10月下旬、日曜日。
京都競バ場、第11レース。芝3000m、菊花賞。
バ場は良。天気は小雨。
ついにその日がやってきた。
クラシック最後の戴冠、菊花賞が始まりを迎えようとしている。
『雲のカーテンに閉ざされたような京都競バ場に、ファンファーレが吸い込まれていきました。6万人を超える大観衆から大きな声援が興っています』
そう実況が告げる通り、小雨の天気にも拘わらず、場内の熱気は秋雨の肌寒さに負けることなく、強い猛々しさに満ちていた。
「大丈夫かなぁ、カフェさん」
そう心配そうに観客席から見守るのは同室のユキノビジン。
「大丈夫だと思うけどねェ。カフェの様子を見なよ」
隣には皐月賞ウマ娘のアグネスタキオン。彼女の視線の先にいるターフの上のマンハッタンカフェは、確かに落ち着き払っているように見えた。
「2000mの通過タイムですが、ハネダオーバーロードさんが勝ったときは2分8秒のペースでした。かなりのスローペースですね。エアシャカールさんが勝った時のタイムが2分4秒3、これが平均ペースと言われています。対して極端なのがセイウンスカイさんの2分2秒9です。因みにこのレース、逃げウマの彼女が最後に大逃げをしてとんでもないハイペースになりました。今回のレースは逃げウマのマイケルデポジットさんが先導することが予想されますので、2分6-7秒台で推移するスローペースになるのではないでしょうか」
そう甲高い声色で早口で捲し立てるのはアグネスタキオンのトレーナーである。筋肉質な禿げ頭の大男で、瞳孔が開ききった四白眼の瞳からは虹色の光が放たれている。
「は、はぁ…」
その予想を聞きながら愛想笑いを浮かべるユキノビジン。
アグネスタキオンは涼しい顔をしており、決して悪い人ではないとわかっているものの、人間離れしたその姿にはいつも緊張をしてしまうユキノビジンである。
「大丈夫ですか?」
壮年のオールバックの男性、トレーナーの恩師がそう話しかける。
「はい、大丈夫です」
そう言うマンハッタンカフェのトレーナーの表情は非常に硬かった。
この1ヶ月の間、やれるトレーニングはすべて行ってきた。
オープンウマ娘になりたてのマンハッタンカフェに足りていない実戦経験は十分に積んできたつもりだった。
しかしレースがどのような結果になるかはわからない。すべては3分後に決まる未来。
その重圧をただ抱えて見守るしかないトレーナーに対して
「彼女を信じましょう」
と一言、先生は言い、トレーナーの肩をやさしく叩くのだった。
ぼんやりとターフの上に立っているマンハッタンカフェとは対照的に、他のウマ娘たちはどこか緊張しながらも談笑をしている。
マンハッタンカフェとは違い、クラシック路線でしのぎを削ってきたウマ娘たちである。
お互いのライバル関係も、ターフの上での友情も、その緊張感にも慣れている様子であった。
「よっ!お前、初めて見るな」
そうマンハッタンカフェに話しかけてきたウマ娘がいる。
マンハッタンカフェにはその顔がはっきりと分かった。テレビで見たダービーウマ娘、アマゾンポシェットである。
「はい、マンハッタンカフェといいます。よろしくお願いいたします」
「マン…?」
アマゾンポシェットは少し頭をひねった。どうやら名前を覚えきれない様子である。
「まぁいいや!よろしく!」
とあっけらかんと笑う彼女。
「随分余裕だね」
そうアマゾンポシェットに話しかけてきたのは、彼女に惜敗を重ねているウマ娘、ダンスフレイムだった。
「おー!ダンス!」
「今日は私が勝つから」
「何言ってるの、菊花賞もアタシが貰うからね!」
「言ってなさい。絶対に今日は負けない」
アマゾンポシェットの視界にはすでにマンハッタンカフェの姿はなかった。
そんな彼女の様子を特に気にすることもなく、マンハッタンカフェの心は落ち着き払っているようだった。
各ウマ娘がゲートインしてついにレースが始まろうとしている。
『ダービーウマ娘、アマゾンポシェット!そのライバルのダンスフレイム!実力伯仲のウマ娘エアダフトパンク、そしてサンライズテンマ!いったい誰が勝つのでしょうか!!!』
既に実況も、レースが始まる前だというのに熱を帯び始めていた。
そして
『さぁ、一斉に各ウマ娘スタートしました!!!』
ついに菊花賞が幕を上げた。
菊花賞3000m。1週1782mのコースの向こう正面から始まり、それを1週半する長丁場。
最初に先頭を突っ切ったのは逃げウマであるマイケルデポジットだった。第三コーナーの坂道をぐんぐんと登り、その後ろにウマ娘が続いていく。
15人のウマ娘のうち、マンハッタンカフェは十番手に位置づけた。
他のウマ娘の後ろにつけながら、得意な坂を苦も無く登っていく。
(先頭との差は…そんなにない)
そう思い周りを見ると、皆が様子を見て走っているように見えた。
(ダンスフレイムさんは…最後方…)
皐月賞・日本ダービーとも2着だったダンスフレイムの様子をちらりと確認する。最後方からの追い込み策。それを取れるほどにペースがゆっくりであると彼女は気づいた。
ホームストレッチを抜けてもその様子は変わらない。観衆の大歓声を浴びながら走る15人のウマ娘。
「アマゾンポシェットー!!!」
「頑張れダンスフレイムー!!!」
「行けー!!!エアダフトパンク!!!」
人気ウマ娘を応援する声が観客席から飛んでいる。観客の声は力になる。各ウマ娘に活気と闘志があふれ始めていた。
「うわ、すごい歓声!」
と驚くユキノビジン。
「人気のウマ娘たちはすごいねェ」
と歓声を流すアグネスタキオン。
「貴方も出たらどうなのですか」
とアグネスタキオンに虹色の瞳を向ける彼女のトレーナー。
「頑張れ!マンハッタンカフェ!!!」
そして必死な顔で、教え子に声援を送るマンハッタンカフェのトレーナー。
そしてホームストレッチから彼女らの姿は消え、第一コーナーに差し掛かり始めた。
(ペースがだいぶゆっくり…)
そうマンハッタンカフェは思い、少しだけペースを上げた。順位を七番手にまで上げ、第二コーナーを出て向こう正面の直線に差し掛かる。
(ここからは、坂がある…)
と思い、第三コーナーに入り坂を上りながらも周りを確認するマンハッタンカフェ。
ふと周りのウマ娘を見ると、まだ皆に余裕がありそうだと感じる彼女である。
一方で先頭のマイケルデポジットを見ると、バ群が切れてだいぶ差がついていることに気が付いた。
第三コーナーの中頃、坂の頂上になってもバ身差はそんなに変わることがない。
(みんな…最後の直線で差し切るつもり…)
と考える一方、
(ペースがゆっくり過ぎる…逃げ切っちゃうかも、先頭の子)
と気づく彼女である。
持ち前の読解力をさえわたらせ、レースの展開を予想し始める。
(今度はセントライトの時みたいにはいかない…!)
思い出すのは1ヶ月間の練習。アグネスタキオン、ユキノビジン、そしてトレーナーとの練習の数々。
小雨の中で琥珀の瞳が鋭く輝く。
雨露に濡れた黒鹿色の髪がなびき、レースはついに最終局面、大歓声に彩られた最後の直線に差し掛かろうとしていた。
『先頭は依然としてマイケルデポジット!逃げる逃げる!!!』
ついに最後の直線に差し掛かった。先頭のウマ娘が逃げ切りの態勢を取り始める。
しまった、届かない、と後続のウマ娘も加速し始めた。そんな中である
『外からアマゾンポシェット!アマゾンポシェット尻尾を振りながら差を詰めてくる!』
ダービーウマ娘、アマゾンポシェットが急加速して飛んできた。
(このまま逃げ切らせてたまるかよ!)
ハイテンションな様子で目を見開き、笑みを浮かべて突っ込んでくる彼女。
そしてバ群の最後尾にはダンスフレイム。
(最後、追い込んで差し切ってやる!)
最後方からの距離、なんと20バ身差。それを何の意に返さないような韋駄天のような追い込み。
しかし
『マイケルデポジット逃げ切ってしまうぞ!?』
先頭のウマ娘も逃げ切りの体制。
(ここまで来たんだ!最後まで逃げきる!!!)
根性を絞り出すような逃げ足。
だがそれを追うように
『外からエアダフトパンク!!!それからマンハッタンカフェ!』
2人のウマ娘が突っ込んできた。
その直後、それはすぐに訪れた。
(えっ…)
必死に末脚を繰り出すエアダフトパンクを、黒鹿色のウマ娘が抜いていった。
『真ん中を割ったマンハッタン!大外からダービー娘!大外からアマゾンポシェット!!!』
(は…!?)
アマゾンポシェットは2着に躍り出た黒鹿色のウマ娘に追いつけないことにあっけにとられ始めていた。
『しかしマイケルデポジット!!!』
マイケルデポジットは逃げ切るつもりでいた。
しかし
(な…!?)
ゴール板手前、急加速した黒い影に抜かれたことに度肝を抜かれた。
菊花賞に参加した彼女以外の14人のウマ娘。
京都競バ場に集まった6万人の観客。
そして日本中のウマ娘と、競バファン。
その全てが彼女の名を覚えざるを得ない結果が現れる。
『マンハッタァァァァアアアアン!!!???』
実況が叫ぶ。場内に稲妻のごとき衝撃が走る。
彼女の名はマンハッタンカフェ。
マンハッタンカフェが、差しきって一着でゴール板を駆け抜けた。
京都競バ場に雷雲が立ち込め、落雷が降ったようだった。会場にどよめきと大歓声が渦巻いている。
『マンハッタンカフェ!マンハッタンカフェです!!!』
一着を取ったウマ娘の名を実況が叫ぶ。
『マンハッタンカフェ、左手を突き上げました!!!』
その親指は、天に向く。
その結果を誇るかのように。
『な・・・なんと、マンハッタンカフェであります!!!ダービーウマ娘、アマゾンポシェットも!有力ウマ娘、ダンスフレイムもエアダフトパンクも!まとめて負かしました!!!』
興奮する実況が叫びをあげる。
『場内はなんとも言えないどよめき!!!とっ・・・!とんでもないレースになりました!!!驚きました・・・!差しきったのはマンハッタンカフェであります!!!』
6万人の大観客が、番狂わせの結果に、驚きと興奮の入り混じった声を上げる。
クラシックに無縁だったウマ娘が、つい8月までオープン戦にすら出れなかったウマ娘が、菊の戴冠を得た事実に驚愕する。
「やりましたね…マンハッタンカフェさん」
先生はそう感慨深そうに頷いた。
「日本ダービーではありませんが、いいものでしょう。クラシック三冠の勝利というのは」
「はい、はい…!ぁりがとうございまず!ぁりがとうごじゃいまず!!!」
そう泣きじゃくるトレーナーの頭に手をやり
(お礼を言う相手が違いますよ)
と、彼の頭にやさしく手を乗せるのだった。
レースが終わり
「よっ、マンハッタンカフェ」
話しかけてきたのはダービーウマ娘、アマゾンポシェットだった。
「オマエ速いな!すげーじゃん!今までどこに隠れてたんだよ!」
「隠れてません…」
尻尾を振りながら興奮気味に話す彼女に対して、マンハッタンカフェの様子は表面上変わらないように見えた。
「今日はアタシの完敗だわ!」
負けたのにも関わらず、太陽のような笑い声を上げるダービーウマ娘。
「へへっ!覚えときなよ!」
といい、マンハッタンカフェの背中をばんばんと叩いた。
そして背中を向けて
「…次は負けない」
と、一言声をかけターフを去っていく。
その声色は、刃のように鋭く冷たいもの。
「…はい!」
去り行く背中を見て、マンハッタンカフェは張りのある声で応酬した。
小雨をもたらした雨雲が僅かな隙間を見せ、京都競バ場に天からの光が差し注いでいた。