ひ、人の心……
例えば常温に置かれてから、時間が経って溶け始めたかのように。
ポタリポタリと、『それ』は雫を滴らせ始めた。
ナザリック地下大墳墓
低位とはいえかなりの数のアンデッド兵を出陣させての此度の敗北、本来ならば階層守護者にあるまじき失態には違いない。コキュートスが誅殺された程度で許されるとも思えず、最悪の場合はアインズが自分達に落胆して見捨てられるかもしれないだろう。
だと言うのに……
「………」
ほうと白いため息を吐き、ぼんやりと宙を見るコキュートスの心中にあるのは、アインズに身限られるかもしれないという焦燥………初陣を手際よく行えなかったことに対する後悔………己の不甲斐なさへの怒り……その
彼の脳裏に浮かぶのは、黝色の鱗を持つ蜥蜴人の魔法詠唱者の姿。多彩な氷の魔法を駆使し、仲間と共にザンディアを屠ったあの勇姿が何度もリフレインする。
「コキュートス、いつになく無口でありんすねえ」
「まあ今回の任務で彼だけが結果を残せなかったらしいからね。ショックなのも致し方ないだろう」
「だ、大丈夫かなあ。コキュートスさん」
「最悪、アインズ様に階層守護者を解任させられるかもしれないしね……」
『おいたわしやです……』
そんな精神状態のためか、コキュートスは他の階層守護者達と玉座の前に集まってからも、ヴィクティムと初めて対面した時でさえ、彼らからの問いかけにずっと生返事をするのみだった。しかし彼らはその様子を『主命失敗によるショックで落ち込んでいる』と捉えたようで、小声で話し合ってコキュートスに同情するのみだった。
「ナザリック地下大墳墓最高支配者、アインズ・ウール・ゴウン様。および守護者統括アルベド様の御入室です」
そこへ主の入室を知らせるユリの声が響き、一同は反射的に玉座の前で跪く体勢をとる。重い扉が開かれ、カツンカツンと固い床を踏む音を鳴らして進むアインズとアルベドは、守護者達の真ん中を通り玉座に向かう。その際コキュートスのそばを通りすぎようとしたほんの一瞬だけ、アルベドが彼を冷ややかな目で睨んだが、いまだ陶酔に浸るコキュートスがそれに気づくことはなかった。
「顔を上げ、アインズ・ウール・ゴウン様の御威光に触れなさい」
玉座に腰掛けたアインズを見届け、彼の傍らに立つアルベドが守護者達に告げる。
「アインズ様、ナザリック階層守護者が御身の前に揃いました。何なりとご命令を」
「うむ」
眼前の配下達に視線を一瞥してから、アインズは少し間を置いて口を開く。
「各階層守護者たちよ、よくぞ私の前に集まってくれた。まずは感謝を告げよう。デミウルゴス」
「はっ」
最初に呼ばれた赤い衣服の悪魔が、ピシリと姿勢を正して面をあげる。
「ことあるごとに呼びつけてすまないな。忠勤感謝しているぞ」
「おお、何をおっしゃいますアインズ様! 呼ばれれば即座に参るのがシモベの務めでございます」
一時期アシズ襲撃による大失態から来る強迫観念に捕らわれ、ろくに休みを取らなかった彼であったが、アインズ直々にメンタルケアをしたおかげか、かつての調子を取り戻しつつあるようだった。
件の焔両脚羊から採取された皮で低位のスクロール作成での使用に耐えられることがわかることを告げれば、甲殻の尻尾をブンブン振って喜びを表している。デミウルゴスの報告によれば、現在彼女は汚い畜舎から人間用の小綺麗な部屋へと移され、上等な衣服と料理長特製のしっかりした食事を与えられているとのことだ。それを聞いてアインズは少しだけホッと胸を撫で下ろす。
「次にヴィクティム」
『はいアインズさま』
次いでアインズが声をかけたのは、ピンク色のグロテスクな胚子の姿をした天使ヴィクティムである。
「お前を呼んだのは他でもない。アシズを初めとする想定外の強敵が出現した際に、私と守護者達を守るためにお前のスキルが必要だからだ」
ヴィクティムが保有する『
なので場合によっては相手を逃さぬよう、自分達がヴィクティムを殺す可能性もある。直ぐに蘇せることを約束すると申し訳なさそうに告げるアインズに、ヴィクティムはただ頭を垂れて答える。
『おきになされずにアインズさま。わたしもアインズさまのしもべ、それにしぬためにうみだされたのです』
その力で至高の御方のお役に立てるのであれば、これ以上の喜びはない。響く声にどこか嬉しそうな色があるのを見て、アインズは頷く。
「そうか……ナザリックのギミックに用いられている合言葉にこのような福音書の言葉がある。『人、その友のために自分の命を捨てること。これよりも大いなる愛はなし』。まさに
『もったいないおことば』
主君からの感謝の言葉に、照れ隠しのつもりか手足をワタワタとさせるヴィクティムだった。
「コキュートス、アインズ様よりあなたに向けて御言葉があります。傾聴しなさい」
「ハッ……」
最後にと、アルベドがコキュートスに厳しい声色で告げれば、白い息を吐いて返事する。
「蜥蜴人との戦闘、見せてもらったぞコキュートス。敗北で終わったな」
「………」
コキュートスは変わらず無言を貫くも、アルベドはその態度を見て眉間に皺を寄せて口を開く。
「コキュートス、蜥蜴人ごときに破れた挙げ句にアインズ様に謝罪すらないの? せめて面を上げなさい!」
やや怒気を込めて命じれば、コキュートスはゆっくりと顔を上げてアインズを見返す。
「………申シ訳、アリマセン」
そう短く返事すれば、コキュートスはまた無言になる。アルベドが見るからに不機嫌そうになるのを見て、場の空気を変えるべくアインズが問いかける。
「コキュートス、敗軍の将の言を聞こう。今回、指揮官として戦ってみて何を感じとった?」
「………何ヲ、感ジトッタカ……?」
今後のコキュートスを初めとする守護者が戦うことでどのように学び成長するのかを、今一度確かめなければならないアインズにとっては勝敗よりも重要な答えだ。出来れば今回の失敗からどうすれば勝てたのかを正しく理解できれば御の字だが。
対するコキュートスは暫し空を眺めてから、どこかボンヤリした目線のまま白い息吹きを吐く。そして次に信じられないことを漏らしたのだった。
「………トテモ、美シカッタ」
「………は?」
ここに来て想定外の感想を述べられ、アインズの思考が停止するもすぐさま鎮静化が働いて正気に戻される。
「『絵ニモ描ケナイ美シサ』。トイウ言葉ガアルガ………アレハ………アレハモハヤ、ソンナ次元ノ美シサデハナカッタ……」
何かに取りつかれたようにぶつぶつと呟くコキュートスに、眼前のアインズは愚かその場にいる守護者達も目を見開き硬直する。
「芸術的ナ美シサトモ、生物的ナ美シサトモ違ウ。アレノ美シサヲ形容スルニハ何ガ適切ダロウカ……」
ふとコキュートスの視界にアインズが持つスタッフオブ・アインズ・ウール・ゴウンが入る。その完成されたアイテムの美しさを見たコキュートスはハッとなった。
「………アア、ソウカ」
コキュートスは慌てるようにインベントリを開くと、中を探って一本の刀を取り出した。それは『斬神刀皇』、彼の創造主である『武人建御雷』の愛刀であり、ナザリックがこの世界に転移した後にアインズから賜った至高の武器である。
「コレダ………コノ『美シサ』ダ!」
その眩き刀身を凝視して、コキュートスは納得したように頷く。そう、彼はニーガの素顔を見た瞬間、初めて斬神刀皇を見た時と同じ感動を感じていたのだ。
「コキュートス!!」
アルベドの今日一番の怒鳴り声に守護者一同がビクリと肩を震わせる。無反応だったのは刀に魅入るコキュートスのみだ。
「貴方、先ほどから黙って見ていれば………アインズ様を御前にしてその態度はなんなの!? そもそも御方に許可もなく武器を出すとは何のつもり!? 一体貴方は何を企てて……!」
「アルベド」
癇癪気味に責め立てるアルベドを制するようにアインズが片手を上げて遮断する。アインズがコキュートスを見れば、彼はキョトンとしたように小首を傾げて自身を見返している。どうやらアルベドが何故怒っているのかを理解していないようだった。アインズはゴホンッと軽く咳払いしてから再びコキュートスに質問する。
「………すまないコキュートス、質問が分かりにくかったようだ」
まずアインズは今回の敗北を強く責める気はないという旨を説明し、どのような者もまた失敗するしそれは自分自身もそうだと語る。
「ただ、問題になるのはそこから何を得たかだ。……コキュートス、質問を変えよう。どうすれば勝てた?」
(………アア、
アインズの説明でようやく、彼らが自身に求めている答えが何なのかをコキュートスは理解した。
それからコキュートスはアトリオから指摘された、己の失敗を思いつく限りに答えた。
蜥蜴人を侮り、相手の実力・地形などの情報収集を怠ったこと。低位アンデッドに指揮官を配置しなかったこと。相手の武器を考慮せず、力押しでアンデッド部隊をぶつけてしまったこと。それらを全て述べれば、アインズは「素晴らしい!」と称賛する。
「あのエルダーリッチ以外は全てPOPするアンデッド。滅びたところでナザリックに何の影響も与えない。守護者が学んだという事を考えればお釣りが来るぐらいだ」
「アリガトウゴザイマス、アインズ様」
「とはいえ、敗北したのは事実。であれば罰を受けてもらう。本当はお前を後ろに下げるつもりだったが、こちらのほうが良いだろう」
暫し間を空けてから、アインズはコキュートスを指差して主命を下す。
「コキュートス、その汚泥をお前の手で拭え。蜥蜴人達を殲滅せよ。今度こそ誰の手も借りずにな」