「やっぱり、力仕事は疲れる」
手を上にしながら身体を伸ばして、誰もいない廊下を歩きながら息を吐くようにつぶやく。
普段は定時で事務作業が終わるところ、貿易所が人手不足なために手伝いに駆り出されて普段行わない肉体労働に身体が悲鳴を感じていた。
肉体労働に残業。
2つの疲れが合わさったことにより、いつもよりも疲れていた。
今日は早く寝よう。そう思いながら明日の業務に思い浮かべながら部屋の近くまでたどり着こうとしていたとき、トビラの前に誰かが立っていた。
それは意外な人物だった。
「ラップランドさん?」
発した声に気がついたのか、目元に縦状で切り傷が残された顔をこちらに向ける。
「やあ、待ってたよ」
薄らな笑みを浮かべながら近づいてくる彼女に疑問を問いかける。
「ラップランドさん。こんな夜中にどうしたのですか。なにか御用ですか?」
通常業務が終業しており、活動しているとするならば一部の夜勤で働いている人達だけであり、他の人は就寝している時間帯であるはず。
そんな時間に訪問してくるということは何かあるのだろうか?
もしかして仕事に関する連絡なのかと思い、予定されていた業務について振り返っていると彼女のほうから。
「いや、キミと少しお話がしたくて来ただけさ」
と、近くにいる彼女は上目づかいで言ってきた。
お話ですかと、少し呆けた声を出しながらも考えを巡らす。
業務の休憩時間で雑談をすることはあったが、こんな夜中に来るということは初めてで何か大事な話があるということなのではないのか。
大事な話……テキサスさんのことかな。
話すとするならば、彼女のことしかないだろう。
身体は疲れていて休みたい気持ちはあるが、無視するわけにもいかないな。
「少しなら良いですよ」
申し出を受ける言葉を言うと彼女は嬉しそうな表情を浮かべた。
となると、休憩所が良いかな。今の時間だと人もいないはず。
「取り敢えず、休憩所に向かいましょう」
これから向かう場所を告げて歩いてきた道を戻ろうとすると、手首を掴まれる。
不意な出来事に止まってしまい手首を掴んだであろう人物を見る。
「ここから向かうとなると遠いだろう。キミの部屋でも良いじゃないか」
そんな申し出に待ったを掛けた。
知っている人だとはいえ、こんな夜中でしかも女性を部屋に招き入れることに抵抗を感じた。
「いや、それは」
断ろうとしたとき、手首から痛みが走る。
突然の痛みに少しだけ呻き声が漏れた。
「ねえ、いいだろう」
低い声でその表情は怒りが浮き出ているように見えた。
いや、怒りではない。時折みることがある表情。
恐れで感じながら、彼女である所以の狂気。
「ボクとキミの仲じゃないか。……別にいいだろう。それとも、ボクを部屋に入れたくない理由でもあるのかね?」
彼女の手に力が入ってくる。
徐々に強くなっていく痛みに思考が途絶えそうになるが、片手で力を籠める彼女の手に傷つけないようにゆっくりと重ねる。
「理由、はあります」
痛みで声が出にくい。けれど、伝えないと。
不正常な思考を頼りに言葉を綴る。
「あなたが女性、だからです。人通りのない、時間、にあなたにもし、何かあったら」
痛みに耐えられず、声が途切れる。
それもそうだ。彼女は戦闘オペレーターで力も自身の何倍もある。
分かりきったことを思い浮かべていると、ふと力が弱まった。
与えられた痛みが解放されて、息を吐きだしながら、途切れそうな息づかいで彼女を見つめる。
「何かあったら。それはボクのことを言っているの?」
俯いたままで表情は見えなかったが、彼女の問いかけに言葉を返す。
「はい。友人ですから」
そう、友人。この世界に訪れて出会った大切な友人。
「友人……」
キミにとってボクは友人。
キミが戻ってくるのを何時間も部屋の前で待っているときの、高揚。
帰ってきたキミの元へ近づいたときに気がついた誰かの女性の匂いの、不快。
キミが部屋に入れようとせず表情を歪めて捨てられると思ってしまった、恐怖。
痛みに耐えながらもボクに優しくしてくれて心配してくれたキミへの、安らぎ。
そんな全てが友人という言葉で先ほどの身体中に巡った突き刺すような激流の入り混じった想いは、一瞬にして静かになる。
「ハハッ」
その程度でしかなかった。その程度しかなかったのだ。
キミは受け入れてくれた。狂気と闇を全てさらけ出してなお、ボクを受け入れてくれた。
与えてくれた。ひとりだったボクに小さな温もりを与えてくれた。
殺し合いの中で力を振るうことでしか満たされなかったのにキミは、それ以外のことでボクにささやかな幸福を教えてくれた。
キミは、キミは、キミは、キミは、キミハッ!!
キミにとってボクは特別な人だと、勘違いしていた。
「大丈夫ですか?」
忘れることのない人からの声が聞こえた。
俯いていた顔を上げるとそこには、キミがいた。
ああ、絶対に手放したくない人。誰にも一瞬たりとも渡したくない人。ボクだけの大切な人。
傷つけた相手にそんな心配するかのような表情を向けてくることが、ボクを狂わす。
水滴が落ちる音が耳に入ってきた。
音が聞こえてきた場所へ視線を向けると、いくつもの小さな赤い模様が床に出来ていた。
「あ」
間抜けな言葉と同時にボクからキミの手が離れる。
離れたことに寂しさを感じるが、それ以上に気になるものがあった。
指先についた血。ボクのではない。
「あのラップランドさん。少し待ってもらえませんか?」
傷口をハンカチで抑えながら、確認を取ってくる。
「行ってきなよ」
動揺を悟らせないようにどうにか返すことが出来た。
視線は指先についた血から外れそうにない。
キミが通り過ぎていくのを確認して、トビラが開閉する音を聞く。
この先は危険だと、本能が警告を鳴らしている。
けれど、こんなにも甘美なモノを前にしてお預けのままでいられるだろうか。
指先についた血をゆっくりと、震えながらも、口元に近づけていく。
指先が口元に近づいていくほど警告は強く鳴り響いて、頭が割けるような痛みが襲ってくる。
それでも、止まれない。危険だと痛みがあろうとも止められない。
指先が口へと滑り込む。
脳が弾け飛ぶ。
なんだ。身体中の全身に電流が流れゆく。今までに感じたことのない快感が押し寄せてくる。
殺し合いの中で返り血を浴びた時、血が口に入ってしまったときはあったが何も感じなかった。
これは違う。
「ハッ、ハッ、ハッ……?!」
呼吸がままならない。快感で疲れが圧しかかってきた。
疼く。火照った身体が疼く。
ドコに行ったんだ?
先程までいたキミを見つけるため、まわりを見渡す。
そうだ。部屋の中に入っていたんだ。
疼き続ける身体を抑え込みながら、キミの元へと向かう。
トビラを開けると部屋の中央には求めていた人がいた。
その人目掛けて飛び込むと相手は体勢を崩して、床に押し付けられるように倒れ込む。
ボクは覆いかぶさるように彼の顔を見定める。
その驚愕の表情にボクの口から溢れた涎が零れ落ちる。理性など、この状況では邪魔なものだ。
良いよね。キミの確認を取る余裕もない。この疼きを抑える必要もない。
キミガ、ホシイ
なお、たまたま通り掛かった人が助けてくれたので未遂で終わる。