真昼のノクチルカ 作:ペンデュラムの根っこ
てっぺんまで登ると、強い風が横から吹きつけた。髪が激しくなびいて、シャツがめくれ上がる。
そこからは公園の全体が一望できた。小さな自分にはとてもとても広いその場所は、地球世界の全てであるようにすら感じられた。
『──いっちゃん!』
呼ぶ声に下を向くと、不安を顔に浮かべる女の子がいた。こちらが笑顔を浮かべ、大きく手を振ると、女の子も破顔してぴょんぴょんと高く跳ねた。
『やっぱり凄い、いっちゃんは凄いよ!』
じっと自分を見上げる瞳が、太陽の光を浴びてキラキラと輝く。その混じり気のない煌めきは少し恥ずかしくて、とても嬉しかった。
横を見ると、帽子を被った透がいつの間にか隣に立っていた。俺と同じ風を受けて、彼女のシャツも随分とめくれ上がっていた。彼女は気にしていないようで、帽子が飛ばされないよう、ツバをぎゅっと握っていた。
『ねえいっちゃん──』
こちらを見上げる女の子が、大きな声で言う。
『私もいつか、いっちゃんみたいな人に──』
○○○
真昼のノクチルカ
○○○
樋口円香はスペックが非常に高い。頭がキレて運動も得意で素行も良好、さらに顔が良い。大概の人には人当たりも良く、満面の笑みを浮かべることこそないものの、こちらの心を掻き立てる射抜くような微笑をしばしば見せる。
男子人気よりもむしろ女子人気の方が高い、王子様気質の美少女。それが樋口円香の印象である。
ただ、彼女は周囲から距離を置かれている。
というよりはむしろ、周りに対して一定の距離を、彼女自らが取っている。遊びの誘いには乗らず、誰かに自分から話しかけることも稀。授業中の発言もほぼ皆無で自己主張をほぼしない。幼馴染である透とは気心の知れた距離感で接しているが、同じクラスで彼女と一緒に遊んだという人は恐らく皆無である。
俺の目には、彼女は常に薄い氷を身の回りに纏っているように見えた。
そんな彼女と自分の関係は、あまり前向きであるとは言えない。座席の配置は前後であるが、朝と帰りの挨拶程度しか会話はなく、プリントを流す時も彼女は前を向いたまま、黙って腕だけを後ろに回す。
他の人にはあくまでも近づかないだけというスタンスでいるが、俺に対しては明確に遠ざかる意思を示している。
子供の頃は、放っておいても俺の後ろをずっと着いてくるヒヨコのような少女だった。その面影は、今はもう見る影もない。
きっと、高校を卒業したらもう二度と会うことはないだろう。そう感じる程度には、俺と彼女は疎遠であった。
だがそれはそれとして、同じクラスで、しかも席が前後ならば嫌でも接点はできる。
「…………」
「…………」
きっかけは美術教師の気まぐれだった。彼はグループワークというものがとても好きで、事あるごとに複数人で取り組むような課題を提示する。班の組み合わせもその時々で、好き勝手に組んでいい時もあれば、教師の指定した人とやらなくてはならないこともあった。
今回の課題は2人で行うもので、お互いの似顔絵を描くというものだった。
「じゃあ今回は隣の人とペアを組んでやろうか──……あ、ちょっと待って。それだとつまらないから、やっぱり前後の人でペアを組むことにしよう」
と、いうことで俺は樋口とペアを組むことになったのである。
授業中にも関わらず、仲良しこよしのペアはワイワイと騒ぎながら課題を進めている。教師は注意するどころかむしろ積極的に彼らの会話に参加し、雑談に華を咲かせていた。
翻って、こちらはまるで告別式のような厳粛さである。机を合わせてから現在に至るまで、一度として樋口と目が合っていない。似顔絵を書くのに目が合わないというのは、むしろかなりの練度が要されるスキルなのではないだろうか。会話も最低限、最小限の単語だけのやりとりになっており、2人の周辺だけ異質な空気が漂っていた。
「それ」
「はい」
樋口の言葉に反応して必要な道具を差し出す。
「ん」
樋口が小さく会釈してそれを受け取る。
「あのさ──」
「これ?」
俺の発話に樋口がすぐさま目的の物を用意する。
「そう。くれ」
「ん」
俺がお礼を言いそびれながらそれを受け取る。
俺と彼女はある意味ではとても気が合っていた。正に阿吽の呼吸。ほんの少しの言葉だけで言いたいことが分かってしまう。
目が合わないのだって、どちらかが見ている時はもう片方が意識的に視線を外しているためだ。餅の突き手と返し手の関係性。おそらくどのペアよりも効率的に課題は進んでいた。
今は俺がモデルになる番だ。彼女の視線を強く感じながら、窓外の景色を注視する。
「ちょっと、あんまり動かないで」
「あ、ごめん」
スラスラとスケッチブックに鉛筆を走らせる姿を視界の端にとらえながら、ふと彼女の画力がどれ程なのかが気になった。才色兼備な樋口円香は、果たして芸術方面にも造詣が深いのであろうか。
気になる。その本の反対側が見てみたい。
そんなことを考えていたから、気づけば目線は完全に彼女の方を向いていて、顔を上げた彼女とばっちりと目が合ってしまった。
気怠げな垂れ目が真っ直ぐにこちらを捉える。意外にも、彼女はすぐに目を逸らしはしなかった。むしろじっと、射抜くような視線でこちらを刺し続けている。
何となく逸らしたら負けな気がするが、俺は程なくして耐え切れずに窓の外に焦点を戻した。
それを確認した彼女は大きく息を吐き、また作業に戻る。
無意味な敗北感が胸に残った。
「どうだい君たち、進んでるかい?」
美術教師が見回りにやってきた。
「まあ、ほどほどに」
樋口が答えた。
「ほどほどかー。今は樋口さんが描いてるんだよね。ちょっと見せてもらってもいい?」
「はい、確認をお願いします」
教師は樋口の後ろに回り込み、彼女の絵を覗いた。
「おお! 流石樋口さん、うまいねえ」
「そうですか?」
「鉛筆一本で細かな濃淡までよく表現できてる。文句なしだよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
どうやら彼女の画力はかなり高い水準にあるらしい。しかし手放しに褒められても、樋口は言葉の割にあまり嬉しそうな様子を見せなかった。
「ただ、そうだなあ、どうせならもうちょっとカッコよく、というか明るい感じで描いてあげた方がいいんじゃないかな。どことなく悲壮感が漂っているよ」
「そうですかね」
「うん。この辺りの影をもう少し柔らかくしてあげたらいいんじゃないかな」
「ありがとうございます。試しにやってみます」
「うん、頑張ってね」
にこやかに微笑んだ先生は、その顔のまま今度は俺の方にやってきた。
「高崎くんも頑張って描いてみてね。特に樋口さんはアイドルなんだから、とびきり美人に描かないと怒られちゃうよ?」
「あー、まあ頑張ります」
「うん。時間はあまり気にしなくていいから、2人とも頑張って満足のいく作品に仕上げてね」
そう言って、先生はまた別のグループの様子を見に行った。優しいし、朗らかだし、いい先生だ。
「……明るく描けって言われても、無理でしょ。一応似顔絵なんだから、ないものは描けない」
樋口は吐き捨てるようにそう言った。俺に対する文句というよりかは、自嘲するような響きの言葉だった。
「……悪かったな。悲壮感の漂うやつで」
「本当にね。うつむかないと呼吸ができないの? 不便な体」
話している最中、樋口は俺に背中を向けて、じっと窓ガラスを正面から見据えていた。あまりにも刺々しい言葉はしかし、俺に届けるつもりはないように感じられた。
無言が流れる。教室の喧騒は単なる雑音だった。
窓ガラスに樋口の顔が映っている。反射した視線が俺を捉えた。
「反論しなよ。受け入れないでよ」
「…………」
「……はあ、もういい……描きなよ、私の似顔絵」
「……おう」
彼女はため息を吐き、こちらを向いた。
鉛筆を手に持ち、頰から顔を描き始める。
改めてよく見ると、彼女は顔面の1パーツ1パーツが恐ろしく綺麗に整っている。鼻筋が通っていて、唇は艶やかで、色は白く、垂れた目尻がまっすぐでないミステリアスさを醸し出している。
皆が魅了されるのも仕方ない。透は捉えどころのない澄んだ神秘性を持つが、樋口はまた少し異なった偶像性を有している。間違いなく、彼女は魅力的なのだ。
しかし俺に描かれている彼女は、変わらず美しくはあるけれども、そこに見えるのはゾッとするような能面の艶美だった。きっと今、彼女の世界の中に俺は存在していない。彼女は俺の居るところに無を見ていた。
仄暗い。
アイドルをしている時の彼女は、きっとこんな表情はしないだろう。薄くではあっても確かな笑顔を浮かべて、ファンを楽しませているはずだ。
だからこれは、俺にしか見せない顔。しかしそれは見ていて気持ちの良いものではなかった。
「高崎?」
樋口に呼ばれ、はっと顔を上げる。ぼうっとしていたことに気づかれたのだろう。怪訝な顔をした樋口はしかし、それ以上何かを言うことはなかった。
息を吐き、再び描きはじめる。
そういえば、いつから彼女は俺を“高崎”と呼ぶようになったのだったか。いつから俺は彼女を“樋口”と呼ぶようになったのだったか。
いつから彼女は、俺を追いかけてこなくなったのだったか。
それから、俺が似顔絵を描き終えるまでの間、2人の間に会話はなかった。
出来上がった似顔絵は美術室の前の廊下に張り出された。
移動教室のためにそこを通ろうとした時、1人で似顔絵を眺めている雛菜を見つけた。無視して通り過ぎようとしたが、その前にこちらに気づいた彼女は満面の笑みを浮かべ、俺の進路を塞いだ。
「樹先輩、やっほ〜〜〜!」
「……おう」
「今ね、似顔絵を見てたの。樹先輩と、円香先輩のやつ!」
そう言って、彼女は隣り合って掲示されている絵を指差した。絵の上には描いた人とモデルの2人の名前が表示されている。
「そうか」
「樹先輩、絵ヘタクソだね」
「うるせえ」
自覚はあるので勘弁してほしい。俺の描いた似顔絵は酷い出来で、彼女のファンが見たら1発くらいなら殴られても仕方ない出来映えだった。
雛菜は口を楕円形に開き、こちらを嘲笑するようないやらしい笑顔を浮かべている。
「両目の大きさが全然違うし、口も変な風に開いてるし。顎も妙に尖ってるし」
「やめろやめろ、ヘタクソなのは俺が一番よく分かってるから! いちいちダメなところを言わなくていい!」
「あは〜♡」
雛菜は広げた手で口元を隠し、しばらく楽しそうに笑っていたが、ふと一歩距離を詰めて、大きな瞳で俺を見上げた。
「似顔絵を描くときは、ちゃんと相手の顔を見て描かないとダメだよ〜?」
飄々とした物言いだったが、それは存外鋭角に俺の胸に刺さった。
「……まあでも、それは円香先輩も一緒だけどね」
彼女の描いた絵を見ながら、雛菜はそう言った。俺はその意味がよく分からなかった。
美術教師の言葉の通り、樋口の絵はかなりクオリティが高い。彼のアドバイスは結局取り入れなかったのだろう、モデルの陰鬱とした表情はそのままだったが。
自分の顔を自分で客観的に見ることは難しいが、彼女の絵は鏡でよく見る俺の顔によく似ていた。
「確かに円香先輩の絵は上手だけど、雛菜はコレ、似顔絵じゃないと思うな〜」
「は? いや、普通に似顔絵だろ」
「う〜ん、そうなのかなあ。でもね、この絵に描かれてる人はきっと、
そこで彼女は一度言葉を止めて、似顔絵の方を向いたまま横目でこちらを見た。
「──
「……いっちゃん?」
「うん。顔とか雰囲気とかは今の樹先輩の感じだけど〜、でもきっとそうだよ。これは樹先輩じゃなくて、いっちゃんの似顔絵」
いっちゃん。過去の高崎樹のあだ名。つまりはかつての自分。
だが鉛筆で描かれた根暗な男の顔は、どこからどう見ても今の鬱屈とした自分そのもので、幼い子供にはとても見えなかった。
しかし雛菜の言葉には強い確信と不思議な説得力が内包されていた。少なくとも彼女にとっては、絵の中の男はいっちゃんだった。
「あ、雛菜ちゃん!──……と、いっちゃん?」
廊下の奥から、小糸が慌てた様子で駆けてきた。
「こんな所にいたんだ! もう次の授業始まっちゃうよ!」
「え〜、もうそんな時間?」
「そうだよ! いっちゃんと2人で、何話してたの?」
「似顔絵の話〜。こないだ美術の授業で描いたんだって」
「似顔絵?──あ、ほんとだ!」
雛菜の言葉を聞いて小糸は横に目を向け、はじめて自分の周りにたくさんの絵が飾られていることに気づいた。
程なくして俺の絵を見つけた彼女は、それを指差したままこちらを向いて、徐に口を開いた。
「ふふっ──いっちゃん、絵ヘタクソだね」
「うるせえ」
脳天にチョップを下ろすと、小糸は「ぴゃあ!?」と大きな声で鳴いた。
次は小糸回です。
樋口のスペックに関しては自分の勝手な想像なので、そういうもんだと思ってください