園の木だった
当時の私は小さくてその木が世界の中心にも思えていたから描いたが中々いい出来だ。次に描いたモノは橋の下にある川、窓から見える街並み。拙かったそれらが次第に鮮明になっていく。描き上がった絵が私の周囲を取り囲み、その中心に私がいる。
――そこには誰も居ないし、音もない
私だけの世界は、なんて素晴らしいのだろう。クレヨンは既に指では持てないのに私はそれも気にせずに紙に描いた。そんな光景を両親は見て、初めて褒めた。
――凄いじゃないか
端の紙を拾い上げて私の頭を撫でる。……嬉しかった。だから一層頑張って描いた。詰み上がるスケッチブックの量だけ、私の画力は上がる。表現技法はその都度覚えて、どうしたら構図が出来るのかを考える知識と技術を身に付けた。勿論、そこには話せることを増やしたい思いや恥もあったのだが。それでも、確かに楽しくて、時間は過ぎていく。
――気付けば私は表彰されていた
両親が勝手に応募したのだろうか、周囲の拍手で耳が痛い。表彰状も、優勝カップも重たくて邪魔だった。その時の感情は上手く表現が出来ない、私は筆と紙だけが欲しいのに。
――私は家の個室に連れ出されていた
空き家で物置として使われていた部屋だった。既に物はなく、キャンパスと椅子だけが置かれていた。応援しているぞ、そう両親に言われて筆と絵具だけを渡される。環境をくれた筈なのに、想ってくれたのに。……何故こうも虚しいのか、重く感じるのか。分からないが、ただ両親の笑みが気持ち悪い。最早顔が分からなくなった。妹が叫ぶ、なんでこいつだけ。そう言って私の肩を叩くが両親に諫められた。
――怪我をさせたら危ない
謝りなさい、そう言って妹を叱る。学校に行けばやはり、褒められる。担任も肩を叩いて褒めてきた。普段話さない同級生も声を掛けてくる。……シンデレラストーリーなんてモノがあるが、こんな光景であるのならば私は遠慮したくなった。
――大嫌い!!
何であんただけ、家に帰れば妹が罵倒する。その眼には妬みがあって、私はそれを受け止めるしかなかった。妹との関係が修正できなくなっていく。私の中で、他人への関心が消えていった。
――私には、絵しかない
絵を描こう、そう思ってただ筆を持つ。私の中にある世界は、感じたモノは確かにそこにある。絵だけは私を裏切らない、絵だけが私の……。ブツリ、と目の前が真っ暗になった。
――――――――――――――――
目を覚ませば既に夜。私の額に汗が滲んでいた。張り付いた前髪を掻き分けて、キャンパスの前に立つ。
――描かなければ、とただそれだけを思う
筆は真っ赤で、私はその腕を動かした。鮮明に浮かぶ血だまりはいつまでも私の記憶に残っている。何故かそれを描こうと思っていた。……そういえば攻撃する手段を持たないといけなかったと考え、呪力を込めた。
――込めた想いはかつての記憶への思い
夢で見た記憶は鮮明で、今しか描けないと思った。同級生に対して、担任に対して感じた想いもそのままに描く。送る思いは両親へ、妹へと。全ての人に対しても忘れずに。閉じ込めて、腹の内に耐えていたモノだった。それが噴き出して、呪力が篭る。明確な殺意は形となって、絵の中は血だまりに濡れた。ガチャリ、ノックもなく開いた扉に目を向ければ家族の誰かが私に声を掛けるが、そんな声も分からない。
――飛び出した子供が、それを喰らった
撒き散る血と、臓物。崩れた顔面でようやく私は誰かを理解する。ああ、妹か。そんな顔の形をしていたな、他人事のようにそう捉えて子供と一緒に下の階へと下りていった。
【私】は家族を〇した