デバフネイチャはキラキラが欲しい 作:ジェームズ・リッチマン
菊花賞が始まろうとしている。
ゲートイン前の僅かなこの時間は、ライバルたちと言葉を交わす最後の機会だ。
普段ならば、ここでお互いに健闘を誓い合う。もちろん全員が全員そうするわけではないが、G1の舞台でフルゲートともなれば、半分以上のウマ娘は何かしら言葉を交わすものだ。
しかし今日この場において、ゲート前でコミュニケーションを取ろうとするウマ娘は居なかった。
不自然なほどの緊張感が辺りに立ち込めているかのように、誰もが口を開かない。
まるで全てのウマ娘に“念のため今日はその方が良い”とトレーナーからの指示が出ていたかのように。
そう、全てはナイスネイチャ対策の一環。
レース前に他のウマ娘を揺さぶるナイスネイチャへの警戒方法は周知のものとなっていた。
もちろんこれは今に始まったことではない。
故に、ナイスネイチャにとって特筆すべきアクシデントではなかった。
「はぁー……」
レース前は誰も自分と話そうとはしない。それは予定通り。
会話に入ってきて欲しくないから他の子同士でもやり取りはしない。全ては彼女の読み通り。
「……せっかくの菊花賞なのに。トウカイテイオーがいないせいか、観客席も盛り上がってないねぇ」
耳を澄ませれば微かに聞こえるブーイングを自分以外のせいにして、ナイスネイチャはわざとらしく肩を竦める。
ギリギリ全員に聞こえるくらいの声量で。それでも声を張り上げない程度のバランスで。
「ま! しょーがないか。本命不在じゃ誰が勝ったって面白くないもんね」
手を庇に、観客席を眺め彼女は語る。
「今年の菊花賞の時計は例年より何秒遅くなるのかねぇ。テイオーが走ってたら逆にレコードが出たかもしれないけど、私達だと……まぁ、二秒くらい遅くなっちゃうのかな?」
ナイスネイチャを除いた他のライバルたちは、変わらず沈黙を守る。
しかし辺りを包む雰囲気はより重くなり、内に秘められた怒りは静かに熱を上げてゆく。
「誰も私達なんかに期待してないよ」
誰かが口の中で呟く。
“それは違う”と。
「トウカイテイオーの居ない菊花賞を取りに行く私達は“空き巣”みたいなものだし」
誰かが強く芝を踏みしめ、草が千切れる音がした。
「情けないタイムを出して掲げる薄っぺらいトロフィーに、価値なんてあるのかねぇ……」
「――うるさいッ!」
一人が声を張り上げる。
それはライバル達の中で最も冷静さを保っていたはずの、リオナタールだった。
「……さっきから……!」
怒りが彼女の中で渦を巻いている。
長らく感じたことのなかった、赤黒い怒り。
だがその感情はリオナタールだけに限ったものではない。他のライバルたちも大小あれど、同じ気持ちを抱いている。
「客観的な事実ってだけ。私はそう思ってないから、怒らないでよ」
ナイスネイチャは特に茶化す風もなく、代弁したまでだと言いたげにそう流した。
自分は何も考えていない。期待されていないこのレースに対しては何も思っていない。そんな顔で。
「トウカイテイオーと一緒に走りたかったのにな……」
「……」
ゲート入りが始まる。
観客席からは神妙な顔つきのウマ娘たちがゲートインする様子が見えていたかもしれない。しかし彼女らの内心は粗熱を帯びた怒りに支配されている。
ウマ娘は走りに対して異常な執着を持っている。
特にレースを走る競走ウマ娘たちにとって、レースとは大きな意味を持っている。
それこそ、ヒトとは一線を画すほどに。
一時であれば、事前の作戦を忘れさせてしまうほどに、強い感情が付随するものなのだ。
ファンファーレが鳴り響く。
菊花賞が始まろうとしている。
心の半分を覆い隠していた怒りが鎮まり、集中力が研ぎ澄まされてゆく。
「――“ボクが出てたら楽勝だったのになぁ”」
「……ッ!」
それは今この時、最も彼女らの心を深く抉る声真似だった。
“ガタン”
ゲートが開く。
「――“ほら、みんなボクより遅いもん”」
ただの声真似。子供だまし。トウカイテイオーは居ない。いつもの心理戦。
考えればわかる。考えなくてもわかって当然のこと。
――それが、今この一瞬だけは解らない
「行かせないッ!」
「違う!」
「私のほうがッ……!」
結果として、全てのウマ娘がペースを乱した。
全てのウマ娘から全ての事前準備と作戦内容が頭から弾け飛び、剥き出しの闘争心のままにナイスネイチャの後を追う。
実況は困惑と驚きの声を上げている。だが観客席に向けられた声はターフの上にまで届くことはない。
ナイスネイチャのスタートダッシュと、それに追随するハイペースな出だし。
走っているウマ娘たちの中で、自分たちを客観視出来ている者は一人もいなかった。
今この時、先頭を走っているナイスネイチャ以外には。
「……ッ!」
闘争心に火が着いたナントーミストがすぐさまナイスネイチャを抜き去り、続けてアサギノコハクも前に出た。
更にサーザンスキーがナイスネイチャに並び、彼女を睨んで先へゆく。
ややペースの乱れた好スタート。そしてバ群がある程度伸び、走者の脳裏についた炎が鎮火し始める。
“またやられた”。ナイスネイチャの心理戦に引っかかった自らを恥じ入る気持ちを自覚する。しかしその反面、“トウカイテイオーがいれば”という思いを消しされないでもいる。
トウカイテイオーがいれば勝っていた。
もっと良いタイムが出る。
ここで勝てても“空き巣”扱い。
それは彼女たちが最近耳にする世間の声だった。
そして、なんとしても否定したい罵詈雑言でもある。
だからこそ、“止まれない”。
ペースを落とせない。遅くすれば無様なタイムを晒すことになるのではないかという恐怖心と敵愾心が、彼女たちの掛かりを長くした。
「テイオーなら、ここで抜け出してる……!」
「ッ……!」
「“ここだッ”……!」
「くっ……!」
それに加え、常にナイスネイチャからの囁きが耳に入る。
レースに集中しようとする彼女たちの前に“トウカイテイオー”の存在がちらつき、魂が過度な熱を帯びていく。
“トウカイテイオー”。それは彼女たちにとって絶対のライバル。
常に比較され続けてきた強敵。平静でいられるはずもない。
それは“トウカイテイオー”という言葉を使われずとも、ただの声真似だけでも翻弄されるほど。
「“遅い、菊花賞だなぁ”っ……!」
「違う……!」
コースを塞がれる。坂で抜かされる。レース中に合計六回あるコーナーも、ナイスネイチャの武器となる。
長距離故にペース配分を保たなければいけない。息を入れるべき場所では入れ、溜めるべき足は溜めなければならない。
3000メートルは難しいレースだ。それらは事前に作戦として練り上げられ、各々がよく練習し、頭の中に入れ、我が物としていたはずだった。
「はあ、はあっ……!」
その事前準備のほとんどが瓦解しつつある。
度重なるナイスネイチャの牽制と駆け引きにより、早い者では1000メートル時点で既に息を荒げていた。
「“このまま離され続けて負けちゃうんだね”?」
「……ッ! 私は……まだ、いけるッ!」
「あんたなんかにっ……!」
ナイスネイチャは常に煽り続けている。煽って煽って、ひたすらにバ群全体を焦らせてゆく。
彼女は“遅い”と嘯くが、現実は真逆だ。彼女たちのレースはかつてないハイペースで推移している。
そう思わせないのは“トウカイテイオーなら”という劣等感にも似た想いと、息を乱さずに走り続けるナイスネイチャを見て“問題ない”と判断している部分もあった。
「ふーッ……」
しかしナイスネイチャはゆっくりとペースを落とし、少しずつ後方へ下がり続けている。
息を落ち着けるように下がりながら、同時に後ろのウマ娘の進路を塞ぎつつ、ささやいて掛からせているのだ。
ペース配分と牽制と駆け引きを同時に行う彼女のレース技術は、もはや誰にも真似できず、理解すら難しい域に達しつつある。
「“テイオーの居ない、菊花賞”……」
「!」
「“どんぐりの背くらべ、みたいだね”……!」
リオナタールが無言で否定するかのように掛かる。
コーナーで加速した影を視界の隅で捉えたナントーミストが掛かる。
シガーブレードの進路が塞がれ前を躊躇う。
ブレスオウンダンスの息が荒れる。
アサギノコハクが完全にバテ、一気に垂れ込む。
サーザンスキーのスタミナが切れて一気に順位を下げる。
「まだ、まだぁ……!」
「言わせ、るかぁッ……!」
誰もが歯を食いしばる。闘争心が冷静さにまで延焼し、理性を燃やす。
燃えている間は強く輝くそれは、燃え尽きた後の悲惨さを考慮しない。
「……ッ」
ナイスネイチャは目まぐるしく移り変わる順位の中で、誰もが息を荒げるレースの中で、一人だけ。
たったの一人だけ、正気を保っていた。