ミトに至る倒錯   作:氷の泥

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※お知らせ
 前話の描写にミスがあったので修正しました。
 修正内容……絹川ヨルの持参する水筒を肩掛けタイプにしました。


10 バーサーカー

 全ての準備を終えていつでも家を出られるようにしたし、出発時間が来るまではのんびりしていよう。……と考えていると、遅刻しそうになることがある。高校生にもなって、己の行動速度を正確に把握しきれていないのだ。

 しかしこと登校においては、少し前からその手の遅刻を一切心配せずに済むようになった。五分前行動などというレベルではなく、かなり余裕を持った時間に砂切が現れるようになったから。

 ピンポーンと、今日もいつも通りの時間にインターホンが鳴る。私はドタバタと自宅の階段を駆け下りていく。

「じゃあお母さん行ってきます!」

 荷物は持った。靴を履いて、鍵を回して、いつも通り扉を開く。そしていつもと同じように玄関先に立つ砂切と目が合うと、私はたしかにこの耳で、彼の「ぷふっ」という笑い声を聞いた。バナナの皮で転んだ人を見たかのような、突発的なおかしさに対する笑いを。

「何か……?」

「え、いや、ううん、なんでもないけど」

 彼が何に対して笑ったのかは、言われなくても分かる。私だって毎年鏡の前に立ってその装備品を見るたびに、絵面が面白いなと感じるのだから。

 小学生が持っていくような肩掛けの水筒を、私の場合は二刀流。エックスの字を描いて持参する。暦は七月に突入して夏本番、ただ歩いているだけで全身汗だくになりかねない季節。それは念には念を入れて水分を多めに持っていこうという、自分の命に関わるストレスさえ感知できない女の苦肉の策であった。

 しかし私だって、お笑いがふざけた状況にだけあるものではないことは知っている。葬式の最中だって笑える物は笑えるように。

「面白いでしょ、これ。必需品なんだよ」

 二本の水筒の紐を持ち上げてその場で一回転する。水筒が遠心力で私を中心に舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 それが救いを求める者の手の動きなのか、朝の教室で砂切の両手はふらふらと空中をさまよっていた。まるでしがみつく物を探すみたいに。

「絹川さんごめん、ごめん……」

「いや、だから怒ってないんだってば」

 登校の道すがら「なんで水筒二刀流?」という話題が持ち上がった。

 私が自分の水分補給事情を素直に話すと、その時点で砂切の顔色がみるみるうちに悪くなっていった。けれど彼はそこで引くことを選んでくれなかった。たぶん良心で、可能な限りのアドバイスをしてくれたのだろう。

「二本持っていくにしても、せめて一本くらいはカバンの中に入れていけばいいのでは……?」

 と彼が言ってきた時、私は返答に迷った。

 自分の考えをバカ正直に話してしまえば、彼がショックを受けることは容易に想像できた。「だってこの方が面白いでしょ?」と二本の水筒を持ち上げて見せた方が、きっとこの場は平和に収まる、そう確信していたのだけれど、私は私で、迷った末にどうしてもそれが出来なかった。

 私は面白さを追い求めて行動できる人間じゃない。「その方が面白いから」という行動動機は大嘘だし、その嘘はいずれバレるかもしれない。私は、「砂切のために嘘をつく」ということを選択できなかった。水筒はこれからしばらくずっと持っていく物でもあるし、その場しのぎをして後々ボロが出ることは避けたいと思ってしまった。絶対に嘘を貫き通す……という覚悟は決められなかったのだ。

「怖いんだよね」

「怖い?」

「危惧しているって言った方が正確かな。私、昔は砂切くんと同じで折りたたみ傘をカバンに入れてたんだけどね、小学生の頃」

「うん」

「それで予報外れの大雨が降った時に、カバンの中の傘の存在を忘れて、そのまま濡れて帰っちゃったことがあって……。例の能力のせいで、濡れることを嫌だって感じる心がなかったから」

「うん」

「傘の存在を忘れて濡れるくらいならまぁいいけど、……飲み物の存在を忘れて熱中症で倒れたりしたら、大事でしょ? だから出来るだけ肌身離さず、見える場所に持っておきたいんだよね」

 ……それを聞き終えた砂切の顔が青ざめきっていたことは、言うまでもない。彼は今朝玄関から出てきた私を笑ってしまったのだ。不可抗力で。

 しかし彼のその顔色の悪さは、教室に着いてもなお回復していなかった。もう何回も「怒ってないよ」「いいよ」と言っているのに。

「なんて謝ったらいいのか……」

「怒ってないんだけどね」

「怒ってよ!」

「えぇ?」

「こっちの気持ちも知らないでって、怒ってよ……」 

 砂切がたったこれだけのことで何をそんなに落ち込んでいるのか、残念ながら私には理解することが出来なかった。確かに彼は私の抱える事情にまで頭が回らなかったのだろうけど、それの何がそんなに悪いのかが分からない。そんなことにすぐ気が付ける方がすごすぎるし、何より私が「いいよ」って言っているのに。

「……こ、こらー。こっちの気も知らないでー。激おこだぞっ」

「……本当に怒ってないんだね」

「うん」

 怒る理由がないから、怒ってない。砂切は私に悪意を向けたわけでもなければ、礼儀に欠けていたわけでもないから。

 ストレスとしては「怒り」だけを感じると言われれば、それが象徴的に聞こえてしまうことは分かる。けれど他のストレスがなくたって、私の持ち得る「怒り」は他の人の怒りとそう変わらないのだ。今の砂切に対して怒るとしたら、普通に考えてその人は鬼だろう。

「逆に砂切くんは」

「うん」

「私がうっかり、その、……今回と逆みたいなことをしてしまったら」

「逆みたいなこと?」

 傷つけてしまったら、という言い回しを使うことが出来なかった。それ自体この場で彼を傷つけてしまいそうだし、実際の私はこれっぽっちも傷ついていないし。

「砂切くんが理由を持ってしていることに、そうとは知らずにうっかり言ってしまったことがあったりしたら。その時は私のこと、怒って許してくれない……?」

「それは許すに決まってるじゃん!」

 勢いよく、彼は言い切った。罪悪感に苛まれていた表情も、その一瞬で無事消し飛んでくれる。

「私も砂切くんのこと許してるよ」

「……ありがとう」

「いえいえ」

 むしろそれこそが、私の得意分野であるように思う。

 思うに、人が人を簡単に許すことが出来ない時は、怒りの激しさのせいでそうなっているわけではない。もっと別の負の感情が許すことを妨げているのだ。その「別の負の感情」が、私にはいつだって存在しない。だから人を許すことは得意だ。

 ……と、まるで自分が常に「許す側」であるかのように、この時は思っていた。夏の魔物か、言霊の力か、高校一年のある七月の日…………私と砂切は試されることになる。私の手が救いを求めてさまよい、「許すに決まってる」という砂切の言葉にしがみつくしかなくなる時が来る。

 まず、それは家庭科の授業で起こったことだった。理科と同じように、今回の家庭科は別室(つまり家庭科室)にて行う物だった。

 前に立った先生が今回の授業についての説明をする間、生徒たちは誰一人として言葉を発さなかった。質問もリアクションもない。そしてたった一度の説明が終わったことで、機械の駆動するギコギコという音が、一つまた一つと連鎖的に広がっていった。まさかみんな、一度の説明で十分に理解できたとでもいうのだろうか。

 隣に座った砂切が、私の顔をのぞき込む。

「絹川さん……? どうかした……?」

「……いや」

 私は、目の前の電動ミシンに圧倒されていた。

 ミシンを使うこと自体は初めてじゃない。小中学校の間にもそれを使う授業はあった。……当時、終わらなかった人は残りを宿題ねという段取りになって、最終的には全て常日さんに任せることになってしまったけれど。

 またか……、という気持ちになる。別に上手くできないことはいい、それを恥じらえるだけの心もない。けれどそれとは別に、このミシンという機械は私に、ゲームよりよほど強靭な集中力を要求してくるのだ。

 初めてゴーカートに乗った時のことを思い出す。真っ先に考えたのは「楽しい」ではなく、これでなんらかの事故を起こしてしまったらどうなるのだろうということだった。怖くはなくても、それくらいのパワーを感じたのだ。そういう意味で、ミシンはゴーカートに似ている。

「もしかしてこういうの苦手?」

「うん。すごく苦手」

 家庭科の、今日から数日に渡って続くであろう一連の授業。それはさっき説明を聞いた通り、ミシンで縫い物をすることでペットボトルカバーを作ろうという内容らしかった。エプロンだの手提げ袋だのを作っていた時代を思えば、急に小洒落たアイテムをチョイスしてきたものである。難しくなりそうだから小洒落ないでほしい。

「砂切くんは得意?」

「僕もあんまり。こういうのはあれが一番楽しかったなぁ、カップ麺の容器と割り箸でマフラー作るやつ」

「え、なにそれ」

「あれ、知らない?」

 当然知っている体で話してきたということは、小中学校の授業で体験したということだろうか? 砂切が何駅離れたところからここまで通っているのか、そういえば私はまだ知らない。彼から感じるローカル性がそれを思い出させた。 

「私、本当にこういうのダメな人だから、笑う準備をしておいて」

「笑わないよー」

 そう言う砂切からは、あまり得意ではないと言うわりに底知れない余裕を感じる。何かが苦手な人にとって、いわゆる「普通の人」とはそう見えるものなのかもしれない。

 とりあえず、糸をセットしたりという下準備的な段階だけは、教科書とにらめっこしながらクリアすることが出来た。問題はそのあとだ。その後に私のもっとも苦手とする「一定のスピードでゆっくりと縫う」という行程がある。

 音ゲーが苦手なこととどこか共通していることがあるように思うのだけれど、人間には「一定かつゆっくりとした動作」を続けることがどうも可能らしいということが、私には信じられない。その手の作業では必ずどこかでズレが出る。そして私の場合はそのズレが大きい。集中して集中してやっていたはずなのに、縫い目の間隔があまりにもバラバラな完成品を見て、「無理だ」と思ったことは一度や二度ではない。そして常日さんの手際を見て「ほらね」と思ったりもするのだ。

「はぁ……」

 ギコギコギコギコ…………教室にはミシンの動く音ばかりが充満する。ふと隣を見ると、砂切も無言で作業に取り組んでいた。真剣ではあるが必死ではないその表情に羨ましさを覚える。あと一時間近く、どう頑張っても不出来だと分かっている作業を続けるとなると、それなりに気が重かった。ストレスを感じない人間にだって、「つらい」はなくても「楽しくない」はある。楽しさ、喜び、快感……そういった物は、当然、そこに無ければ無いのだから。

 黙々と、ただ雑草をむしるように、心を無にしてミシンに敷いた布を押し進めていく。機械音ばかりの教室は、単なる静寂よりも孤独感を演出するものだった。仮に私が「楽しくない!」と叫んだとして、「実は私も!」「俺も!」という言葉が返ってくる可能性は、静寂の中にある分の方がまだ多い気がする。

 どうせ上手く出来ないし、上手く出来ないくせに時間だけはかかるし、終わらなくて宿題になるし、そうなったら常日さんに丸投げすることになるし……。あーあ、早くこの授業終わらないかなぁ……と思わず時計を眺めた時だった。

「あぶない!」

 キーンと鼓膜に響く声がして、反射的に手を止める。その瞬間、右手の指先に今までとは違う金属の感触がして、あぁこれはまずいと思った。

 ミシンを止めて、まずは隣を見る。戦慄の表情で口をパクパクとさせる砂切が、ゲームセンターでゾンビを見た時よりもよほど深刻な怯えを見せていた。

 続いて手元に視線を移す。……するとそこには、まぁ、思っていたよりはマシな量の、血液があった。ミシンの針の直下で、指や布がほんの数滴だけ赤い。

「あー……」

 油断した。ゴーカートで事故を起こすとどうなるのかは知らないが、ミシンの場合は知ってしまった。

 危ない、と私を止めてくれたのは砂切の声だった。そして彼の声はこの教室の中の「時」も止めた。ここにいる全ての人間が私たちの方を向いて、凍り付いた顔でリアクションに困っている。

「すいません、保健室行ってきます」

 そうするしかないだろうと思って席を立つと、ガクンと指が引っかかってよろめいた。何事かと思ってよく確認すると、これは…………指に糸が通っている? まぁ布に糸を通して縫うための道具なんだからそうもなるか……と、私はその日、そこで二度目のミスを犯した。

 本当に、本当に無意識に、服やタオルのほつれた糸を引きちぎってなかったことにしてしまう時みたいに、何も考えずにぐいっと力任せにそれを引いたのだ。……ぶちぶちと聞いたことのない音が聞こえた気がした。

 指先から新しい血が数滴飛び散る。自由になった自分の指の有様を見た瞬間、身をかがめて咄嗟にそれを隠した。砂切には絶対に見せられないと思った。

「保健室行ってきます!」

 もう一度言って、「どうぞ」の声を待つ間もなく家庭科室を飛び出る。もうミシンの動く音は聞こえてこなかった。

 家庭科室は三階に、保健室は一階にある。階段を駆け下りながら、私は保健の先生が不在だったらどうしようと考えたけれど、それは杞憂だった。怪我した指を背中に隠して、保健室の引き戸を開く。そしてそこで保健の先生の顔を見た瞬間に、今度は「これからどうなるのだろう」という疑問が頭に浮かんだ。自分の起こしたことが「大事」だということを、次第に理解してきている証拠だった。

「せ、先生、大変なことになってしまいました」

 その人の顔と声を知ったのは、新入生に向かって教職員一同が自己紹介をした時のこと。今までそれ以外の接点は一つもなく、話すのは初めての保健の先生。その人は若く、美人で、韓国あたりの女性アイドルを連想させるような容姿をしていた。およそ「学校」というイメージからは外れている。

「どうしたの?」

 と、やわらかな口調を作ってはいるが、察しの良い視線が、私が背中に隠している物に注目しているようだった。

「これなんですけど……」

 それなりにショッキングな物となってしまった指を見せる。

 ミシンの針は運良く一ミリの差で爪を躱したようだったが、その横の肉を突き刺したらしい。それにより縫われた指を、無理やり引っ張って動かそうとした結果、爪の横のほんの数ミリの肉がちぎれ、鮮明な赤がまだ内側から出てこようとしている。

「あらら……。どうしたのこれ」

「ミシンでこう、グサーっと。家庭科の授業で」

「あらあらあらあら……。痛かった?」

「いや、全然。……先生?」

 そのあたりで、違和感を覚えた。

 何一つ治療器具の類を出そうとしないまま、病院等のどこへも連絡しようとしないまま、落ち着き払った調子でその保健医は丸イスに座っている。まるで手紙を渡しにきただけの生徒を出迎えるみたいに、彼女は何をしようともせずただ喋っている。

「本当に痛くなかった?」

「はい」

「本当の本当の本当の本当?」

「誓って本当ですけど……何なんですか?」

 早くなんとかしてくれよと焦るような気持ちは、確かに私にはないけれど。私が別に構わないことと、先生の様子がおかしいことの問題は、別ではないか……?

 そよ風が保健室のカーテンを揺らす。風に膨らむカーテンに気付いた先生が、立ち上がって一つ一つ窓を閉めていった。

「わたしの能力ね、痛みと引き換えに怪我を治す物なの」

「え?」

「その「痛み」っていうのが、あなたが怪我をした瞬間に感じた痛みの倍になるから、ちゃんと聞いておきたいのよ。……あんまり強い痛みは人を殺すからね」

「……なるほど」

 そういうことならと、近くにあったパイプ椅子に腰かける。全ての窓を閉め終えた先生が、最後に私が開けっ放しにしていた出入り口の扉を閉めてから、右手の指をわしわしと動かして見せた。

「治したいから、今からその指、思い切り掴んでいい?」

「どうぞ」

 返事を聞くが早いか、本当に思い切り無遠慮な力で人差し指を握られる。私だから、当然痛みは感じない。

「……本当に痛くないのね」

 心底つまらなさそうにそう言って、彼女は手を離した。

 ……時間を巻き戻したみたいに、私の指は綺麗に元通りとなっていた。

「えっ、すご。ありがとうございます」

「いえいえ。ところであなた、クラスと名前は?」

「一年A組、絹川ヨルです。生まれつきの能力で、痛みを感じません」

「痛みを? はぁ、なるほど。……じゃあまぁ、授業に戻りなさい」

「はい。ありがとうございました」

 右手の人差し指で扉を開き、同じ指で閉める。感触、動き、何一つ問題はなかった。

「わっ」

 階段へ向かおうと振り返ったら、すぐ傍に家庭科の先生が立っていた。私が飛び出して行ってからしばらくして我に返って、追いかけてきてくれたらしい。

 私は先生に自分の能力と保健室であったことを話して、一応の状況説明を果たした。先生は私を叱らなかった。意図的にそうしたというよりは、呆気に取られていただけなのかもしれないけれど。

 私が先生と共に階段を上って家庭科室に戻る頃には、外からでも分かるくらいまたギコギコギコと、機械の動く音がこだましていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 授業が終わり次第、私は砂切に頭を下げる。それはつまり昼休みの、家庭科室から出て教室に戻る最中の廊下でのことだった。

「えっ、な、なに……?」

「見たくない物を見せてしまいました」

 ミシンの一件で、一つ分かったことがある。……おそらく砂切は血が苦手だということ。

 あぶない! という砂切の声が、鼓膜に焼き付いている。悲痛なそれはもはや悲鳴だった。私が彼に悲鳴を上げさせてしまった。その上、痛みの分かる人間なら絶対にしないミスばかり犯して、彼に苦手な物を見せてしまった。

「えっ……? どういうこと……?」

「砂切くん、私が怪我するところ見たくなかったでしょ……?」

 ウッ、と、砂切が喉に言葉のつっかえたような顔をする。

「あ、当たり前でしょっ!?」

「ごめんなさい」

「いや、ごめんって、絹川さんが悪いわけじゃないよ……。事故だから」

「私がぼーっとしてたから……」

「事故は事故だよ。……お昼食べよう?」

 私の手を引いて、砂切が階段を下りていく。……彼に握られた手は左手だった。

 教室に戻ってきたら机をくっつけて、私は購買へ何かしら買いに出かける。弁当を持ってくる人が結構多いのか、あまり混むことはなかったのですぐに戻ってこられた。おにぎりやパンにも飽きてきたので、今日は一際目を引いたカレーライスを買ってきた。

「いただきます」

「いただきます」

 お姉さんが作ってくれたという弁当箱を開け、白く短い箸で小さいハンバーグのような物を掴み、それを口に入れてから米にも箸を伸ばす砂切。ひとしきり咀嚼し終えて飲み込むと、彼は水筒からコップ状のフタにお茶を注ぎ、それをぐいっと飲んで…………空いたコップを勢いよく机に叩きつけるように置いた。

「心臓止まるかと思ったよ!」

「え」

「は、針が、血が、だってさ、絹川さん、見たことある? あんなさぁ、指に針が、糸が……」

「ごめんなさい……」

「いいよ! 許します」

 数分の間に気持ちに整理をつけてくれたのか、それとも後から考え直すとピリピリしてくるタイプなのか。……とにかくその時になってようやく、いつもの砂切と素直な反応が戻ってきてくれた気がした。

 考えてみれば、確かに彼の見た光景は恐ろしかっただろう。集中力の切れ目に作業を一度止めて、ふと隣の彼女へ目を向けてみれば、ぼけーっと時計を眺める私とその人差し指に迫る針……。私だって立場が逆なら肝が冷える。

「許すけど、本当に気を付けてね……?」

「はい、気を付けます」

「本当にだからね?」

「はい……」

 砂切は今日という日に初めて、「ようやく」というよりは「ついに」、痛みを知らない人間とはどういったものなのか……ということを知ってしまったようだった。彼の目を見れば分かる。少しでも油断すればまたやるだろうと、気が気じゃなく思われていることが。

「あの、砂切くん」

「うん?」

「……怒ってる?」

 箸を止めて、彼が弁当箱に視線を落としたまま停止する。ミシンをかける時のような、真剣その物の表情で、……答えに迷っているようだった。

「怒ってな……………………る、かも。でもごめんって言われたから、いいよって言った」

「なるほど……」

 複雑な心境のようだった。私だって砂切に不注意で怪我をされたら、心配することと同じくらい怒ってしまうかもしれない。君には痛みがあるんだから気をつけなさいよ……と。

 何かを失敗してしまった人の気持ちはこれかと、今朝の謝り倒しだった砂切のことを思い出す。私はずっと、人を許せないのは「怒り以外」の負の感情があるからだと思ってはいたけれど、実際に砂切の中からそれを感じ取ってみると、確かに簡単には許してもらえないだろうなぁと改めて理解出来てしまう。「心配」とか「不安」とか、そういった物を彼の中から感じる。そしてそれらはもうきっと根を深いところまで張ってしまった。

 今朝の砂切はそれと同じように、私の中から悲しみを感じ取っていたからこそ、あんなに申し訳なさそうにしていたのだろうか。そして途中で、その「感じ取り」が気のせいだったことに気付いたと。……そんな気のせいを起こすのは、きっと彼が傷つきやすい人間だからだ。私と違って、砂切は悲しみを体感的に知っているから、人に優しくなれるのではないか? だとすれば、その彼に醜態をさらした私の罪は重い。

 もう絶対にしない。二度と、砂切を不安になんかさせるものか。そう意気込んでさっそく、午後の国語の授業を受けていた私は、恐ろしい悲鳴を聞いた。

「キャー!」

 という女性の悲鳴を聞いた瞬間、私は思わず自分の指を確認してしまった。当然怪我一つなく、血も出ていない。

 では悲鳴は何だったのかというと、原因はガタッと音を立てて立ち上がった女生徒の視線の先にあった。教室中の生徒、国語の先生、全員がその視線の先へ目をやる。そして視力の良い人と近くにいた人だけが事情を理解した。私は後者だった。

 夏の黒い刺客が、生命力の強いことで有名な虫が、いつの間にか教室に入り込んでいたのだ。

「Gか……」

 呟くと、がしっと隣から肩を掴まれた。その震える手にはかなり力がこもっていたけれど、それで本当に渾身だというならそれにしては貧弱な握力だった。

 椅子に座ったままもたれかかるような形で、砂切が私にしがみついてカタカタと震えていた。人間の死体でも見るような目で、彼は害虫の方を見下ろしている。

「苦手なの?」

 コクコクコクッと微振動のような頷きが返される。どうやら相当苦手らしい。もしも奴がこっちに向かってカサカサ走って来たら、本当に泡でも吹いて倒れてしまいそうなくらいに。

 ここは一つ適材適所ということで、午前中の失態を取り返す意味でも、彼のことを助けてあげようと私は意気込んだ。

「俺が」

「私がやります」

 立ち上がったタイミングが、いかにも野球部といった感じの坊主頭の男子生徒と完全に被った。その瞬間、なぜかクラス中の人間が私の方を見てくる。一人残らず、野球部男子の方ではなく私の方を見てくる。

 その視線に含まれているものは明らかに「畏怖」だった。自ら立ち上がった男子でさえ、同じ目で私を見ている。私は、……そこで一種の懐かしさにとらわれた。小学生の頃も中学生の頃も、こんなことが一度はあったのだ。

 彼ら彼女らの畏怖は、私の持つ天然の目つきの悪さに加えて、さっきのミシン事件に由来するものだろう。すでに私に対して「やばい奴」のイメージが出来上がっていて、そのやばい奴が再び目立とうとしていることに、直感的な恐れを抱いているのだ。……しかし、砂切だけは違う。ふと視線を向けてみれば、彼だけは私のことを、不思議と不安が混ざった目で見ていた。そこに恐怖はない。ただ「何をするの……?」と問いかけてくる意思があるだけだ。

 Gを発見して飛び退くように立ち上がった女生徒が、私が近づくことでさらに数歩後ずさる。一方で、Gの方はその場からまったく動かなかった。一瞬死んでいるのではないかと思うほどだったけれど、よく見ると触角がゆらゆらと蠢いている。

 ……と、その時。遠い過去から、常日さんの言葉がよみがえった。

 

 

 

 ちりとりで死骸を片付け終えた常日さんが、幼き日の私に言った。

「ヨルちゃん、いい? Gみたいな大きい虫をやっつける時はね、絶対に武器を使わなきゃダメ。手で叩くとか、足で踏むとか、そういうのは絶対やっちゃダメなの。ヨルちゃんは大丈夫かもしれないけど、まわりにいる人が絶対に、絶っっっっ対にドン引きするからね? わかった?」

 しゃがみこんで視線を合わせて、彼女はにこやかに細めたままの目でそう私に言い聞かせてくれた。けれど当時まだ生意気だった私は、せっかく「普通の人間」を教えてくれた常日さんに、生意気な反論をしてしまったのだ。

「でも常日さんは、ドン引きしてないよね?」

 ……その時の彼女の顔を、私は一生忘れない。笑顔の仮面がはがれて、真顔の常日エミを初めて見た時のことを。

「……してないと思うんだ」

 初めてまともに見た彼女の瞳は、その深すぎる黒は、深淵だった。恐怖を感じる心はなくても、まだ幼い子どもの心でも、咄嗟に死を連想させられた。……あぁ、この人は、私を含めた「人間」がみんな嫌いなんだ……。本気でそう思って、怖いとは思わなかったはずなのに、確かに声が震えた。

「ごめんなさい。もうしません」

「うん。よかった。いい子だね〜」

 再び微笑んで私の頭をなでてくれた常日さんは、普段の優しいお姉さんに戻っていた。思わず、一瞬前に見たものは悪い夢だったのかと考えてしまったけれど、自分の中の本能的な何かが、二度と彼女を怒らせるなと警鐘を鳴らしていた。

 

 

 

 ……ありがとう常日さん、危ないところだった。

 私は身をひるがえし、自分の持ち物に何か武器になりそうな物はないかと目で探す。筆箱は「箱」というか「袋」だからふにゃふにゃしすぎていてダメ。定規は15センチしかないから武器にするには短すぎる。教科書は新聞紙のようには丸められないし、あと他に候補は……。

「……これでいいか」

 最終的に武器として手に取った物は、ロッカーの上に置いてあった水筒だった。もちろん自分の物である。棒状の武器に比べれば扱いづらいけれど、敵は地べたに這っている。きっとスタンプの要領で底面を振り下ろせばなんとかなるだろう。

 それを持って、ゆっくりとゆっくりと目標に接近する。ソイツは本当に動かないやつだった。射程圏内に入り、しゃがみ、振りかぶり、私はその獲物を振り下ろす!

 ガツンッ、と硬い物が木の床に当たる音がした。水筒を強く握りしめているので、うっかり落としてしまった時なんかに比べればそんなに音は響かない。逃げられたとは思わなかったけれど、一応ちゃんと底面を上げて確認した。

 スタンプという例えが、まさに最適だったなぁと思った。

「倒しました」

 しゃがみこんだまま、とりあえずは先生に報告する。……その先生の表情を見て、嫌な予感がした。

 そうすることで祈りでも捧げるかのように、私はゆっっっくりとその場で立ち上がる。そして周辺の人間の表情を見渡す。……大体の人が、先生と同じ顔をしていた。

 私はすぐに悟る。何がいけなかったのかは分からないけれど、少なくともまた「失敗」してしまったようだと。

 砂切の方を見ると、彼もまた目を点にしていた。あり得ない、信じられないとでも言う風に。……もちろん悪い意味で。

「…………ごめんなさい」

 考えるより先に、自分の口から出る言葉。その声はよく通ったはずなのに、砂切からも、誰からも、一切の返事はなかった。

 窓の外はうだるような暑さの夏。エアコンによる快適さを確保した七月の教室には、遠くで鳴いているセミの声さえ聞こえるような、息の根も止まるくらいの静寂が広がった。

 

 

 

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