真昼のノクチルカ 作:ペンデュラムの根っこ
雨上がりの濡れた路面を、転ばないように足元を見ながら歩く。
都内であっても、住宅地の雰囲気は他所とそう変わりはない。手を繋いで歩く親子。背中を丸めたサラリーマン。横一列で歩く中学生。
令和になってもまだ、さおだけ屋のラッパは遠くで鳴っていた。つい先刻までは雨だったというのに、元気なものである。
車の音のほとんどは隣の大通りからだった。
ポケットに親指だけを入れて、フラフラと歩く。心が虚しい。代わり映えのない生活は空虚だ。世間知らずの学生でも、一丁前にノスタルジーは感じるのだ。
家が近づくにつれ、歩くペースが落ちていく。歩幅は小さく、足取りは重くなっていく。そのままのんびりのんびり牛歩を進めて、後数メートルというところまで来てついに、両足は完全に止まってしまった。
アイデンティティの確かでない若者にはしばしばあること。ありふれた逃避願望だ。
来た道を引き返してもう一度、今度は反対方向の電車に乗ろうか。それともこのまま家を素通りして、あてのない散歩に繰り出そうか。夕飯時には終わる短い一人旅。けれどもそれが堪らなく恋しかった。
さて、どうしよう。立ち尽くしてしばし考えに耽っていると、我が家の塀からひょいと何者かが顔を見せた。
「あ、樹。お帰り」
制服の袖を捲った彼女は浅倉透であった。
「遅かったね。ま、中入んなよ」
「いや、そこ俺ん家なんだけど」
「そうとも言うね」
「そうとしか言わねえよ」
ノスタルジーは呆気なく霧散した。人の住居に住民を招く少女は、類を見ないふてぶてしい微笑みを浮かべていた。
家の灯りは点いていなかった。今日は両親は出かけていて、帰宅が遅くなるという話は既に聞いている。
つまり俺が帰るまで、鍵を持たない彼女では玄関扉を開けることは叶わなかったはずだ。
「お前、俺が来るまで外で待ってたのか?」
「そうだよ。すぐに帰ってくると思って、軒下で待ってた」
「いつから」
「30分前くらい?」
我が家の短い軒先では少し前まで降っていた雨を完全には防げなかったはずだ。
現に彼女のカバンには少し水滴が残っている。ハンカチを差し出すと、彼女はそれでカバンを拭いた。
「わざわざどうしたんだよ。いつもならお前、俺がいない時はすぐに帰るだろ?」
「あー、まあそうなんだけどさ」
後頭部を掻きながら続ける。
「鍵、家に置いてきちゃって。お母さん今、家にいないから中に入れなくて。樋口も今日は仕事あるって言ってたから」
「なるほど」
実に彼女らしい理由であった。
「お母さんはいつ帰ってくるんだ?」
「10時過ぎくらい、だったかな? だから、それまでここにいてもいい?」
「ああ、まあいいよ。ウチの両親もそのくらいまで帰ってこないし」
「サンキュ。助かる」
年頃の男女が2人きり。いかがわしいことこの上ないシチュエーションではあるが、俺と透の間に甘さは皆無である。
そりゃあ彼女は美人だし魅力的ではあるのだが、その感想は性的な感覚とはかけ離れた全く客観的なものなのである。客観的なものなはずなのだ。客観的なものに違いない。
そうでなければ、とても困る。
ただでさえ、雨に湿った艶髪は、思春期男子には酷なものであるのだから。
雨上がりの街は比較的静かだ。さおだけ屋はもうどこかに行ってしまった。
透はソファに座り、俺はイスに腰かけ、たまに金属と木の軋む音や、衣ずれの音が聞こえてくるだけ。
嫌な汗が滲んできたのは、じめっとした温さのせいだろう。
「そ、そういえば──樋口は今、仕事なんだって?」
「うん。なんか、雑誌の撮影……とか言ってた気がする」
「へえ。小糸と雛菜は?」
「さあ。仕事とかは入ってなかったと思うけど」
話しながら、キッチンに入って2人分のコーヒーを入れる。
「テレビとか点けてもいいぞ」
「うん」
頷いたものの、透はリモコンを手に取らず、ソファに深く体を沈めた。
「砂糖と牛乳は?」
「うーん……どっちも要らない」
「うい」
戸棚から適当な菓子を物色する。しかし煎餅やおかきしか残っておらず、コーヒーに合わせるには渋いものばかりだった。まあ、もうすぐ夕飯時だし、お茶請けは別になくてもいいだろう。
「そういえば、夕飯どうする? 母さん帰ってこないし、外に食べに行くつもりだったんだけど」
「……じゃあ、私も一緒に行く」
「何食いたい?」
「……あー……イタリアン……」
「サイゼリヤな」
アイドルとして活躍する彼女はそれなりにいいものを食べているのかも知れないが、一般高校生にそんな金はない。そもそもイタリアンが食べられる店を他に知らない。なんならサイゼリヤが本当にイタリアンレストランかもよく分かっていない。
「サイゼリヤってイタリアンだったっけ」
彼女も同じ疑問を抱いていた。
ソファにあまりにも深くもたれて、ほとんど仰向けになっている。
「多分」
「そっか。まあ何でもいいけど」
ならば良かった。
どうやらサイゼリヤはイタリアンレストランだった。
夕飯時ということもあり、店内はまずまずの賑わいを見せている。主な客層はファミリー客で、学生服を着た集団もチラホラ見受けられた。
自分は寝巻き同然の私服だが、家に帰れない透は制服のままである。同じ生徒の身分ではあるが、少し奇妙な感じがした。
2人がけのテーブルに通され、メニューを眺める。
「何にしよっかな」
「……決めた」
「どれ?」
「パンチェッタと若鶏のグリル」
「樹、いつもそれ頼むよね」
「何でだろうな。サイゼだといつもこれ頼んじゃうわ」
他の店だと色々試してみるのに、サイゼリヤだとほとんどこれかパスタしか選ばない。
「うーん……よし、決めた」
「押していい?」
「いいよ」
透はミラノ風ドリアを頼んだ。彼女も大概そればかり注文する。
「サイゼリヤ、久々に来たかも」
「そうなのか?」
「うん。最近は、事務所の近くのファミレスに行くことが多かったから」
「ふうん」
段々と、彼女の生活はアイドル中心のものにシフトしてきている。少しずつ仕事も増えてきたようで、学校に来ないことも多くなったし、俺の家に来る頻度も減った。
暇さえあれば昼間でも惰眠を貪っていたのに、最近は規則正しい睡眠習慣になっているらしい。
それにレッスンの賜物なのか、立ち姿がしゃんとして、表情が豊かになったように思う。
また、彼女は俺の先に行ってしまった。
「ねえねえ、デザート頼んでもいい?」
ドリアだけでは物足りなかったのか、食べ終えた後で彼女はそう尋ねてきた。
「好きにしろよ」
「樹はなんか頼まないの?」
「俺は──まあ、今日はいいや」
「そっか————すみませーん。これ1つ」
程なくして運ばれてきたのはトリフアイスクリーム。大きなそれを彼女はフォークの先でコツコツと叩いた。
「久々に頼んだけど、やっぱデカいなー、これ」
二度三度感触を確かめて、フォークを皿の縁に立てかけた。少し融けるまで待つようだ。
この分だと、完食まではそれなりの時間がかかるだろう。相手のいる目の前でスマホをいじるのも憚られ、俺は手を組んだまま視線を彷徨わせた。
壁に飾られた絵画。ファミリーレストランには不似合いに高尚なそれには、翼の生えた天使が描かれていた。作者の名も知らぬ絵を、しかも恐らくは安物の複製品を眺めたところで、感動などありはしない。
視線は天使に固定されながらも、意識はどんどん深くに埋没していく。
何かするには短く、何もしないには少し長い、中途半端な時間が災いした。
思い浮かべるのはやはり、昔馴染みの彼女たちのこと。2年生に進級して、小糸と雛菜が入学してからまた少し、彼女たちとの会話が増えたように思う。
同じクラスになって、席が前後になってから、樋口とも挨拶程度は交わすようになった。透も頻度は減ったが、たまに思い出したように俺の部屋を訪れる。
側から見ればきっと、俺は幸せ者なのだろう。魅力的な少女たちと幼馴染で、今でも交友がある。ファンからすれば垂涎もののシチュエーションだ。
しかしその渦中にいる俺の心は、怖いくらいに冷めている。
いけない。また思考が深まっていく。どんどん底に落ちていく。
結局、俺はずっと
彼女たちが自己を確立していく中で、俺には俺のアイデンティティが分からない。
今の俺といたって楽しくない。足を引っ張るばかりでウザいだけだ。あいつらだって、まだ目溢ししてくれているだけで、直に俺を見限るだろう。
きっと近いうちに。なんなら明日にでも。今すぐにでも。
ああもう、悪い想像が止まらない、止められない。
俺に彼女たちの側にいる資格はない。片や腑抜けに腑抜けた抜け殻根暗男。片や売り出し中の美人アイドル。その間の隔たりは一足飛びで越えられるものではもちろんないし、かといって谷に向けて飛び出す勇気すら持ち合わせていない。
必然選ばれるのは無意味な足踏み、現状維持。対岸を見ることも憚られるから、ジッとうつむいて、ただ時が過ぎるのを待っている。
なんと哀れな男だろう。いっそ滑稽ですらあるかもしれない。
樋口だって、雛菜だって、透だって、小糸だって、俺を嘲っているに違いない。形だけは気を回している風を装って、俺など眼中にはないのだ。そうなるように動いてきたのだから、そうであって当然なのだ。
自己責任だ。自業自得だ。なのだからそれに対して不満を抱くことなどあってはならない。黙っていれば誰かが手を差し伸べてくれるだなんて、誰かが俺を連れ出してくれるなんて、そんなわけはないのだから。
期待してはいけない。縋ってはいけない。
大人しく、ジッと引きこもって蹲っていろ。
お前は無価値だ。お前は無意味だ。お前は無関心だ。お前は無愛想だ。お前は無頼漢だ。お前に救いなどありはしない。遍く全てに置いていかれ、干からびて死ぬだけの存在なのだ。
お前の道標はもう死んだ。寄る辺のないお前はただ胡乱な目で彷徨うしかない。フラフラふらついて、いつ誰にぶつかってしまうかも分からない。だったらせめて、動かずに孤独でいることが人様に迷惑をかけぬ最良の──
「──ガチャリ」
奇妙な声に現実へと引き戻された。
顔を上げた拍子に膝がテーブルにぶつかり、振動で皿の上にかけていたフォークが倒れる。
いつの間にか、透の前の皿は空になっていた。
そして目の前に、自分に向かって走る、白く細長い真っ直ぐな道ができていた。よくよく見れば、それは伸ばされた透の腕だった。
右手だ。右腕を俺の胸の前まで伸ばしている。親指と人差し指を、何かを摘むように重ね合わせ、俺の目をじっと見ている。
「──は?」
間抜けな声が零れた。急に戻された現実に理解が追いつかない。単純に、彼女のやっていることの意味が分からなかった。
「鍵、開いた?」
透はまた不思議なことを言った。白く細長い右手にはどうやら、何かの鍵が握られているらしい。そして彼女はその何かを開こうとしていた。わけが分からない。呆けている思考には、彼女の行動は毒だった。
笑顔を携えたまま、彼女は俺の答えを待っている。
だから、呆けたまま答えた。
「……いや……多分、開いてないと思う……」
「そっか。残念」
言いながらも笑顔はそのままに、彼女は腕を引いた。
「……なんだよ、今の」
今更ながら、質問をかける。
「別に。まだ鍵がかかってるのか、確かめたかっただけ」
右手の
「…………」
「…………」
透は何も言わない。俺ももう問いかけない。見つめ合う瞳は透明で無機質だった。
「……帰るか」
「うん」
伝票を手に取り、値段を見る。流石のコストパフォーマンスだ。
見渡せば、店内の人は疎らになっていた。時計の針は9時前を示していて、それなりの時間が経っていることが分かった。
「会計、個別でいいよな?」
「おっけー」
ちょうどレジに他の客はいなかったので、すぐに支払いをすることができた。
先に自分の分を払って脇に避けたが、透は前に出ず、カバンに手を突っ込んだまま静止していた。
嫌な予感がする。
「……おい」
「……ふふっ……──ごめん、財布ないわ」
「後で倍にして返せよこの野郎」
いつどこで取り出したのか、財布は俺の家に置いていかれたようだった。
「……お前、一生クレジットカード持つなよ」
「なんで?」
「絶対にすぐ失くす。仮に失くさなくても、変なものに使いまくって気づいたら残高なくなってそう。後リボ払いとか気づかずに使ってそう」
「そうかなあ」
「間違いない。どれかは絶対やらかす。俺が保証する」
幼稚園から今まで、ずっと彼女の天然さは変わらないのだから、これから改善されるとも思えない。
せめて危ない目に遭わないでいて欲しい。ただでさえ顔はいい女なので、この頃、本気で心配になってきた。
「私だって、そこまでバカじゃないよ」
「バカじゃなくてもアホだろうお前は」
「そうかなあ」
「そうだよ」
俺がため息を吐くと、透はカラカラと笑った。
「じゃあ、お金の管理は樹に任せるよ」
「なんで俺がお前の財布の面倒を見なきゃいけねえんだよ」
「いいじゃん。その代わりに、家事とかは私がやるから」
「──は?」
俺が振り返ると、彼女はカラカラと笑っていた。
その目は、相変わらず綺麗なビー玉のようだった。
「──は。いや、無理だろ。お前がちゃんと家事をこなせるビジョンが見えない」
「そんなことないって」
「洗濯機回したまま放置しそうだし、炊飯器の炊飯ボタンを押し忘れそうだし、値段もよく見ずに高めの日用品買ってきそうだし、それから──」
思いつく限りに彼女のやりそうなことを挙げ列ね、俺は夜道を歩き出した。
透は楽しそうに話を聞いたまま、黙って俺の隣に並び続けている。
彼女が隣にいるのはいつも通りだ。子供の頃からずっと、どれだけ走り回っても気づいたら隣には透がいた。それは俺が往生している今でも変わらない。彼女は俺を見捨てず、まだ側にいてくれている。
申し訳なくも思うが、それは基本的には嬉しいことなのだ。
けれども、今は。少しだけ離れていてほしかった。
客観的なものなはずなのだ。客観的なものに違いない。そうでなければとても困る。
不安だった。側にいたら、心臓の音が届いてしまいそうで。
段々と読み難い文体になっている気がする。適度に読み飛ばしてください。
ここから最終話までのタイトルと大まかな展開は既に決まっています。細かいところはライブ感で、後はモチベーション次第。
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