4月。
天候は、晴れ。バ場は良。
阪神競バ場、第9レース、アザレア賞。
(俺、ここで何をしているんだろ・・・)
そう彼は思い、ぼんやりと目の前で走るウマ娘達を見ていた。
彼女たちが必死に走っている姿を余所に、この若きトレーナーの心は上の空だった。
彼の視線の先には、レース場の空にぽっかりと浮かぶ白い雲。風にゆったりと流され、鈍く、ゆるく、ただ漂う。
ただ重たくも流されるばかりのその白いわた雲達が、暢気にも見えたし、彼自身のことをあざ笑っているようにも、彼には見えた。
そんな最中実況が叫ぶ。
『さぁ、最終コーナーを抜けて!先頭に立ったのはジャストマイラブ!』
その実況を聞き
(俺のウマ娘じゃない)
と思う彼。
『外から差してきたのはシノブラフィック!その後ろにモニュメンター!』
と続く実況にも
(俺のウマ娘じゃない)
と再び思う彼。
『先頭は三頭の争いに持ち込まれました!さぁ、誰が勝つのか、ジャストマイラブ!シノブラフィック!モニュメンター!』
興奮する実況も彼には鬱陶しく聞こえた。
レースは白熱するが、彼の心は急速に冷めていく。
会場の熱気すらも煩わしく感じる土曜日の午後。
彼の担当するウマ娘は11着でレースを終えた。
翌日。
大阪から電車を乗り継いで帰ってきた彼とウマ娘だが、その長い旅路の間、会話をすることは殆ど無かった。
彼の担当する青鹿毛の長い髪のウマ娘は、電車の窓の外の景色をぼんやりと眺めるばかりで、トレーナーの彼も何も言わず、ただスマホを触ったり、うたた寝をしたりするばかりだった。
4時間30分以上の旅路を経て、兵庫県宝塚市・仁川駅から東京都府中市・府中本町駅にたどり着いた二人は、そのままコインパーキングに止めてあったトレーナーの車、型落ちの赤色の日産エクストレイルに乗り、トレセン学園美穂寮にまでたどり着く。
「ありがとう・・・ございました・・・」
そう言って、頭を下げるウマ娘に対し
「お疲れ様」
と型にはまった対応をするトレーナー。
やっと交したような、素っ気ない言葉達は、会話と言うよりただの合図のようだった。歩行者信号のメロディの方がまだ愛想がある程度に思えるレベルである。
そして車に乗り込み、その場を後にするトレーナー。
しばらく車を走らせる中、携帯から着信音が流れる。Bluetoothのイヤホンを嵌め
「もしもし」
と電話に出ると
『こんにちは、突然すみません。私です』
と、壮年の男性の声が耳に入ってきた。
「先生」
その声には聞き覚えがあった。彼がトレーナーになるために師事していた元トレーナーである。彼の記憶に寄れば、今はトレーナーを引退し、北海道にて一人暮らしをしているはずだ。
「お久しぶりです。どうしたんですか、急に」
『いえ、北海道から用事があって東京に来ていたのですが、ちょっと時間が余りましたので、よろしければ少し会えないかな、と思ったのですが・・・。急で申し訳ないのですが、ご都合が合えば幸いです』
物腰柔らかく丁寧なしゃべり口。
記憶の中の『先生』そのものの姿が目の前に現れるようで、彼の心についつい心に懐かしさが広がっていく。
その感情の流れのためだろうか、
「いえ、とんでもない!今どちらにいらっしゃいますか?」
と少し興奮気味に彼は話す。
『あぁ、よかった・・・。貴方は覚えていますか?東京競バ場の近くにある、古い洋食店・・・』
「もちろん!もちろんです!」
そこは先生の行きつけの店だった。師事していた頃によく連れて行ってもらった思い出の店。
懐かしい記憶。よく丁寧でもあり厳しくもあり様々な教えを授けられた、青春の記憶。
それが蘇り、彼の声音も明るくなっていく。
「では、今から向かいます!あと…そうだな、10分もあればお邪魔出来るかと思います」
『そうですか、慌てなくて結構です。こちらはこちらでちょっとお相手いただけてる話し相手もいますので。安全にお越し下さい』
そうお互い会釈をしあい電話を切った。
昨日のアザレア賞での記憶など、まるでなかったかのような気持ちで、彼は車を走らせるのだった。
東京競バ場近辺の洋食店にて。
「おいしいですか?」
「はい、とても・・・」
「それはよかった」
『先生』は、目の前のウマ娘が美味しそうにニンジンオムレツを食べるのを見て、にこにこと笑みを浮かべていた。
白髪のオールバック、丸眼鏡をし、真っ黒なガウンのような服を身に纏っている彼こそ、トレーナーのいう『先生』だった。
「ここのニンジンオムレツは絶品なんですよ。最近の若いウマ娘は知らないようですが、昔はよくここに担当のウマ娘と食べにきたものです」
「すごく・・・おいしいです・・・。また一人で来ます。ありがとうございます・・・」
目の前のウマ娘は深々と頭を下げた。顔は無表情ながらも、琥珀のような金色の瞳は輝いている。
(ずいぶんとお気に召したようだ)
と先生は、その瞳の色を見て、彼女の機嫌を察する。表情に出すのが苦手なだけで、案外素直なウマ娘なのかもしれないな、と感じた彼である。
店のチャイムが鳴る。誰かが来店したのを察し、店員が入り口のドアの方に向かった。
「いらっしゃいませ」
「すみません、ここで待ち合わせなのですが」
その声を聞いて
「あぁ、こちらですよ!」
と手を振る先生。
先生と目が合ったトレーナーは眼を見開き、笑顔を浮かべて彼の席の方に歩いてきた。
「先生!お久しぶりです!」
「君こそ、元気そうで何よりです」
先生もにこやかに笑い、2人は握手を交す。
ふとトレーナーが席の方に眼を移す。すると彼の笑顔が急速に冷えていった。
「マンハッタン、カフェ・・・」
彼女の名前を出すトレーナー。
彼女こそ昨日のアザレア賞で11着。彼の担当するウマ娘のマンハッタンカフェだった。
「少し近くをぼんやりと歩いていたのでね、つい話しかけてしまいました」
そう先生はにこやかな笑顔で話し、
「もしかして、君の担当なのですか、彼女は」
と続ける。
「えぇ、まぁ・・・」
きまりが悪そうに視線を逸らしながら、話すトレーナー。
すると
「ごちそうさまでした・・・。お金、これで足りるでしょうか」
といい、机の上に紙幣を置き、マンハッタンカフェは席を立とうとした。
それに
「いえ、大丈夫ですよ。私が払います」
と先生が言い、彼女が机の上に出した紙幣を彼女の前に差し返す。
「いや、先生、とんでもない。俺が払いますよ」
それを見たトレーナーは少し慌てた様子で先生にそう話すのだった。
マンハッタンカフェが去った後、トレーナーは彼女のいた席に座り、先生と向かい合った格好になる。
「最近のご様子はいかがですか?」
と尋ねる先生に対して
「まぁ・・・中々うまくいきませんね」
と、決まりの悪そうに返すトレーナー。
「今は誰を教えているのです?」
「彼女一人ですね。先ほど面会いただきました・・・マンハッタンカフェ」
それを聞き、
「ふむ・・・」
と神妙な様子で先生は腕を組んだ。
「・・・先生の目から見て、どうですか、彼女は」
「どう、と言いますと?」
「いやその・・・将来性があると言いますか」
その質問に対し、先生は両手の人差し指を立てて、×の字を作り、苦笑いを浮かべた。
「それを決めるのは私ではありませんよ。トレーナーである貴方と、彼女自身です」
「・・・はい、すみません」
うつむき加減にトレーナーが謝ると、
「・・・強いて言うなら、ですが」
と先生は言葉を続け、
「彼女の体重はどのくらいだと見ています?」
とトレーナーに話しかける。
「・・・・・・最近、少し痩せたかな、とは」
「私の見立てでは○○kg位ですね」
「そんなに痩せてますか!?」
その体重は彼が想定していたよりも大幅に痩せている見立てだった。
それを聞いて、体重を正確に把握できる程の関係をまだ作れていないのか、と教え子であった目の前の若きトレーナーを見た。
「率直に伺います。貴方、あの子とうまく付き合えているという自信がありますか?」
その先生の言葉に身を固くするトレーナー。
「トレーナーに一番大事なのは、ウマ娘との信頼関係です。それが築けないようですと、トレーナーがどんな優れた指導をしても、ウマ娘にどんな才能があったとしても、成果を出すのが難しい」
彼の硬い表情を見据えながら、先生は語りかける。
その一言一言がトレーナーの心に刺さり、曇天の重バ場のような心境を抱えた彼である。
「貴方の夢はなんでしたか?」
「・・・日本ダービーを勝つウマ娘を育てることです」
「変わっていませんね」
その言葉ににこやかとなりながらも
「あの子の今の状態ですと、日本ダービーはおろか、オープン戦も厳しいかも知れません」
と、厳しい言葉を投げかける先生である。
トレーナーはその言葉に何も言い返さず、何も言い返せず、下を向くばかりであった。
アザレア賞で11着。昨日の苦いレース結果が、彼の心に甦る。
現実を久しぶりに会った恩師に直面させられるのは、彼に取って非常に辛くもあり、そして情けないと思わせるものだった。
その表情を見ながらも
「ですが、ウマ娘とトレーナーの信頼関係が築ければ、話は別でしょう」
と先生は続け、
「そこで提案があります」
右手の人差し指を立てて『提案』の中身を話し始めるのだった。
翌日。月曜日。
授業も終わり、いよいよトレーニングがはじまる時間帯となり、マンハッタンカフェがトレーナー室にやってくる。
「今日も、よろしくお願いします・・・」
そう言い、頭を下げる彼女。
金色の瞳が鈍く彼を見つめていた。
「なぁ、マンハッタンカフェ。練習前に話がある」
と、トレーナーが切り出すと、彼女をソファーに座らせる。
「先日の」
先日のアザレア賞は11着で、と切り出そうとして、つい彼は言葉を引っ込めた。
彼女を傷つけるために話を持ってきたのでない、と寸手の所で気づいたのだ。
「先日、レストランであったおじさんいただろ?あの人、俺の先生なんだ」
と言葉を選び直し切り出すトレーナー。
「はい」
相変わらずの無表情でマンハッタンカフェは返事をした。
「その先生がな、俺とお前とで、先生のご自宅のある、北海道に遊びに来ないか、と誘われてる」
「・・・はい」
少しだけ、ためらいのあるかのような返事をするマンハッタンカフェ。
「先生もな、お前の事を気に入ったらしくてな。美味しいニンジンオムレツを作って待っている、だそうだ」
「ニンジン・・・オムレツ・・・」
その言葉を聞いたとき、少しだけ、彼女の瞳の淵に光がきらめいた。
「期間は・・・ひょっとしたら結構長くなるかもしれない。授業はwifi通じるし、リモートで受けるから問題ないが、どうする?」
と言葉を出すトレーナー。
先生曰く、課題は三つ。
一つ目に、彼女の体重が落ちすぎていること。十分な筋力と体力を身につけるため、しっかりとした食事と療養が必要とのこと。
二つ目に、彼女がどういうウマ娘か、トレーナーが測りかねていること。そのために共同生活が必要とのこと。
そして三つ目に、彼女と彼の信頼関係が築けていないこと。『信頼関係、これが一番重要です』という先生の言葉がいつまでもトレーナーの心中に残り続けていた。
この三つを解決するための手段こそが、先生の家での共同生活という提案だったわけだ。
「あの・・・」
「何だ?」
「その間、練習はどうするんですか?」
「先生のご自宅は北海道千歳市にあるんだがな、結構広い農場を譲り受けたものらしい。どうもウマ娘のトレーニング施設としても考えていたようで、トラックや坂道は整っていると伺っている」
その言葉を聞いて、
「安心、ですね」
少しだけ首を傾け話すマンハッタンカフェ。ほのかに口角が上がったようにみえたが
「そうだな」
トレーナーはそれに気づくことなく、視線を逸らしながら彼女の言葉に同意するのだった。
彼と彼女と彼の先生の、共同生活が始まろうとしていた。