ポロリと斬神刀皇が手から滑り落ち、ガシャリと音を立てて玉座の間の床に深い傷痕をつける。震える四本腕のうち上の腕で頭を抱え、下の腕で寒さに震えるように身体を抱き締めるコキュートスの姿に、アインズは慌てて玉座から駆け寄る。
「どうしたコキュートス、どこか具合が悪いのか!?」
配下のただ事ではない様子に、心配そうに手を差し伸べようとする主だったが、
「ウ、ウアアアアアアアア!?」
その白い骨の手を、コキュートスはあろうことか絶叫しながら振り払った。
「え………?」
突然のことに頭が真っ白になるアインズに、コキュートスはまるで化け物を見るかのように怯え、震えながら後退りして距離を離していく。
「オ前ハ………オ前達ハ『何』ダ!?」
外の世界を見た今ならわかる、この場所は歪だ。
何種類もの毒々しい色の壁紙を乱雑に張り付けたかのように、不自然で気持ち悪い。周りにいる者達も、歪な価値観を素晴らしいと称える姿が気味悪くて仕方がない。
配下から向けられる恐怖に満ちた目に、アインズは何度も沈静化の光が輝くが一向に考えが纏まらない。というよりは、我が子のようなNPCに拒絶されたという事実を受け入れられなかったのかもしれない。
「コキュートス! 君は御方にどれだけ不敬な真似するつもりだ!?」
最初に動いたのは階層守護者屈指の忠臣であるデミウルゴスだった。実はコキュートスが「美しい」と発言した時から彼に対し怒りを感じていたが、あろうことか主の御手を振り払うという蛮行をしでかしたのを見てとうとう堪忍袋の緒が切れたらしい。
「そうよ! しかもアインズ様をお前呼ばわりとか何様のつもり!?」
「い、いくらなんでも酷すぎます!」
「五大最悪引き摺り回してやろうかおんどりゃあ!?」
『ゆるせません………!』
続けてほかのシモベ達も立ち上がりコキュートスを糾弾しだす。唯一アルベドだけは言葉を発しなかったものの、その目は汚物を見るような眼差しで彼の失態を責めるのが見てとれた。
「コキュートス様ご乱心! コキュートス様ご乱心!」
騒然とする玉座の間だったが一際甲高い声が一同を鎮めるように響き、コキュートスの頭上から数十体のエイトエッジアサシンが降り注いできた。巨体を持つコキュートスの身体が隠れるほどにしがみつく彼らの重さに、コキュートスはバランスを崩し前のめりに倒れる。
「グフッ!?」
必死になって彼らを振り払おうともがくが、日頃から興奮するアルベドを拘束できるだけのこともあり一向に剥がれてくれない。
その
その間十秒ほど。もう済んだのかコキュートスから視線を外すと背後に控えるアトリオと目が合う。
「………刺激が強すぎたでしょうか?」
誰にも聞こえないようにポツリと小さく呟くアトリオは、跪いた状態から立ち上がるとゆっくりコキュートスに歩み寄る。尚も懸命にもがく彼を冷ややかな目で見つめ、腰に携えた片手剣に手をかける。
「待てアトリオ! なんの真似だ!?」
傍目にはどう見てもコキュートスを殺そうとする構えに、アインズはアトリオを止めるように慌てて声をかけた。対するアトリオはゆっくりと首だけをアインズに向ける。
「………アインズ様、まずは勝手な行動をとったことを謝罪いたします。ですが、至高の御方に歯向かう裏切り者を野放しにするわけにはいかないと愚行いたしました」
「裏切り者……!?」
「至高の御方のお考えを汲み取らないばかりか、己の欲を優先し主命に背く。これが裏切り以外のなんだとおっしゃるのですか」
アトリオの意見は最もだ。絶対なる支配者を前にして歯向かう態度を見せるなど、確かに不敬と言えるだろう。
「コキュートス様はだいぶ気がふれてしまったご様子です。御方のご厚意をむげにするようで申し訳ございませんが、かくなる上は一度命を断たせてから蘇生し、かの蜥蜴人を見た記憶を消すほかありません」
「!!」
件の蜥蜴人に対する執着がコキュートスの乱心の元凶だとするならば、一度殺して蘇生すればその辺りの記憶は綺麗さっぱり消えるはず。コキュートスはその言葉の意味を悟り、ガバリと顔だけをアトリオに向ける。人間であれば彼の顔は恐怖から青ざめていたことだろう。
一方でアインズはその提案に反対する。
「待て、落ち着くのだ! コキュートスは一時の気の迷いからそうなっているだけかもしれない。ここはまず慎重に……」
我が子同然の配下のワガママ程度で誅殺するなどあってはいけない。ひとまずアトリオを落ち着かせるべく武器を納めるように命じたアインズだった。
「………」
しかしアトリオは苛立たしげに頭をかいてから、ゆっくりと口を開いた。
「モモンガさん達、少し黙ってて」
その口から漏れるのは、蕩けるような甘い男の声。その声を聞いたアインズの眼窪の赤い灯が輝きを失い、次の瞬間一同が床に倒れ伏した。
「!?」
まるで≪
「ナンダ、彼ラニナニヲシタ!?」
「貴方には関係ありませんよ。どうせすぐ忘れるんですから」
コキュートスの疑問を一蹴し、腰から片手剣を抜くアトリオを見てコキュートスは首を振って懇願する。
「待テ! 殺スナラバ蘇生ハヤメロ!!」
コキュートスはただ死ぬことは恐ろしくない。彼にとって最も恐ろしいのは、あの蜥蜴人の記憶を失うことだ。しかしアトリオはウンザリしたようにため息をついてコキュートスを見下ろしてくる。
「やめろ? 何言ってるんですか」
まるで欠陥品を見るような冷たい目で睨み、吐き捨てるように呟く。
「
高く掲げた剣の刀身に青紫色の炎が纏われる。見ただけでも高位の威力の魔法であると理解し、コキュートスは拘束を解こうと暴れだす。
「イヤダ! ヤメロ! ヤメテクレ!!」
しかしエイトエッジアサシン達は一匹も剥がれる様子はなく、アトリオの剣はそのままコキュートスの首へと振り下ろされる。
「イヤダアアアアアアアア!!」
初めて抱いた熱意、自分という『個』が欠落するという恐怖に、断末魔に等しい絶叫を放った瞬間、
床に落とされた斬神刀皇を中心に、朱色の火線で描かれた魔法陣が浮かび上がった。
「!?」
突如溢れた力の奔流にアトリオの動きが僅かに止まった瞬間、弾かれるように斬神刀皇の切先がアトリオに向けて飛び、剣を持つ腕を関節から切り落とす。切られた腕は床に落ち、手にした剣もろとも青紫色の火の粉となって消えていった。
「コレハ……!?」
「は………?」
次々と起こる理解不能な事態に混乱となるコキュートス。対するアトリオも驚愕に複眼を見開いた。自らの腕が切られたことにではない、未だ宙に浮かぶ
「しゅい、ろ?」
その炎の色は、力強く燃える朱色だった。
彼のその隙を逃さないように斬神刀皇は炎をより一層大きくさせ、その熱さから両者は思わず腕で顔を庇う。
時間にして数十秒、ようやく熱が消えたことを確信したアトリオが目を開けば、眼下のコキュートスの姿はどこにもなかった。彼を拘束していたエイトエッジアサシン達は先ほどの炎に焼かれたのか、青紫色の火の粉を散らして文字通りの虫の息である。その光景にしばし呆然となっていたアトリオだったが、
「………は」
口から乾いた笑いを漏らし、
「ははは………はは!」
残った手で顔を覆い、肩を震わせ、
「あはははははははは!! あーはっはっはっ!!」
もう可笑しいとばかりに、狂ったように爆笑し出した。
「はっは………ああ………なぁるほど…」
ひとしきり笑うと、落ち着いてきたのか小さく声を漏らし、
「そっかそっか………
グシャリと、頭部を握りつぶしそうな勢いで、指を額とこめかみにめりこませた。指の隙間から覗く青紫色の眼光は、怒りの炎を激しく燃え上がらせている。
「やってくれたじゃねえか………
例えば外気で温まった水が、蒸発して気体となったように。
シュルリと、『それ』は姿を消した。
今まで920を前後するだけだったお気に入りが、940を超えているだと……!?