私の描いた世界   作:こしあんあんこ

4 / 10
あの人と別れる。やることはやったらしい。




――いつもの川の土手で、私はキャンバスの前に立っていた

 

 やることはいつもと変わらない。使いなれた筆を持ち私は絵を描き始めた。今日は呪霊を描かずに私は風景画を描く。興味のあるものは変わらず呪霊なのだが、風景を描くことは変わらずに続けていた。というのも風景画も描かねば絵の質は落ちてしまうような気がしていたからだ。生き物だけが上達していて、その他の造形物や風景が拙ければそれはやはり浮いてしまう。常に並行して上達させなければならないと思うからこそ続けていた。

 

――絵は常に勉強であり反復作業だ

 

 一日でも描かなければ感覚を失うような気がするし、私自身そう常に思うから一日とも絵を怠ったことはなかった。何より、私は私の世界に欠陥があるのを酷く恐れていた。

 

――私の絵の中の世界は全て息をしていなければならない

 

 その中で生きている生き物も、私の中で生き続けなければならない。そして私もそこで生きていくのだ。……そうでなければ、私は此処で生きてはいないのだ。

 

――それが私の本音で、自分自身の弱さそのものだった

 

 顔色を窺って反応を見なければならない社会、人の悪意も善意も見える私の現実。そこは私にとって酷く生きづらかった。せめて絵の中では息をしていたい、私の切実な願いだった。いつも追われるように描くのはそういう意味があるのだが、やはり私は絵を描くことが好きなのだ。現実逃避の延長で始めたものだったが、私は世界を表現するこの行為を愛している。

 

――下書きの風景画に筆を走らせるだけで心が高鳴った

 

 既に下書きを済ませたものに色を付けて少しずつ形になるまでの工程は楽しい。やり直しが出来ない直描きよりも丁寧に色を付けられるから心にゆとりが持てる。落ち着きたい時、心穏やかになりたい時に私はこうして描くのだ。

 

――勿論時間がある時にしか出来ないのだが、幸運なことに夏休みだ

 

 窮屈な集団生活から解放された私は羽根を伸ばしていた。すぅっと口から息を吸って深呼吸をすれば自然の香りが香った。木々の間から差し込む太陽の光は私の肌を僅かに温める。木陰で肌寒さを感じながらもそれでいて心地が良い。やはり自然の恩恵が大きいのだろう。

 

――人間の化学は寒さと熱さを克服するに至ったが、私はどうしようもなく自然が恋しく思うことがある

 

 寒さにも熱さにも厳しく弱者にも排他的ではあるが、それでも自然は美しいのだと思わずにはいられない。凍てつく氷であっても灼熱の砂塵であっても、そこには美しい景観と造形があるだけだ。例えば石灰岩が地下水や地表水で侵食し出来上がる鍾乳洞、例えばマグマから冷えて長年の月日を経て出来上がる結晶鉱物の類。人の手が届かぬ自然には神がかった奇跡が多いのだ。私たち人間の作り上げるよりも自然に任せた方が世界は美しいに違いなかった。

 

――勿論、その価値は人にも分かる

 

 そういうモノは高価で観光地になるもまた事実。見るだけで留められずに経済にするのは人の性だろう。突き詰めればそれらはモノでしかないのに。価値を付けたがるのはそうしなければ自分の今いる位置が確認出来ない人間の矮小さ故か。社会的地位と資本の大小。人間が勝手に作ったもので卑屈になって、尊大にもなるのだ。

 

――そんなことのために自然が消耗されていい筈がなかった

 

 世の中で過剰になるエコロジストたちの思いが少しだけ分かるような気がした。私だって私の描く絵がそんなことに巻き込まれたのならば必死にもなるだろう。……次第に絵に集中出来なくなってきた。少し休もう、そう決めた私は一度筆を置く。持ってきた携帯椅子にもたれ掛かれば僅かに蓄積した疲れを癒した。私は水筒の麦茶をカップに注いで飲み干す。冷たいものが喉に駆け抜けて胃の中を冷やした。すうっと悪いモノを考えてきた思考を冷静に戻す。からん、と溶けた氷がぶつかる音が水筒の中で響いた。

 

――ああ、いい天気だ

 

 帽子のつばを上げて、顔を上げた私は改めてそう思う。ギラギラと照り付ける太陽と群青色の空、まるで切り取ったように浮かび上がった入道雲が此方を見おろす。いっそ懐かしいと思える程の趣ある風景に、私は想いを馳せた。こんないい天気なのだからもっと描かねばならない、意欲を再び見出した私が再び筆を持ち始めるとあの人がやって来た。

 

「やあ、元気かい?」

 

 あの人のいつもの軽口で始める挨拶に私は頷くだけだ。少し胸をくすぐる淡い想いはきっと得難く尊いものに違いなかった。

 

――私の見る現実にまた新しい価値観と世界をくれたあの人との時間、大事じゃない筈はない

 

 私は僅かに吊り上がりそうになる口角を必死に取り繕いながら、あの人を見た。そこにはやはり胡散臭いような張り付けた笑みが浮かぶだけだ。興味と考察、観察的なその瞳はきっと私の芽生えた心の内とは違うのだろう。

 

――そういう目で私を見ていることに落胆するのだが、私はそれでもよかった

 

 私はそれを含めてもこの時間が好きなのだ。何かを思わない訳ではないが、それは私の独りよがりの感傷だ。勝手に傷付いて、勝手に友愛を感じているだけ。互いに呪力について語り合うことに感情が伴う必要はなかった。

 

――あの人の思いはあの人だけのものだ

 

 尊重するべきことであり、それは私もまた同様に持つ権利。芽生えたこの感情は私だけのものだ。今まで知らなかった感情の揺れに驚くのも新しい発見だ。見知らぬモノを知り、はじめて私は学ぶのだ。私の描く世界の糧になるのならば、決して悪いことではない。

 

――私がこの時間が好きだと言えるこの心に偽りはなかった

 

 だが、それでも寂しいと言う心の悲鳴は日に日に増していく。狭い内側に居るような世界から私を外に連れ出してくれたのはあの人だった。まるでもう一度生まれ直したような感覚、同じものを見て共感し、対等でいられる興奮。あの人は私にとって親であり親友だった。表面上はいつも通りにした、そうでなければきっとあの人は離れてしまうような予感がしていた。

 

――私はこの時間がいつまでも続いて欲しいと願っていた

 

 だが、それでも別れは来てしまう。老いがあるように、名画が朽ちていくように。永遠なんてものは保障されていないのだ。

 

「ごめんね、今日はお別れを言いに来たんだ」

 

 あの人は、なんてこともない口ぶりでいつもの態度でそんなことを言った。え、私の声は酷く遠ざかっていく。蝉の声も夏の蒸し暑さも、気付けば無くなっていった。

 




【私】はあの人との時間を忘れないだろう。

執着はするけど分別は出来るらしい。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。