その日、サイレンススズカは天皇賞秋を先頭で走り抜けた。ただ、大差勝ちではなく、2馬身差という大逃げを得意とする彼女にとっては珍しい苦戦、といってもいい勝ち方だった。
だが、彼女はその勝ち方を確信犯的にやったと、そしてこの勝利は私のものではないと断言した。
「大差で逃げることも可能でしたが、先を、先を見据えました。そして、この勝利は、彼に捧げるものです」
こう発言した彼女により、サイレンススズカに交際相手がいる、意中の相手がいるなどと囃し立てられたが、まったくそういうこともなく、マスコミ各社やURA関係者は首をかしげるばかり。
…数年後に天皇賞春・秋、ジャパンカップ、有馬記念、さらには凱旋門までを走り抜けたサイレンススズカのインタビュー記事が世に出たときに、人々はその真相を知る。
―以下記事の抜粋―
「――そういえば天皇賞秋で語った彼、とは誰のことだったのでしょう?交際相手、意中の人、恩人、トレーナーなど様々憶測が飛び交いました」
「そうですね、荒唐無稽かもしれませんが、一つ怪談話をしましょうか」
「怪談話?」
「はい。時は10月31日。天皇賞秋の前日のことです」
■
その日、私は早朝に目が覚めてしまいました。やはり翌日11月1日が天皇賞だったからだと思います。時は10月31日。午前3時前。どうもにも落ち着かず、その日はそのままジャージに着替えて朝練に出かけました。
宿舎の玄関をくぐり抜けて空を見上げましたら満天の星。秋を過ぎてもうそろそろ冬が見える。そんな気持ちのいい夜だったことを覚えています。
宿舎を出て、街中を少し走り抜け、川沿いを抜けて。いつものルーチンワークをこなして、トレセン学園に戻ってきたのは3時30分のことでした。その時です。私の耳に、聞きなれた、しかしこの時間帯には絶対に聞こえない音が飛び込んできたのです。
ガシャン。と重い、聞きなれた、あの発バ機にウマ娘が収まった音が。
私はその音を聞いたとき、怖いと思いました。しかし、それと同時に好奇心も湧いていたのです。この早朝に発バ機を使って、いったい誰が何をしているのだろうかって。
用務員さんが機材のメンテナンスをしていた?
学園長がコースの手入れをしていた?
はたまた、誰かの秘密のトレーニング?
そういろいろ思いながら、私の足はトレセン学園の練習コースへと向いていました。エントランスを後にし、校舎を抜け、ちょっとした林を抜けた先。見下ろすように覗いたそこには、いつものトレーニングコースが有りました。
そして、確かに発バ機が出ていました。ただ、不思議だったのは、用務員さんも、学園長も、…いえ、ウマ娘もトレーナーさんも、誰一人いなかったのです。そもそも、エントランスまで響き渡る音がしたのですから、誰かしらがいてもいいはずなのに。
私は不思議に思って発バ機に近づいて行きました。大外8枠18番は空。当然です。17番、16番と確認していっても空。そして2枠3番まで確認したところで、私の耳が何かの音を捕らえました。
ブルル。
それは何かの息遣いとも言えるものでした。はっとして音の出所に目をやれば、そこは1枠1番。発バ機が閉まっていました。
トン、トン。とよく聞けば足を地面に叩きつけて抉る音もします。
やっぱり誰かいた。そう思って発バ機の前に回り、その顔を確認しようとしました。
誰ですか?夜中に何をしているのですか?
そういいながら近づいた私の目に飛び込んできたものは、私と同じ緑の何かを被った、巨大な何かでした。
そうですね…容姿で例えるならば、牛に近いと思います。しかし足の形や顔の感じはキリンといった風貌でした。ただ、その脚や全身の筋肉は見たことがないほど発達していました。大きさは3メートルぐらいで、私と同じ栗毛と言っていいと思います。よく見ると耳のカバーは私とお揃い。尻尾も私とよく似ていました。それが四つ足で立っていて、そして、私を見つめているようでした。
―待っていたぞ―
そういわんばかりに、私を見つめていました。
―待ちわびたぞ―
そういわんばかりに、足元は抉れていました。
―さあ、ヤロウカー
そういわんばかりに、1枠2番のゲートが私を迎え入れるように、開きました。
この時の感覚は、今思い出しても不思議なものでした。ああ、そうか、今から私はこの何かと、レースをするんだな、と直感で理解しました。本能といってもいいかもしれません。
深呼吸をしてゲートに収まると、四つ足の何かはこちらを一瞥してから前を向きました。
『東京レース場。11月1日。1枠1番に■■■■■■■■と■■が収まります』
何かが聞こえた気がしました。ですが、最初は気のせいだと思っていました。でも、この時は知る由もなかったのですが、走り出してみたときに、さらにこの声ははっきりと聞こえるようになってきます。
緊張感が高まり、そしてゲートが開くと同時に、私は最高のスタートを切れたはずでした。しかし、私を上回るように、隣の四つ足の何かのほうがスタートが良く、私は後ろを追従する形となりました。
走り出した時、速い。そう感じました。4つの筋肉質の足から繰り出されるそのパワーは私たちウマ娘に劣らないものだと。音もドドドド、と重厚な音をさせていました。さらによく見ると、足の先の白い部分、たぶん爪だと思うのですが、そこには蹄鉄が付いていました。月下の光に照らされて輝くそれが今も脳裏に焼き付いています。
そしてそのパワーは凄まじく、私は少し距離を開ける形で追走となりました。四つ足の何か。
だけど、負けたくない。そう思って、加速しようとしたその時です。
『さぁ期待に応えて■■と■■■■■■■■先頭、そして■番の■■■■■■■■■』
『早くも、早くも8馬身の差をつけて』
こう、聞こえてきたんです。えっ、と思って周囲を見渡してみたのですが、やはり誰もいない。ですが、その四つ足の何かの走りに連動するように、その幻聴もどんどん熱を帯びていきました。
『これだけカメラを引いても後ろが見えない!ようやく見えてきた!■番の■■■■■■■■■!』
私と四つ足の何かの距離はどんどん開いてきます。ええ、本当に早かったです。ですが、私も負けていられません。深呼吸をして、一気にトップスピードになるように足を動かしました。そのかいあってか、距離にして1000をすぎたあたりで、その何かと並べたのです。
『1000メートルをどのぐらいで通過するか…57秒4!57秒4!で通過です!』
57秒4。そう聞いたとき、もう少しでこの何かはばてて落ちていくと思いました。だって、私以外のウマ娘は、このペースを刻んだまま、スピードを維持しながらゴールまで持っていける人は少なかったのです。四つ足の何かも例外ではないと思っていました。ですが、この四つ足の何かは違いました。
『並ばれた、しかし■■■■■■■■と■■!加速していく!■■■■■■■■を突き放していく!』
四つ足の何かが更に加速していきました。しかも、その加速する瞬間。四つ足の何かの上に、明らかに人の幻影が見えたのです。ヘルメットを被り、緑の上着を着て、鞭のような棒を持った人が。
ちらりと彼らは私を一瞥すると、あっという間にコーナーの向こう側へと駆け抜けていったのです。
追いつけない…!そう思って奥歯を噛んだ時でした。
『おっとこれはどうしたことだ!■■■■■■■■に故障発生!故障発生!』
幻聴に顔を上げると、コーナーの先に消えていったはずの四つ足の何かが、よたよたとコースの外周へと逃げていく様が、視界に飛び込んできました。
えっ?と思いながら、それを横目に通り過ぎ、私は練習コースのコーナーを抜け停止しました。そして後ろを振り返ってみれば、四つ足の何かはもうターフの上には居ませんでした。
不思議に思いながらもスタート地点に戻ってみれば、そこには発バ機も、あの四つ足の何かが抉ったであろう足跡も、何の痕跡も残っていなかったのです。
■
「それはまた…不思議な話です。しかも、その聞こえた幻聴というのは…」
「はい。トゥインクルシリーズの天皇賞秋の実況そのままでした。11月1日のあの天皇賞秋、そのままの実況でした。『さぁ期待に応えてサイレンススズカ先頭。早くも、早くも8バ身の差をつけて』と聞こえたときには、まさか、と思いながらも鳥肌が収まりませんでした。『1000メートルをどのぐらいで通過するか…57秒4!57秒4!で通過です!』と実況が聞こえたときに、私は確信したんです。ああ、あの四つ足の何かって…姿かたちがこんなにも違うけれど、走り切れなかった、私なんだって。だからこそ、私は途中でペースを緩めて走ったのです。もちろん、全力ではありましたが、限界を超えないように」
「なるほど、それで、彼のおかげ、と」
「はい。彼の、四つ足の何かのおかげで、私は天皇賞秋を走りきることができました。そして現役も続けられています。おそらく私がそのままの調子で、最高速であの東京レース場を2000メートル走り抜けてしまおうとしたのであれば、優勝どころか完走も難しかったでしょう」
「貴重なお話、ありがとうございました」
「いえ。このような話でよければいくらでも。ああ、そうそう最後に一つだけお伝えしておきますね」
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