デバフネイチャはキラキラが欲しい 作:ジェームズ・リッチマン
私はかつて、競走ウマ娘だった。
走るのが好きだった。
トレセンは中央ではなかったけど、それでも重賞を一つ取れるくらいには本格的に取り組んでいたし、今でも人生で最も濃密な日々だったと振り返れる。
四年ほど走り続けて残せた結果は、そのくらいだけど……私は自分なりの全力は出せたから、引退を決めた後に悔しさや悲しさは残らなかった。
卒業後もレースと関わっていたくて、色々勉強した末にテレビ局に勤めることにした。
ウマ娘の体力とレースの知識は現場仕事にはとても向いていたので、即戦力扱いされたのが良かったのかもしれない。若い頃から経験を積めた私は、ちょっと有名なウマ娘リポーターの地位を得るまでに至った。
今ではウマソウルから受け継いだ名前を控えて、匹場として仕事をこなしている。
ウマ娘のレースを見るのはとても楽しい。
ターフの上を走ってゆく彼女たちを見るだけで、若かりし日のあの熱い心が呼び覚まされるかのよう。
コースの外でカメラを向けたり、実況や解説を挟むことしかできない自分をむず痒く思うこともたまにはあるけれど、ウマ娘の走りを見て研究するという楽しみを味わえるだけでも、私は強く満たされた。
あるいは、私は自ら走るよりもそうして、他人のレースや走りを深く掘り下げることの方が楽しめるのかもしれない。それは、引退して初めて気付く自分の一面だった。
大きな声では言えないけれど、仕事が終わっても独自にレースの研究なんかに勤しんでいたり。
別にトレーナーを志しているわけでもないけれど、自分なりに集めたデータを深掘りし、研究し……その内容をあまり詳しくない家族にだけお披露目するのが、私の趣味だ。
会社の高性能カメラと編集機材があってこその趣味である。頼まれても外には出さない代物だ……。
そんな私が今最も注目するウマ娘が、目の前のコースを走っている。
「綺麗……」
マイクを手にしているのに思わずそう呟いてしまうほど、芝を駆ける彼女のフォームは美しく、整っていた。
かつてトレーナーに指導されていた頃の記憶が蘇る。
優秀なトレーナーとはいえなかったが、自分のトレーナーは平凡なりに熱心で、常に読み古した指導書を持ちながらトレーニングを見てくれていた……。
私から見て、ナイスネイチャのフォームはお手本、あるいは理想に近い走りを体現しているように見える。
手はこう振る。脚はこう動かす。ここで膝を伸ばす。ここまで蹴り抜ける……。
坂路に差し掛かればその時の最善を。コーナーまでやってくればその時の正答を見せてくれる。
今はトレーニング中で、そう全力を出しているわけでもないのだろう。それでも、走りの精度には素晴らしいものがあった。
「はぁ、はぁ……いやー、厳しいなぁ……」
「タイム、良くなってますよ。お疲れ様です、ナイスネイチャさん」
「ん。ありがと、トレーナー」
ナイスネイチャのトレーニングはこれといって変わったものはない。
指導内容も普通だ。中央トレセンにしてはむしろ穏やか過ぎるくらいだろう。
ナイスネイチャの走りの極意は、レース本番に発揮される。
それまでのトレーニングは……退屈なまでの基礎トレーニングに費やされていた。
休憩を挟み、再びナイスネイチャが走り出す。
彼女は良いスタミナを持っている。へこたれない根性も備えている。
しかし……。
遅い。
もどかしい程に、ナイスネイチャは遅かった。
レースを離れて何年も経つ私が思わず親近感を覚えてしまうくらい、ナイスネイチャにはスピードという、持っているべき武器がなかった。
きっと地方でなら強かった。レース運びの上手さも相まって、敵はいなかったはず。
けど中央ではそうはいかない。ナイスネイチャのスピード不足は致命的な問題だ。
だから、彼女は補っているのだろう。
自分の持っていないスピードという名の才能を、他のあらゆるもので……。
「……
私が複雑な想いであの子を見つめていると、チームカノープスの南坂トレーナーがひっそりと声をかけてきた。
「実を言えば僕はトレーナーを始めてまだ浅いもので……彼女の走りに関して、何も効果的なアドバイスをしてあげられないのです」
「……私も多くのウマ娘を取材してきましたが、コーチではありません。個人的にもお力添えしたくはあるのですが、不用意な発言は彼女の走りの邪魔をする可能性もあります」
そう言うと、南坂トレーナーは苦笑を浮かべた。
「……彼女の走りは、美しいと思います。まるで、そうまるで……“これ以上は、改善の余地が見られないくらい”……」
それは過酷な現実だ。
成長限界。
年齢的に本格化が終わったわけではないだろう。まだ衰えることはないはずだけど、しかし……競走ウマ娘の中には、成長の只中でとても硬い壁にぶつかる者もいる……。
どうしようもなく硬く、分厚く、越えられようもない壁。
……素質。才能とも呼ぶべきもの。
「でも。そんなナイスネイチャさんは良い成績を残しています。皐月賞では五着。ダービーでは四着。……一部の世間ではそれを冷笑的に評価する向きもありますが、クラシック三冠の舞台でこれはとてもすごい事です。同じコースを走るウマ娘は18人近くもいるのですよ?」
「ええ、僕もそう思います」
「普通、ナイスネイチャさんのスピードでそこまでの結果を出せるウマ娘は……いません。少なくとも私は取材したことがない」
だから考えてしまう。期待してしまうのだ。
もしも、ナイスネイチャが。平凡な速度のウマ娘が、G1を取るようなことがあれば。
その結果はきっと、大きな意味を持ち、レースに大きな変革を齎し得るのではないかと。
「僕は楽しみにしています。世間がどう言おうと、ナイスネイチャさんが菊花賞で一着を取るのを」
「……世間は揺れますね。間違いなく」
「まあ、その前にこなさなければならないレースがたくさんあるのですが。ははは……」
しかし、本当によく走るウマ娘だ。
聞けば菊花賞までに六回以上はレースに出走するつもりなのだとか。それで怪我をしないつもりなのだというのだから恐ろしい。
……俗説によればトウカイテイオーは、脚を犠牲にしてあの瞬発力と速度を生み出している……のだと言われている。
その考えになぞらえればナイスネイチャは遅いから怪我をしないと思われがちだけど、現実はそうではない。
速かろうが遅かろうが怪我する時はする。
……どうか、身体を大事に走ってほしい。
真面目な顔でターフを走るナイスネイチャを見ながら、私はそう祈った。