真昼のノクチルカ 作:ペンデュラムの根っこ
『いっちゃん、これおいしいね!』
少女は目をキラキラと輝かせてそう言った。
駄菓子屋の店先、初めて食べる駄菓子は彼女の舌に合っていたようだった。
彼女が喜んでくれると嬉しい。彼女の笑顔は見ているこちらまでもが幸せになる、可愛いらしいものだった。
向こうのベンチでは円香と透がアイスを頬張っている。夏の日差しはサウナのように蒸し暑くて、けれども俺たちはそれすらも楽しんでいた。
『いっちゃんと一緒に食べるお菓子が、世界で一番おいしいよ!』
歯を見せて笑う彼女は、残りのお菓子を両手で大切に握りしめた。
その言葉に気を良くした俺は、もう一つ買ってあったお菓子の封を開け、彼女に差し出した。
驚いて、本当に貰っていいのかと慌てる彼女に微笑み、小さな手の中にそっと一粒置いた。
それを口に入れた時、彼女はどんな反応をするだろうか。喜ぶことは分かりきっていた。だからどんな顔をして、どれくらい喜んでくれるのか。包み紙を剥がす様子を見ながら今か今かと、弾けるような笑顔を待っていた。
○○○
真昼のノクチルカ
○○○
福丸小糸は幼い。
それは身長が低いという意味でもあるし、透や円香と比べて、精神的にまだ成熟していないという意味でもある。
小学生と見紛うような体躯。髪型は子供っぽいツインテールで、好みや趣味も童心を忘れていない。
彼女は単純な遊びが好きだ。デパートによくある、ただ機械とじゃんけんするだけのアーケードゲームに本気で一喜一憂することができる。
彼女はお菓子が好きだ。一個50円もしない駄菓子を貰うのにすら遠慮して、大事に大事にそれを食べる。
彼女は人見知りだ。呼び鈴のない店で店員を呼ぶのが大の苦手で、放っておくといつまでも店員が近くを通るのを待っている。
そして、彼女は優しい子だ。話しかけるのが苦手なのに、電車の席が埋まっている時は、なけなしの勇気を振り絞ってお年寄りに席を譲ることができる。
ノクチルにおける彼女はマスコットでありいじられ役のポジションを担当している。透の気ままな挙動に振り回され、雛菜の勝手自由な振る舞いに注意しつつも流され、円香にこれでもかと甘やかされている。
ノクチルで一番子供とお年寄りに受けがいいのは彼女である。そして一番子供に嘗められているのも彼女である。
福丸小糸はその見た目や挙動から、他者に不信感を決して与えない、人に好かれる才能を持った子だ。感情がすぐに表に出るから、俺も彼女に対しては遠慮なく接することができた。
小糸は隠し事が下手だ。だから、彼女が最近の俺に気を使っていることも分かってしまう。
「あ、いっちゃん!」
朝の昇降口、俺を見かけた小糸はパタパタと駆け寄ってきた。
ホームルームには早く、朝練には遅い時間帯。人は疎らで、朝特有の澄んだ空気が辺りを満たしている。
「おはよう!」
「おはよう」
間。
「きょ、今日はいい天気だね!」
「ああ、そうだな」
「いっちゃんは今日は早いね!」
「たまたま早くに目が覚めたからな。小糸はいつもこの時間なのか?」
「うん!」
「そっか」
「そうなんだよ」
間。
「今日は、と、透ちゃんと一緒じゃないんだね!」
「そんな頻繁に一緒に登校してるわけでもないしな。あいつは多分もっとギリギリに来るよ」
「円香ちゃんは?」
「割とまちまちだけど、俺よりかは早く来てることが多いよ」
「そうなんだ。雛菜ちゃんはテレビが面白かったからとか言って、よく遅刻してくるんだよね」
「相変わらず適当だな、あいつ」
「ほんとだよね!」
間。
「そ、そういえばさ──!」
小糸との会話をしている時が、一番途切れ途切れの間を意識するタイミングが多い。
誰と話していても、会話が途切れる瞬間はある。透は会話のテンションが独特だし、円香はそもそも口数が少ないし、雛菜は興味の対象がすぐに移り変わるから、彼女たちとの会話は続くことの方が稀だ。
しかし、それでもあまり無言が気になることはない。空気感、とでもいうのか。少々黙ったところでお互いを意識することがないと分かっているからだと思う。
しかし、小糸との間にはそれがない。
彼女との沈黙はただただ気まずくて、彼女はそれを埋めようと躍起になっていた。
その様が痛ましくて、申し訳ない。
「──えと、じゃあ、私そろそろ行くね!」
「ああうん、またな」
「またね!」
大仰に手を振って、小糸は廊下の角に消えていった。
その背中を見送りながら、誰にも聞こえないくらいの小さなため息を吐く。
彼女のことは好きだ。
別の中学に通っていて、しばらく交流の乏しかった彼女は、その頃に起こった俺の変化についてほとんど知らない。少なくとも直接尋ねられたことはないし、他の3人も恐らく伝えていないから、知らないはずだ。
だから彼女にとっての俺は、未だに常に前を走っていた“いっちゃん”のままなのだろう。
そうやって好意的に見てくれること自体は嬉しい。しかし変わり果てた自分にとって、彼女の期待は重荷でもあった。
教室に入ると、樋口は既に席に着いていた。
「おはよう」
「……おはよう」
辛うじて聞こえる程度の小さな声。目も合わせないし、それっきり会話もない。
けれども、彼女との間に流れる無味の時間は嫌いではなかった。
図書室に来ることは滅多にない。そこまで読書に対して熱を持っているわけではないし、借りるよりも自分で買った本を読む方が好きだから。
しかし、今自分が所有している本はそろそろ全て読み終えてしまいそうで、朝の時間を潰すための在庫が必要だった。買いたい本も今のところ思い当たらないので、こうして図書室の本を物色しに来たのだ。
放課後にまで図書室に来るような真面目な生徒は少ない。しんと静まった閉鎖的な空間。グラウンドから僅かに届く声はほとんど別世界だった。
カーペットを踏む僅かな足音にさえ気を配りながら書架を巡る。実用書のコーナーを過ぎ、純文学の列を覗いたところで、小さな少女を見つけた。
「あ」
小さな声が漏れる。それに気づいた彼女もまた、こちらを見て「あ」と呟いた。
「いっちゃん」
ツインテールの房をふわりと揺らし、彼女はパッと破顔した。
「奇遇だね。図書室で会うなんて」
「俺はあんまり来ないからな。小糸はよく来るのか?」
「うん。レッスンがない日とかに、たまにだけどね」
図書室であることを慮ってか、彼女の声は平素より穏やかだった。
「本、よく読むの?」
「あー、まあそこそこかな。読書家って程ではないよ」
「そっか──でも、意外だな。いっちゃん、昔は本なんて全然読まなかったから」
「そうだっけ?」
「そうだよ。わたしが部屋で本読んでたら、いきなりやって来て、『本なんか読んでないで遊びに行くぞ!』って」
言われてみれば確かに、そんなことをしていた気もする。あの頃はとにかく体を動かすことばかり考えていたから、自主的に読書をすることなんてほとんどなかった。
それでも成績はいっとう良かったのだけれど。小学生レベルとはいえ、テストの点が90点を下回ることはなかったと思う。
今では全教科赤点スレスレの落ちこぼれなのだが。
「そういえばそうだったな。ごめんな、無理やり連れ回して」
「あ、い、いや、そうじゃなくて。遊びに誘ってもらえたことは嬉しかったし、全然謝ってもらう必要はないから」
慌てた様子で小糸はそう言った。それからチラリと脇を見て何かを考えた後、ゆっくりとまた口を開いた。
「ねえいっちゃん、この後暇?」
「まあ、特に予定はないけど」
「よかったらさ、2人でどこかに行かない?」
上目遣いでこちらを覗き込む彼女は緊張していた。特に予定はないからと、俺が頷くと強張っていた肩が弛緩して、安心したように息を吐いた。
自分が彼女の緊張の対象になっていることが、無性に物悲しかった。
沈みかけの太陽を見上げながら、肩を並べて歩く。家から程近い住宅街の一角。もう少し進んだところには公園や駄菓子屋があって、子供の頃に何度となく通った、いつものルートだった。
出かけると言っても、目的は特にない。ただ少しこの辺りを散歩しないかと、彼女は遠慮がちに提案した。
「懐かしいね、この道」
「ああ。もう何年も通ってなかったな」
「あ、あそこの家! 覚えてる? 優しいおばさんがよくお菓子くれたよね!」
「ああ、笹木のおばちゃんか。懐かしいな」
「ね! 元気かなあ……──そういえばさ、あの辺りにいつも赤い車が停まってたよね」
「え?──あー、言われてみればそうだった気がする。綺麗な車だったけど、割と邪魔だったな」
「後ろ側に変なステッカーが貼ってなかったっけ?」
「あーそうそう、なんか紫色のやつ。うわ、意外と覚えてるもんだな」
事あるごとに思い出を振り返り、小糸は嬉しそうに飛び跳ねた。つられて俺も少しずつ童心を思い出し、テンションが上がっていった。
伸びた背の視点で見ると、あんなに広大だと思っていた子供の世界は、一駅間の長さもない小さな箱庭だ。勇気に満ちた冒険も、結局は精々隣の町内を巡っていたに過ぎない。
夕方の住宅街に人気は少ない。子供の頃の記憶を辿っていることもあって、胸を焦がすようなノスタルジーを感じていた。
「透ちゃんと雛菜ちゃんはあんまり変わらないけど、円香ちゃんは、昔はもっと明るかったよね」
「そうだな。それにあんまり体力なかったし、勉強も苦手だった」
「そういえばそうだったかも。いつも『いっちゃん凄い凄い』って、楽しそうだった」
「今じゃあ見る影もないけどな。会う度に罵倒されるよ」
「そうなの? 円香ちゃん、お菓子とかいっぱいくれるし、優しいのに」
「それは小糸にだけだよ。俺にはずっと辛辣だ」
共通の話題は、やはり昔馴染みのことになる。学年も違うし、共通の趣味もない。たまにアイドルとしての彼女の自慢話を聞きながら、のんびりと歩いていた。
気まずい間が生まれる隙もないほどに、彼女は饒舌に、楽しそうに喋った。それに俺も多分、普段よりは口数が多くなっていた。
「あ……」
ふと、小糸が立ち止まる。彼女の視線の先には、比較的新しい綺麗な建物があった。広めの敷地を占領する、二階建ての公共施設。俺の記憶には存在しない建造物だった。
あの場所には、確か──
「公園が、なくなってる……」
小糸がぽつりと呟いた。
彼女の言葉の通り、そこには幼少期の多くを過ごした、大きな公園があったはずだった。滑り台もブランコも鉄棒もジャングルジムも、色々な遊具があって、毎日毎日飽きもせず同じような遊びを繰り返していた。
思い出の場所を尋ねられれば、俺たちが一番最初に挙げるのはきっとこの公園だった。
けれど。
もうなくなっていた。
呆然と、彼女は立ち止まった。腕をだらりと垂らして、僅かに開いた口から笛のような吐息が漏れた。夕陽を浴びて少し大人びた顔が、対称性を失って歪む。
「……あそこで始めていっちゃんと会って、透ちゃんと円香ちゃんとも遊ぶようになったんだ。それから、雛菜ちゃんも加わって、みんなで、仲良くなって──」
ぽつ、ぽつ。確かめるように言葉を落とす。あまりにも痛ましい光景だった。
遠くで5時のチャイムが鳴った。どこかの夕飯のカレーの匂いが漂ってきた。小さな子供の笑い声が届いた。
その全てに、きっと彼女は気づいていなかった。
「──……公園の近くに、駄菓子屋さんがあったんだ。わたしはいつも同じのを買おうとして、これも美味しいよって、色んなお菓子をいっちゃんが教えてくれた」
「…………」
「お店のおばあちゃんはいつもニコニコしてて、すっごくいい人で、たまに、オマケしてくれて──」
言葉に熱がこもっていく。それに反比例するように彼女の声はよりたどたどしく、幼くなっていった。普段見ている小糸の姿は、昔とあまり変わらないような見えて、ちゃんと成長していたのだと知った。
「──……公園がなくなってるなら、駄菓子屋だってきっと──……それに、あのおばあちゃん、けっこうお年寄りだった。もしかしたら、もう──」
俺たちの横を、自転車が通り過ぎていった。
小糸はハッと眼を開いて、俺と眼を合わせた。
「いっ、ちゃん──」
大きな瞳が揺れている。彼女は恐らく、縋る縁を探している。しかしあまりにも残酷に、俺は変わり果ててしまっていた。
それに対し、彼女がどう思ったのかは分からない。僅かにでも俺に面影を見出したのか、消え失せた過去に失望し、絶望したのか。
ただ彼女はカバンの持ち手を強く握りしめて、俺に言った。
「……帰ろうか──」
「──いっちゃん」と、彼女はまだ俺のことをそう呼んだ。
「そうだな」
俺はそれを、嬉しく思ったのだろうか。
帰り道、2人の間に会話はほとんどなかった。
「じゃあ、またね!」
「ああ、じゃあな」
ルートの別れる交差点に差し掛かっても、特段会話はない。
小さく手を振って、小糸は背中を向けて駆けていった。俺も振り返り、1人で帰路を歩く。
夕日はさらに朱みを帯びて、いっそう強く燃えていた。
部屋に入ると、透が座布団に座って優雅にお茶を飲んでいた。
「あ、おかえり」
「…………ただいま」
勝手に人の部屋にいることに対して思うところはあるが、今さら文句を言ったところでどうしようもない。俺はカバンをベッドの上に放り投げると、彼女の対面に腰を下ろした。
「今日は遅かったね。寄り道してたの?」
「あー、まあ、うん」
「そっか。今日の晩ご飯はハンバーグだってさ」
「へえ」
今日は夕飯を食べていくつもりなのだろう。「楽しみだなー」と彼女は呑気に笑った。
差し込んだ夕日がテーブルの上に差し込み、ホコリがキラキラと光っている。茜色に染まった彼女は綺麗だった。
「……そういえばさ」
「うん」
なんとなく、口を開く。
「あの、あそこのさ、昔よく遊んだ公園。なくなってたわ」
「ああうん、なんか施設ができてたよね」
事もなげに彼女は答えた。
「あと、その近くの駄菓子屋も。あそこのおばあちゃん、去年亡くなったみたい」
息が止まった。
「──……そうか……」
「駄菓子といえば、こないだ仕事で久しぶりに駄菓子屋に入ったんだけど──」
スラスラと続けられる彼女の話に、適当に相槌を打つ。
右耳から入った言葉が左耳から出ていった。適当に笑って、適当に二言三言感想を言って、透に話を続けさせた。
どんなにくだらない話でも、無言よりはマシだった。いっそ鼓膜を痛めるほどの雑音でもよかった。
案外。思ったよりも。殊の外。
俺は傷ついているようだった。
気を抜くとすぐシリアスにしたくなっちゃう。これでもだいぶマイルドな話になりました。
次は雛菜回です。
今さらですが、この物語は20話以内で完結する予定です。