デバフネイチャはキラキラが欲しい 作:ジェームズ・リッチマン
『次の日曜にナイスネイチャ君のレースがある。エアグルーヴ、彼女の様子を見てやってくれないか』
生徒会室での事務仕事が終わりかけた頃に、会長……シンボリルドルフはそう言った。
気付けば窓の外は暗い。ひとまず今日は区切りということだろう。
『ナイスネイチャ、ですか』
『ああ。何度か我々の仕事を手伝ってもらったこともあるだろう? この前のプールの備品点検もそうだった』
『ええもちろん覚えています』
ナイスネイチャというウマ娘が中等部に所属していることは私も知っている。要領が良く、賢い人物であることも。
後進の育成は欠かせない。当然、私は何度かナイスネイチャの事を気にかけていた。
だからこそ、彼女の戦績が奮わないことも聞き及んでいる。
『最近、ナイスネイチャ君は未勝利戦を突破した。次は一勝レースに出る予定らしい』
『なんと……それは知りませんでした。そうか、彼女がようやく……』
ナイスネイチャが勝利した。それは初耳だった。
トレセン学園内での仕事に忙殺され、情報が入ってこなかったようだ。
いや、しかし……何はともあれ、良かった。彼女もようやく、一歩目を踏み出せたのだな。
メイクデビューから時間が経つにつれて、周囲の友人達は次々に勝利をもぎ取っていく。未勝利のままという状態は、人が思うよりずっと重く苦しいものであったはず。事実、ここトレセン学園でも気に病むウマ娘は後を絶たない。
未勝利戦を抜け出せば、随分と気持ちも落ち着くはずだ。
しかし、何故私に見に行けというのだろうか。
会長も個人的に贔屓にしているウマ娘はいるが、私に観戦を勧めるようなことは今までなかったはず。
『たまにでいい。ナイスネイチャ君を気にかけてやってくれないか。あの子のレースを見れば……エアグルーヴ。君にもその理由がわかるはずだ』
会長は窓の側で、夜のターフを眺めている。
『百術千慮……私も直接見たわけではなかったが……彼女の走りは、実に面白かった』
私は中央から離れたレース場にやってきた。
年中行事にも一定の目処がつき、生徒会の仕事も落ち着いた。羽を休めるつもりで足を運ぶには丁度いいタイミングだった。
一勝レースは各地で行われている。人入りは少なく、当然重賞ほど賑やかでもない。
足を運ぶのは出走するウマ娘の関係者か、散歩感覚でやってくる近隣住民たちだろう。
トレセン近郊で行われているレースとは雲泥の差がある観客数に、中央と地方の格差を実感した。この状況が歯痒くも、私個人でどうすることもできないことが悔やまれる。
「おいっすー! どもー! ナイスネイチャでーす!」
時折フラッシュの焚かれるパドックに近付くのがなんとなく億劫で、私はそれを遠目から窺っていた。
彼女、ナイスネイチャはステージの上で笑顔を振り撒き、ポーズを決めていた。
それは、なんとなく私のイメージするナイスネイチャとは違った。
あまり私も個人的に交流することはないのだが、しかし……彼女はどことなく大人びていて、一歩引いて目立たないのを好むタイプの性格ではなかったか。
一勝して気が大きくなったのだろうか。それとも知り合いが大勢来ているのか。だが観客からは仲間内からの囃し立てるような声が聞こえるわけでもない。ナイスネイチャ自身も、観客に目を向けているようで向けていない。
結局、ちぐはぐな印象を残したまま彼女はパドックの奥へと消えた。
彼女は私に気付いた様子もなかった。
レースが始まった。
固唾を呑んで見守るという関係でもない。私は少々気を抜いて、その開始を待っていた。
ハッとしたのは、開始と同時に飛び出したナイスネイチャを見たからだ。
彼女は華麗なスタートを決めると同時に、何かを叫んでいた。近くのゲートからはウマ娘達が出遅れ、ナイスネイチャの有利が決定的なものとなる。
「いいスタートだな。しかし、あれは……」
レースそのものは凡庸だと思った。一勝レースらしい初々しい走り。全員が多少前を急ぎ……そこまで考えたところで、首をひねる。
いや。速い。これではかなりのハイペースだ。これはマイルでも短距離でもないはず。
だというのに……先頭をいくナイスネイチャは、速い。
それに釣られるようにして、先頭集団全体が掛かり気味になっていた。
「落ち着け、そのままでは持たないぞ……」
私がペットボトルを握りしめた直後、まるでこちらの思念が伝わったかのようにナイスネイチャがペースを落とす。
段々と落ちる。スタミナ切れにしては速い。落ち着いたのか。
……しかし、牽引した距離は長かった。ここに至って、全体の速さはそう易々と変わらない。
ナイスネイチャが沈んでも、ウマ娘達は引き際を見失ったように足を速めたままだ。
既視感があった。この序盤の焦燥感、牽制は……。
「……ん?」
よく見ると、ナイスネイチャの口元が動いていた。
呼吸ではない。それだけでなく、明確に何かを喋っている。
……驚くべきことに彼女は、レース中に言葉を発していた。
だが走りは疎かになることもなく、コーナーでは華麗に曲がり、息を入れていた。坂での足運びも抜群に上手い。
それでありながら、口元はお喋りに興じているかのように動き、両目はレース全体を観察するように忙しなく動いていた。
何かをしている。一体何を?
「まさか……挑発か?」
ナイスネイチャに何度も並んでいたウマ娘が自棄を起こしたように早すぎるスパートに入った。
表情には苛立ちと、抜き去ったことによる勝ち誇った余裕が見て取れた。
だが、あのペースでは持つまい。私から見て前方集団のほとんどは壊滅的。
……間違いない。彼女は言葉巧みに相手を挑発し、掛からせたのだ。
「……不思議な走りをする。巧く、器用で……だが、速くはない」
ナイスネイチャは不思議な走りをした。
コースの要所で加速と減速を繰り返し、結果としてレース全体で揺れ動くように進んでいる。絶え間なく動く口元と相まって、まるで走り慣れた者が力を抜いて流しているような、そんな軽薄な印象すら受けた。
だが、きっと違うのだろう。
彼女は本気で走っている。力を抜いているように見えるのも要所での加速技術によって山があるだけで、なだらかな直線ではむしろ苦手とするように必死そうな顔を見せていた。
速度は……ない。彼女には卓越した豪脚も、凄みもない。
だがそれでも本気だった。最後の直線間際で一気に先頭集団を抜き去る彼女の鋭い眼光には、ただただこのレースに投じた魂の片鱗のようなものを感じられた。
「なるほど……これが、ナイスネイチャの走り、か」
彼女は最後の一人と並んだ際にも何かをささやいて、そのまま盗むように一着をもぎ取ってみせた。
最後の最後まで競り合ったせいか観客の反応は悪くない。だが、レース全体としてペースが崩れたのを疑問に思っているような顔つきもあった。
……会長が気にかけてほしいと言った理由が理解できた。
ナイスネイチャ。彼女の走りは本当に面白い。
レース中にいくつもの仕掛けを施し、牽制し、駆け引きし、焦らせ、躊躇わせ……勝利する。誰もが持ち前の脚に全てを託す中で、彼女だけは脚だけでなく、全身を使って無数の技を駆使していたのだ。
走りながらの挑発。睨み。私はそれを卑怯なこととは思わない。その程度のやり取りなど、レース中いくらでもあるからだ。
だが、ナイスネイチャのようにさまざまな手を一度に使う者は多くない。いや、存在しない。
存在しないのはルールに違反しているからでも、マナーに反するからでもない。
きっと、誰もそれら全てを一度に使いこなせないだけなのだ。
ナイスネイチャは様々な小手先を一つのレースの中で幾度も利用した。
……小手先。小細工。いや、これほどの駆け引きをこなすのは、もはや……。
「……ふふ。面白い奴だ。彼女のことは、よく見ておくことにしよう」
思いの外、良いレースだった。
それに、彼女の走りの中にはどこか……皇帝の薫陶を感じた。
会長がテイオー以外を贔屓にするなど珍しいことだが、レースを見ればその気持ちもわかる。
最初は笑いの波長が合っているから気にかけているのかと邪推してしまったが、うむ。これは反省しなければなるまい。
しかしナイスネイチャ……きっとその道は、修羅の道だぞ。