千葉県船橋市。中山競バ場。
年末最後の大レース、有マ記念を終え、センターの座を手に入れたマンハッタンカフェ。
その栄光とは裏腹に、彼女の顔は曇天色の鈍い空のごとく、ひどく沈んだものだった。夕暮れなずむ、街の景色とは裏腹に。師走の空に広がる、穏やかな茜色とは対照的に。
トレーナーの車に乗せられ、向かうのは同市内の某総合病院。そこに緊急搬送させられた、ある年老いた男性のためだけに車は走る。夕日の光が少しずつ消え失せ、空の色が静かに濃い藍色に染まっていく。夜の香りを漂わせたその景色が、マンハッタンカフェの瞳に移り、琥珀色の瞳を枯野色に変えようとしているようだった。
病院についた二人は足早に総合案内に向かい、彼の居場所を尋ねた。
緊急外来に運ばれた彼は、現在治療中との旨を受け、緊急外来室のすぐそばの待合椅子に2人は腰かける。
消毒液の匂いがする建物の中で、2人はただ黙って待ち続けていた。
ロビーに人の姿が疎らになり、総合案内がブラインドを閉める時間帯となっても、2人はそこを動こうとしなかった。
廊下の電気が消え始める。人の気配が薄れていく。
そんな最中だった。
「あの…○○さんの、ご家族の方ですか?」
四角い眼鏡をかけた医師がそう声をかけた。
「…いえ、知り合いの者です」
家族、という言葉に勢いで同意しようとしたトレーナーだったが、寸手のところでそれを飲み込んだ。
「あの、容体はどうなんでしょう」
と問うトレーナーに対して
「ひとまず容体は落ち着いてはいますが…」
と医師が漏らした言葉に、2人は安堵の息を吐いた。しかし
「まだ小康状態です。…このまま入院されることを強くお勧めします」
と医師は続ける。
「分かりました。お願いします」
とトレーナーは言い、自分の身分を説明する。
状況を理解した医師は、トレーナーをひとまずの身元保証人として認め、入院の手続きと現在の経過を説明するため、診療室に彼を招いた。
「カフェ、少し待っていてくれないか?」
とトレーナーに言われ
「…はい」
と彼女は短く返事をする。
一人残された彼女の足に、鋭い痛みが広がりつつあることに、ようやく彼女自身は気づき始めていた。
医師による説明と入院の手続きを経て、それが全て終わるころにはすっかり夜遅くとなっていた。
「帰ろう」
とトレーナーに促され、マンハッタンカフェは黙って彼の車に乗り込んだ。
首都高速に乗り、府中市までの道を走る、赤いエクストレイル。
トレーナーは何も話さず、マンハッタンカフェも何も言わなかった。
40分ほど走るともう府中市にたどり着く。
まっすぐにトレセン学園 美穂寮に向かうと思いきや、車はコンビニに一旦入った。
ギアをパーキングに入れ、トレーナーはハンドルにもたれかかるようにうつむく。
その様子を黙って見ているマンハッタンカフェ。
どのくらいの時間がたったのだろう、車内に沈黙がひたすら流れ、そして
「悪性の、腫瘍だって」
ぽつり、とトレーナーが、力ない声で言葉を吐き出した。
「随分前から、あったんだって。医者が言ってた」
マンハッタンカフェは何も話さずその言葉を聞いていた。
何も話せず、その言葉を聞くしかなかった。
車内にすすり泣く若い男の声がする。エンジンの音だけが車内に木霊する。
「先生は…」
マンハッタンカフェが問いかける。
「先生は…大丈夫なん、…ですよね……?」
低い声で彼女は言葉を紡ぐ。縋るように、希望をたぐりよせるように。
しばらく沈黙が続いた。トレーナーは何も言えずうつむいたままだった。
だが枯れいる声で、絞り出したように、彼は言葉を遂に口に出す。
「そんなに、先は長くないって」
短い言葉。希望の光を打ち消す言葉。それが語られたとき、彼は車のハンドルを思いっきり叩いた。
静かな夜闇に響いたのは、絶望の足音だった。
翌日。
マンハッタンカフェを連れて、トレーナーは病院に向かう。
病人は先生だけではない。彼の教え子も重大な傷を負っていることに彼は気づいていた。
「裂傷がひどいですね、しばらくは安静になさってください」
そう医師に告げられたマンハッタンカフェ。
有マ記念での猛々しい走りと、華やかな大勝利の裏で、彼女の足もかなりの痛手を被っていた。
「通院いただくのも勿論お勧めしますが、自宅での療養も大切です。薬を出しますから、必ず毎日ケアを続けてください」
医師からそう告げられ、処方箋をもらい、薬局に向かう。
薬をもらって2人は車に乗り込み、美穂寮まで帰ろうとした。
「あの…」
と車に乗り込む直前、マンハッタンカフェが問いかける。
「どうした?」
と問うトレーナーに
「先生の所には…今日は行かないんですか?」
と疑問をぶつける彼女。
力なくトレーナーは笑い
「勿論行くさ」
と答えた。
マンハッタンカフェは視線をそらしがちに話しかける。
「あの…」
「ん?」
「私も…連れて行ってもらえませんか……?」
その言葉に頭を少し振ると
「…わかったよ」
とトレーナーは返したのだった。
病院に行ったところで、2人に出来ることは何もなかった。
面会謝絶の上で治療が続けられており、ただ医師にやんわりと帰されるのが関の山だった。
何もすることができないまま、医師に追い返されるように病院を出た2人は、力なく車に乗り込む。
そのまま府中市に戻るかと思われたが
「ちょっと、時間をくれないか、カフェ」
とトレーナーが話しかけてきた。
理由が分からないまま、彼女が車に揺られ、ついたのは不動産屋だった。
「先生の容体が落ち着くまでの間、トレーナー寮を出たいと思う」
そうトレーナーは彼女に告げた。
「正直、短期契約のアパートって高いんだけどな…。やれることはやりたいんだ」
不動産屋の前でそう話す彼に
「あの…」
とマンハッタンカフェが話しかける。
「どうした?」
「その……」
少し迷っている様子のマンハッタンカフェだったが
「私も…ご一緒したいです……」
意を決したように、しかしどこかためらいがちな様子で、彼女はそう告げた。
トレーナーは少し驚いたように目を見開いたが、彼女の頭に手を乗せて
「トレセン学園の許可が得られたらな」
と、やさしく告げたのだった。
2月上旬。夜。東京都某所。
両手にスーパーの袋を手に下げ、マンションに帰ってきた男がいる。マンハッタンカフェのトレーナーである。
腫瘍を抱え、寿命が短い自分の恩師を東京都内の病院に転院させて数日。彼の看病のためにトレーナー寮を出て病院に近いマンションを借りたトレーナーは、ようやくではあるがこの暮らしにも慣れてきたところである。
マンションの階段を使い、自分の部屋に帰り、チャイムを鳴らす。
するとドアが開き、黒鹿色の髪の毛のウマ娘が顔を覗かせた。
「…おかえりなさい」
「ただいま」
ウマ娘、マンハッタンカフェはチェーンロックを解除すると、彼を部屋に入れる。
その部屋はお世辞にも広くない。1DKの小さな部屋。2人で暮らすには少し狭い、そんな間取り。マンハッタンカフェに個室をあてがった分、トレーナーの寝床はいつもダイニングのソファだったが、それにも特に不満はなかった。
『私も…ご一緒したいです…』
そうマンハッタンカフェが言った、つまりトレーナーと一緒に暮らしたいという意思を示したのはしばらく前のこと。彼女の意思はかなり固く、それ故にトレセン学園に許可を得るために駿川たづなと面談したのだが
「駄目です」
と困ったような顔で断られたのも彼の記憶に新しい。
「特別な理由なく美穂寮を出ることは許可できません」
と言われ、事情を説明し、どうにかこうにか許可を貰ったが、最後までその表情は晴れることはなかった。
菊花賞と有マ記念を勝ったウマ娘の管理を学園外に出すのは、かなりのリスクを背負うというこという学園側の事情もあったためだ。それでも最後には折れてくれたトレセン学園には感謝しているトレーナーである。
「「いただきます」」
トレーナーとマンハッタンカフェが一緒にご飯を食べるのも、もう日課となっていた。
特に食事中、お互い何も言わないが、決して仲が悪いわけではない。マンハッタンカフェはそんなにしゃべる方ではなかったし、トレーナーも彼女のペースに合わせればいいと思っていたからだ。
お互い食事を済ませると、2人で皿を洗い、じゃんけんをして風呂の入る順番を決める。そのあとマンハッタンカフェの足の自宅治療を行い、そのあとはそれぞれ床に就く。
「…おやすみ、なさい」
「うん、おやすみ、カフェ」
物静かな夜。物静かな部屋の雰囲気。
そうして回っていく毎日の中で、次のレースへの日程も近づいてきていた。
「中々よくなりませんね、足」
そう医者に言われ、思わずトレーナーは体を固くする。
マンハッタンカフェの足は弱い。医者曰く「そういう脚質」らしいが、足の裏の皮が薄く、爪が柔らかく、傷みやすい足を彼女は抱えている。
有マ記念のその日から、彼女の足の様子は非常に状態の悪いものとなっていた。
阿寒湖特別の後も、菊花賞の後も、ある程度の足の痛みはあったが、それでもある程度は改善されていたにも関わらず、今回は回復が非常に遅かった。
「次のレースはいつを予定していますか?」
「…3月下旬の日経賞、です」
そう答えるマンハッタンカフェに
「…あまり無理をしないように。今後も経過を見ていきますが、ダメだと判断したらレースは回避してください」
と険しい顔をして答える医師。
「…はい」
とうつむき加減に話すマンハッタンカフェに、トレーナーはやさしく彼女の肩に手を置いた。
診療が終わり、家路へ向かう途中のこと。
「…先生、次のレースは見てくれるでしょうか…」
とマンハッタンカフェが車の中でつぶやいた。
診療の前に先生のいる病院に顔を出した2人。短い面会の中で、先生の顔は痩せこけ、病人特有の匂いが彼の周りからは漂っていた。そんな中で、
「すみません。もうレースを見に行くことは出来ないようです」
と先生が申し訳なさそうに語ったのを、2人はただ黙って聞くしかなかった。
「テレビがあるからな。ちゃんと見てくれるよ」
とトレーナーは言い、
「そう、ですよね…」
とマンハッタンカフェは、うつむき加減に答えた。
「だから、足、ちゃんと治そう」
「…はい」
短い会話。それで十分な会話。
2人の間には特に壁などはなかった。
しかしマンハッタンカフェの胸中には、妙な重苦しさが残り続けていた。
3月下旬。土曜日。
中山競バ場、第11レース。芝2500m、日経賞。
バ場は良、天気は小雨。
エントリーしたウマ娘は8人。G2レースにも拘わらず、異例の少人数のレースとなった。
それもそのはずである。グランプリウマ娘であるマンハッタンカフェがエントリーしたからだ。
中山競バ場で芝2500mと言えば、彼女が3ヶ月前に優勝した有マ記念と同じコースなのである。彼女がエントリーすると決まったとたん、他のウマ娘の回避が相次いだ。そしてレースが始まる前からマンハッタンカフェが優勝すると、誰もが思っていた。
『さぁ、レースが始まりました!』
8人しかいないレースが始まった。第三コーナーを固まって抜けていくウマ娘たち。
『先頭はサイホウライデン!マンハッタンカフェは外につけています!』
いつものように後方から様子を伺うマンハッタンカフェ。
第四コーナーを抜け、ホームストレッチにバ群が向かっていく。
歓声が上がる。
「マンハッタンカフェー!!!」
「行けー!グランプリウマ娘ー!!!」
いつもと違ったのはマンハッタンカフェへの声援ばかりなことだ。
菊花賞・有マ記念を経て、彼女への注目は、すでにスターウマ娘のそれへと変わっていた。
(あれ…)
その声援に妙な違和感を感じるマンハッタンカフェ。
しかし違和感の正体に気づけぬまま、ホームストレッチを駆けていく。
『8人が第一コーナーへと入っていきます!淡々とした流れです!』
坂を上り、8人の距離はそんなに離れていない。
そして向こう正面に入った。マンハッタンカフェは現在五番手。バ群の外側を通っている。
ある違和感にトレーナーは気づく。
いつもなら内側から眺めるはずのマンハッタンカフェがずっと外を通っている。良バ場とはいえ第11レースだ。内側は荒れている。足に負担が掛からないバ場を選んでいるのか、と思っているうちに、ウマ娘たちは第三コーナーに入り始めた。
『第三コーナーのカーブ!前が固まってきました!』
実況の言う通り、前方が広がるように、4人のウマ娘が先頭争いをし始めている。
それにつられるように、他のウマ娘たちもペースを上げ始めた。
(えっと…)
マンハッタンカフェの思考は全くまとまっていなかった。
皆が先頭争いをしようとしている中で、ずるずると外を回ってしまいそして
『八人が横に広がった態勢で最後の直線コースに向かいました!』
大外を走って直線コースを迎えた。
『先頭はどうか!?ポジティブバイオ!チョウハン!タップダンスシュー!』
ゴール板を目指して走るウマ娘たち。
『そしてちょっと遅れているぞ!マンハッタンカフェ!マンハッタンカフェ遅れている!遅れている!!!』
マンハッタンカフェ、現在六番手。
大歓声の上がるホームストレッチを必死に走る彼女。
しかし思ったように足が伸びない。
(どうして…)
と思ったのもつかの間、違和感の正体に気づく。
この観客の中には、先生はいない。大声援の中に、先生の存在はない。
そのことに気づいた瞬間、心臓が揺れる。目がかすむ。足の痛みが急速に蘇り始める。
そして
『先頭はどうだ!?ポジティブバイオ!チョウハン!タップダンスシュー!』
必死に足を動かすマンハッタンカフェだが、すでに時が遅すぎた。
『3人並んでゴールイン!!!』
目の前を他のウマ娘が駆けていく。失望と困惑の声が会場中から起こる。
『マンハッタンカフェ敗れました!マンハッタンカフェ敗れました!!!』
実況の声が彼女の心に刺さる。
小雨が嘲笑うかのように彼女に降り注ぐ。
マンハッタンカフェは六着で日経賞を終えた。
控室にて。
「お疲れ」
いつもと変わらない様子のトレーナーに、マンハッタンカフェは視線を逸らすように頷いた。
トレーナーは椅子に彼女を座らせると、靴を脱がせて包帯を取り足の状態を見る。
やはりその足の状態は芳しくなかった。
「ごめんな。少し痛いかもしれないけど、ここで薬塗るから」
「…はい」
手慣れた様子で湯を張り、床に膝まずいて血染めの足をやさしく洗うトレーナー。
その姿を何も言わず、彼女はじっと見ていた。
そんな中
「つめた…」
トレーナーの頬に冷たい水滴が落ちる。
ふと上を見上げると、その水滴の泉が彼を見下ろしていた。
「カフェ…」
そこにあったのは琥珀色の瞳から零れる大粒の涙。
「…トレーナー、さん…すみ、すみません…すみません……」
そして必死に取り繕うとする彼女の姿。
トレーナーの瞳に映ったのは小さな弱弱しいウマ娘。
とても菊花賞を走ったとは思えない、有マ記念で優勝したとは思えない、そんなウマ娘の姿。
まるで、1勝クラスのアザレア賞ですらまともになれなかったときの、と彼は思った瞬間だった。彼の両手が、マンハッタンカフェを包み込んだのは。
「カフェ……つらいよな…」
何が辛いのか。足の痛みなのか。心の痛みなのか。
だがトレーナーも辛いんだと、その時彼女は思う。なぜなら彼も泣いていたから。
マンハッタンカフェも彼の背中に手を回す。そして溢れた涙を止めることなくそのまま流し続ける。
ウマ娘とトレーナーはこの時、同じ気持ちだった。同じ感情の衝動を抱えていた。
世界を変える雫が、2人の瞳から流れ続けていた。
「なぁ、カフェ…。先生はもうここにはいないんだ…」
「はい……」
「でも先生は、お前のレースを見てるんだ……」
「はい……」
「このままだと、先生を心配させたまま、ひとりぼっちで逝かせてしまうんだ」
その言葉には言葉が返せない。ただ涙を流すだけのマンハッタンカフェ。
トレーナーは抱き留めた彼女の手をはがし、彼女の両肩を握った。
「俺たちだけで、勝てるって!先生を安心させてやるんだ!!!」
彼女の目の前には大人の男とは思えない、涙と鼻水に溢れたぐしゃぐしゃの顔のトレーナーの姿。
それを見て、彼女の瞳が緩む。透明な真珠のような涙があふれ出る。
『困難は、分け合いましょう』
マンハッタンカフェの頭の中に、先生から教えられた言葉が甦る。
運命の春の天皇賞が、もうすぐそこまで迫っていた。