デバフネイチャはキラキラが欲しい 作:ジェームズ・リッチマン
はづき賞は雨だった。
暑さの中で走るのは嫌だけど、強いライバルをすり抜けて成績を残すためには今の季節を逃す手はない。そんなつもりで出走したこのはづき賞だった。
けどいざ当日を迎えてみれば雨に不良バ場。
暑くないのは良いけど、やっぱり雨はしんどいな。
何よりも。
「おいっすー。みんな今日はよろしくねー!」
あの子がいた。
ナイスネイチャ。
皐月賞にもダービーにも出ていた彼女が、合宿を終えたのか、途中で抜け出したのか、小倉にいたのだ。
……有名な子だ。
速くないのは知ってる。けど、絶対的に弱いウマ娘でないことも明らか。
メディアは彼女を貶す記事を書くのが好きだけど、とんでもない。
“妨害ギリギリの戦法を好むヒール”だとか言ったところで、妨害にならないのであればそれは真っ当な戦術なんだ。
そもそも妨害だってギリギリではない。これまでナイスネイチャが出てきた幾つものレースで一度も審議を取られていないのがその証拠。彼女は規定の中で最善の手を打っているだけに過ぎない。
「サードカエサルだよね? 今日は一番調子良さそうだから……うん、一緒に頑張ろう?」
……そんなウマ娘に目をつけられてしまった。やり辛い。
それに、なんだか……彼女から発せられる妖しげな雰囲気に、呑まれそうになる。
いけない。今から気圧されてたら逃げなんて打てないよ。
いつも通り冷静に、淡々とペースを刻むんだ。そうするだけで、今日は勝てるはず。
それに、ナイスネイチャは短い距離は得意じゃない。彼女は長距離向きのスタミナを持つウマ娘だ。1800なら私の逃げだって最後まで持つ。
「怯えてるの?」
「……!」
ゲート入りする前、ナイスネイチャが楽しげな眼をこちらに向けてきた。
「……良い顔してる」
「! ……うるさいっ」
なんだあの子。こっちを見て、あんな目を向けてきて。
ナイスネイチャっていつもこんな感じなの? おかしい。絶対に変。
「距離は短いけど……だからって、何もされないとは思わない方が良いよ?」
「!」
ゲートが開く。
「私はなんだってやるんだから」
雨の降る中、泥が跳ねる音と共にレースが始まった。
私の戦法は逃げ。逃げだけど、冷静さを欠かない逃げを武器にしている。
今まで苦戦が続いていたけれど、ようやく最近調子を取り戻してきたところなんだ。ここでまた躓くわけにはいかない。
水の跳ねる音。後続は後ろ。追い抜かされる様子はない。逃げのライバルらしいライバルが不在なのは出走表を見てわかっている。
スタート前に警戒していたナイスネイチャも近くにはいないようだ。
……彼女は走りながら囁くらしいけど、そもそも雨の降る中で囁き声なんて通るものなのか?
いや、通らない。そんなことできるわけがない。
足音だって幾つもの水音が重なって大きくなってる。……好条件だ。ナイスネイチャも恐れる必要はない!
「ここだっ……!」
「!」
いや、気を緩めるな! 近くにユニティライツが迫ってる!
外からでも抜かされるわけにはいかない! 塞がれる前に加速を……! 多少の無茶をしても私は走り切れる!
「絶対負けないッ!」
今度は内からグージユニコが来た。
掛かってる? 厄介な……! 散発的に追い切りされてる気分だ。走り切れるといっても、こちらにも限度がある……!
……そうか、これはナイスネイチャの仕業か!
ささやいて、掛からせる。まるで自分の手駒のように他のライバル達をけしかけて、私を潰しに来てる……!
私に囁き声は聞こえない。邪魔もされてない。直接は。
でもナイスネイチャの息のかかった子達が、一つの狩りの集団のように……私を追い詰めている……!
「はぁ、はぁっ……!」
それでも。それでもこの距離なら走り切れる……はず、なのに……何故、こんなにも苦しい……!?
「雨だよ。いつもより、ほんの少し、息苦しいでしょっ……!」
最後の最後で、並ばれた。ナイスネイチャに。全ての首謀者に!
「息を入れ損ねると、簡単に溺れちゃうの。経験、なかった?」
「うる、さっ……!」
あ、しまった、声出すの、こんなに辛い……!?
「ふふ、苦しそう」
「……!」
最後にうっとりするような笑みを残して、ナイスネイチャは真っ先にゴールを駆け抜けていった。
『差し切ったぁー! ナイスネイチャ、不知火特別に続き一着でゴール!』
息苦しい。咳き込む。ああ、そうか。知らずのうちに雨粒を飲み込んでいれば、僅かでも息苦しくもなるか。バ場も重い。いつもよりずっと身体が疲れている。
……そうなると、1800mという距離なんてあてにはならない。
やられた。完全に崩されたな。逃げに執心し過ぎて、結局負けてしまった……。
「はぁ、はぁ……やるじゃん、ナイスネイチャ……」
「あはは、ありがと。サードカエサルも、良い走りだったよ」
そして勝負が終わると、用済みとばかりに挑発をやめる。……徹底してるな、彼女は。
勝負が始まるたびにいつもそんな仮面を被っていて、疲れないのかなって思っちゃうけど。
「また走ることがあったら、よろしくね?」
そんなことを思っていると、すぐそばにナイスネイチャの顔があった。
近い。なにこの距離。その表情……。
「う、うん。その時は、よろしく……」
「ふふ」
……。
あれは、本当に仮面なんだろうか?