ミトに至る倒錯   作:氷の泥

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11 お嬢様の藁にも縋る夏 前編

 放課後、二つの水筒をエックス字にぶらさげて、まだ涼しさの行き届き切っていない部室へ赴く。毎朝A組の教室ですることと同じように、机のフックへカバンをかける。砂切とはそこに至るまでの間、業務連絡的なことを一言二言交わしたものの、普段と比べて明らかに会話量は少なかった。やらかしてしまったという意識が、私にそうさせた部分が大きい。

 一時間ほど前、害虫をぺちゃんこにした後のこと。砂切が私の手の中にあった水筒を指さして言っていた。

「それ、どうするの……?」

 どうするっていうのは、どういう意味だ……? と私は思った。そこに何らかの痕跡が残っていたとしても、ささっと洗えばいいだけじゃないかと。そしてその考えを口に出す前に、「本当にそれで済むなら「どうするの」とは言わないのではないか?」ということに思い至って、返事をすることが出来なくなってしまった。……まぁ普通に洗ったんだけど。というかほぼ汚れてなかったし。

 しかし何にしても、私はたった一日のうちに、砂切に私という人間の欠点を二つも教えてしまったことになる。朝方、私は彼に「君を傷つけてしまっても許してくれるか」と聞いたけれど、相手を傷つける以外の方法でこういう空気になるケースがあるとは知らなかった。

 部室の中で私たちは、二人で横に並んで座り、無人の席と向かい合いながら、正面ばかり見据えている。

「砂切くん」

「なに?」

「……私は、どうすればよかったの?」

 机の上の、二本の水筒を見つめながら聞く。何が悪いのかも分かっていないのかと、彼は怒るだろうか。

 常日さんの顔が思い浮かぶ。あの人は私が何をしても必ず笑顔で、「次からはこうしようね」と教えてくれる人だった。優しかった。……でも常日エミは、見るからに相当特殊な人間だ。

「たぶんだけどね、絹川さん」

「うん」

 それから砂切が口にした言葉は、その都度思考を挟み込んだように途切れ途切れな物だった。

「あの時の絹川さんに、何か、正解のような物があったんだとしたら……。……たぶんそれは、先生とかに、叩くものとかないですか? って聞いたりすることだったんじゃないかな……って思う」

「あぁ」

「水筒は普通、ああいう時の武器にはしないと思うから」

「……あぁっ! そういうことか!」

 突然、脳細胞同士が稲妻のように鋭い回路で繋がって、私は全てを理解した。

 害虫を叩き潰す時、よく使われる物は新聞紙であると知っている。私はそれを「扱いやすいから」だと思っていた。けれど違ったんだ、新聞紙を武器にする理由は、「捨てられるから」だったんだ。武器に使った物は本当なら捨てなければならないんだ。そうに違いない。

「分かったよ、砂切、私にも理解できた」

「うん。よかった」

「ごめんね、こんな、そんなことも分からない人間で」

 理解を起こしたことによる快感がそう思わせたのか、なんだか砂切にも許してもらえるような気がして、私は水筒から目を離して彼の方を向いた。

 ……砂切は今朝と同じくらい、見るからに落ち込んでいた。

「僕の方こそごめん……」

「えっ」

「絹川さんが善意でやってくれたって、分かってたはずなのに……」

 ……懺悔だ、と思った。

 私たち二人以外の人間は存在しない部屋の中で、今日は偶然カーテンも閉め切られていた部屋の中で、彼の口からこぼれたそれは、懺悔の言葉であると思われた。

「ありがとうって言えなかった。大丈夫?って言えなかった。絹川さんが怪我してるところ見るだけで怖かったのに、痛いって泣かれてたら絶対もっと怖かったって分かるのに、僕昼休みの時になんて言ってた……? 怪我したの見た時、治った時でも、大丈夫……?って言えなかった。心配しなきゃいけないのに、出来なかった、怖くて、絹川さんごめんなさい」

「えっ、ど、どうした一体。一回落ち着いて」

 目の前の砂切はもう、ただ泣いていないだけの人になっていた。ぽろぽろこぼれる涙はないというだけで、それ以外のことは泣いている人と何も変わらない。私と目も合わせようとせず、彼の感情だけがどこか底の方へと沈んでいく。

「国語の授業の時も、僕にはああいうこと絶対できないし、すごい、ありがとうって言えばいいのに、なんでか言えなくて、びっくりしちゃって、絹川さん悪いことしてないのにごめんなさい……」

「い、いいよいいよ。悪いことしてるの私の方だし、そんな」

「絹川さん何も悪いことしてないじゃん。ずっと何も、悪いことしてないじゃん」

「してるよ」

 そうじゃなかったら、どうして砂切がそんなにつらそうな顔をしなければならないのか、分からないのだから、私が悪いことをしたに決まっている。

 ……が、彼はそれを認めてくれない。

「してないよ! してないの!」

「えー……」

「だから僕の方がごめんなさい……」

「えー……」

 とても困った。どうやら私たちは、お互いが「自分が悪い」と信じ込む運命にあるらしい。誰も得をしない運命にある。

 彼の言っていることは、本当は私にも理解できることだった。家庭科の授業の時、砂切が間髪入れずに「大丈夫!? 保健室行こう?」と言ってくれたら、まぁ私は「お、おう」くらいの反応しかしなかっただろうけど、そういうやり取りがもしも発生していれば、きっと、悪い気はしていなかったと思う。彼が恐れてやまない虫を退治した時に「すごい! ありがとう!」と言われた場合でもそれは同じだ。

 けれど私は、それが欲しいと本気で思えるような素敵な人間ではないから。「二度としないで! ちゃんと気を付けてよ! 分かった? 本当に分かった!?」と心配性な怒りをぶつけてきてくれる砂切のことも好きだし、「どうすればよかったの?」と聞けばちゃんと答えをくれる砂切のことも好きだった。

 それではいけないと思っているのは、砂切本人だけなのだ。今いる部室の中みたいに、私たち二人の関係には私たち二人しかいないのに、彼だけが自分のことを責めている。それはとても不幸なことだろう。

 落ち込みっぱなしの砂切を慰める言葉を、私は探す。いつかの時も彼への慰めの言葉を考えたことがあった。あの時は勢いで誤魔化したけれど、今はそういうわけにもいかない。今度こそ、人の痛みが分からなくても、人を慰めなくては。

 ……そこで私は、自意識過剰になってみることにした。

「砂切くん。砂切くんは私にすごくひどいことをしたと思っているみたいだけど、私は嬉しいよ」

「えっ……?」

「だって色々あってからここに来るまでの間、ずっと私のことを考えてくれていたんでしょう? 嬉しいよ」

「……絹川さん」

 嘘を言ったつもりはなかった。全部本当のことだった。もしも私が、砂切のどこが好きなのかと聞かれたなら答えは一つに決まっている。それは彼が私のことを好きでいてくれること。だから彼に「好きです」と言われた時に、私はそれを喜んで受け入れた。「悪い気はしない」というのが理由の全てなのだ。

 形が何であっても、彼が私を心配してくれるということは、彼は私のことが好きだということだ。「どうすればよかったの?」という問いに答えてくれるのは、彼が私のことを好きだからだ。なぜそう言い切れるのかといえば、私のことを嫌っている人間は誰も、心配したり物を教えたり、そんなことはしてくれないから。ただ異様なものを見る目で距離を取るだけで、大抵の人間は私に対して、砂切のようなことは何一つしてくれない。もちろんそのこと自体に文句はない。悲しいとかつらいとか、人がそういう風に呼んでいるような気持ちは私の中にはない。……けれど、そういう気持ちがない人間にだって、「嬉しい」はある。

 砂切が私のことを延々と考えてくれていたのかと思うと、その結果「気分の落ち込み」という沼にはまってしまった彼には悪いけれど、私としてはやっぱり嬉しかった。そしてその気持ちが砂切に伝わることで、彼の気持ちを引き上げられればいいと、自意識過剰なことを考えて決行した。

「絹川さん、ありがとうね。ありがとう……」

 だから彼の、その力ない笑顔を見た時に、そこに秘められた意味が分からなくて、私は困惑した。嘘だと思われたのだろうか? それとも慰めにならなかったのだろうか……?

 しかし私は、その答えを得ることが出来ない。予想外の来訪者があったから。

 コンコンコンと、部室の扉が三度鳴る。

「えっ」

 私よりも砂切が驚いた。沈み込んだ感情はマイナスの世界から一気に浮上し、ただ驚きに染まる。もちろん私も驚いた。もう変装して来るような身内はいないぞ……!? と。

「どうぞ!」

 焦って上ずった声になる。春川早霧もとい砂切の時とは違って、扉は勢いよく開かれた。

 直後、私たち二人は仲良く目を点にする。何でも部に訪れたその制服少女は、まるで漫画の世界から出てきたみたいに、みょんみょんと揺れる立派な金髪縦カールのお嬢様ヘアをしていた。

「何でも部とやらはここでして?」

 第一声。その高貴な言葉遣いを聞いた瞬間に、私はある種の感動を覚えた。そして感動しながらこうも思った。……うさんくさっ!

「あ、えっと、はい、そうです。何でも部です」

「ということはあなたが絹川ヨルね?」

 ツカツカと彼女が足を踏み出すと、ただの上履きがヒールに見えてくるような気もした。しかし同時に、ただ髪型と喋り方が特徴的なだけのギャルなのではないか、という気もしてくる。

 砂切も私と大体同じ感想を抱いているのだろう、ポカンとして微動だにしない。お嬢様はそんな呆けた二人をよそに、ずっと空席だった客人用の椅子の隣まで来て「座っても?」と言う。何でも部の部長と副部長が、まったく同じタイミングで手のひらを差し出し「どうぞどうぞ」と言った。

 着席したお嬢様と向かい合うと、並々ならぬ自信のような物を、その目から感じられた。

「噂は聞いておりますわ。ボランティアなのか悪ふざけなのか分からない妙な活動をしているわりに、いつも「寄らば斬る」みたいなオーラを出している変わり者の一年生……。あなたでしょう? 絹川さん」

「あ、はい。そうです」

 つい普通に認めてしまった。今はちょっとお嬢様から目が離せないが、砂切が「えっ」という顔でこちらを振り向いた気がする。その認識でいいの? って。

「それからそっちは、砂切流くん」

「あ、はいっ」

「……女装というのは本当でして?」

「ほ、本当です!」

 砂切も私と大体同じ反応をしていた。このお嬢様には髪型と喋り方だけではない、謎の「圧」があるのだ。立ち振る舞いだろうか、声だろうか? それともただ「初めてのお客さん」だからだろうか?

「へぇ……これで男……」

 つま先から頭の上まで、値踏みされるようにじろじろ見まわされる砂切が、口を一文字に結んで椅子の上で固まってしまう。どうしていいのか分からないといった様子だった。

「あ、あの、それでご用件は……?」

「あぁ、失礼」

 私の方に向き直って、彼女は言う。

「わたくし、あなたに依頼があって来ましたの。引き受けてくださる?」

「あー、えーと、とりあえず内容の確認からお願いします。あとクラスと名前もここに書いてもらえると……」

 段取り悪くもたもたしながら、カバンの中の名簿ノートと筆記用具を取り出し、しっかり両手で持ってお嬢様に渡す。彼女はそのノートを開いて、最初のページから目を通し始めた。そこには砂切の書いた、春川早霧という偽名が……、

「あっ!」

 突然、砂切が声を上げる。お嬢様はびくっと肩を跳ねさせて、彼の方に訝しげな視線を送った。そしてその一瞬後で、私も事態に気付いて「あっ!」と悲鳴に近い声を上げる。

「……なんですの?」

「い、いや……」

 そうだった、そうだった、私は思い出す。声が出せないという私服の少女に、私はその名簿ノートを渡して名前とクラスを書くように言った。……そしてそのあと! ずっと! そのノートで筆談をしていた!

 別に読まれてまずいことは書いていないと思うけれど、砂切の顔にはなんとも言えない焦りがにじむ。日記を読まれているような感覚なのだろうか。

 動揺したままノートから目が離せなくなる砂切、どうすればいいのか分からない私……。お客さんが来る可能性を半ば忘れかけていた、そんな手際の悪い二人とは対照的に、お嬢様は優雅な余裕をもって机の上にペンを置き、パタンとノートを閉じた。

「筆談の形跡のことを気にしているなら、目は通さないようにしておきます。盗み聞きの趣味はありませんから」

「す、すみません」

「……それで依頼の内容ですけれどね」

 私の見ていた限り、彼女はまだノートに何も記載していなかったように思える。しかし先に依頼内容の確認が始まった。言われてみれば確かに、お断りせざるを得ない依頼を持ってきた人の名前まで名簿に書き記していたって、仕方がないのかもしれないけれど。

「絹川さん、あなた虫は苦手でして?」

「え? いいえ、全然」

「全然? それは好都合ですわ。わたくしがあなたに依頼したいことというのは、ずばり害虫駆除なのです。それもわたくしの家のね」

「害虫駆除……」

「あの黒い虫のことですわ。どこの台所にも出ますでしょう」

 つい一時間ほど前に一年A組の国語の時間に起こった事を、もうどこかから耳にしてきたのかと思った。そうであれ偶然であれ、どちらでも構わないのだけれど。

「なるほど、G退治と」

「ちょっ、やめてくださいまし、その言い方は。もっとボカして」

「え? あー、じゃあその、黒い虫退治と」

「そうですわ」

 涼しい顔で答えるお嬢様が、しかし「G」と聞いた瞬間にだけものすごい顔をしていた。こちらも苦手な人に気を遣ってイニシャルにしているつもりなのだけれど、お嬢様はその虫のことがよほど苦手らしい。砂切といい勝負かもしれない。

 とはいえ私も、特別その虫の駆除が得意というわけではない。ただ怖くないというだけなので、「平然と出来る」と「技術がある」では大きく違う。

「なるほど、その依頼自体はお受け出来そうです。……しかし害虫駆除と言っても、もちろん最大限の努力はしますが、我々は結局のところ素人ですし、業者のようなことは出来ないかと」

「構いませんわ。働きに関しては、新聞紙を振り下ろす以上のことは求めません」

「それならまぁ……。はい、お受けできそうです。いつ頃向かえば良いでしょうか?」

「今日、このあとでお願いしますわ」

「このあとですか? 分かりました。……そのノートにクラスと名前を書いてもらってもいいですか?」

 改めて促すと、案の定お嬢様はそれを渋るような顔をした。やはり意図的に書いていなかったらしい。

「……どうして書く必要があるのかしら?」

「いや、相手がどこの誰なのかも分からないままというのでは、私たちとしても……」

「こんな出で立ちでこんな話し方をするのは、わたくしくらいのものと思いますけれどね」

「えぇ……」

 自ら「こんな」という言い回しを選択することが意外で、小さな衝撃を受ける。我々と同じ高校に通うそのお嬢様は、客観的な視点をお持ちな方であるようだった。……だったとして、だけれども。

「いや、そういう問題ではないんです」

「そう……。では名乗るのは構いませんけれど、代わりに一つ条件を飲んでくださる?」

「条件?」

「あなたたち二人の、写真を撮らせていただきたいんですの」

 写真? と、砂切と顔を見合わせる。ゲーセンのマリオカートで遊んだ時のこともあって、彼が写真嫌いであるようには感じなかったけれど。

「いいですけど、なぜ……?」

「わたくしの能力、「丑の刻参り(サウンドノック)」には、それが必要でしてよ」

 言いながら、彼女はスカートのポケットからスマホを取り出して、私に向けて構えた。

 ぱしゃりとシャッター音が鳴る。その後彼女が砂切の方にカメラを向けると、もはや癖なのか、彼はカメラに向かってピースサインを作った。

「……この写真は、もしもの時にはこれに使わせていただきますので、そのつもりで」

 そう言ってお嬢様が私たちにスマホを差し出してくる。受け取って砂切と二人その画面を確認してみると、およそこんなタイミングで見ることになるとは思わなかった一連のアイテムがそこには映っていた。

 藁人形、釘、金槌……。呪いの三種の神器が、彼女の自宅の物と思われるテーブルの上に無造作に置かれている画像。それに加えて「顔写真」というキーワードが合わされば、それがどういう使い方をされるのかということにも想像がつくもので……。

「……なぜこんな脅しのようなことを?」

「あら、決まってますわ。口止めですわよ? わたくしのことを誰にも言いふらさないように……、わけのわからない一年生に縋りついたなんて噂を流されでもしたら、迷惑極まりませんもの」

「……なるほど。分かりました。誰にも話しません、約束します。……なのでお名前をお願いします」

 若干不愉快そうに眉をひそめつつ、お嬢様はノートを開きペンを取ってくれる。すらすらと書いて、それらの道具を私に返した。

「見た目の印象通りの恐れ知らずですのね」

「恐縮です」

「褒めてません」

 言いながら、彼女はさっき撮った写真の出来を確認していた。私もノートに書かれた名前を確認する。三年C組、早乙女(さおとめ)・フォルマリア・利世(りぜ)

 三年生かぁ……しかもすごい名前だなぁ……と思っていると、その下の行にもう一つ、似たような名前が書いてあった。早乙女凛音(りんね)

「あの、これ、なんで二つ……?」

「下が本名ですわ。上はわたくしが勝手に考えた名前」

「はぁ……? この、ふぉるまりあ・りぜ、ですか?」

「読み上げないでくださいます……?」

 明確に不愉快そうに顔をしかめて、早乙女さんは立ち上がった。スマホもポケットにしまう。どうやら何でも部初めての「出発」の時が来たようだった。

「さて、それでは弱味も握ったことですし、詳しいことは道中で話しましょう。ついてきてくださいまし」

 私もあわてて荷物をまとめる。どっちがどっちかを忘れると大変なので、ノートの下の行にある名前に矢印を引いて「本名!!」と書いておいた。

 そして、どぎまぎしながら立ち上がろうとする砂切を、手で制する。

「砂切くん、どうする? ゴキブリ退治だって」

 タァンッ、と上履きの踵を床に叩き付ける音。速足で早乙女さんが部室を出て行った。砂切にだけ聞こえるように声量を絞ったつもりだったけれど、聞こえていたか。

「ど、どうするって……」

「今日は先に帰っててもいいよ」

「……ごめん。そうする」

「うん。よし、じゃあ駅までは一緒に行こう。たぶん早乙女さんも電車でしょう」

 誰にでも得意不得意がある。かといって、二人で仲良く取り組める依頼しか引き受けませんだなんて言い出したら、法律と常識の範囲でしか活動できない何でも部の「何でも」の意味がいよいよ分からなくなってきてしまう。初回からというのがなんとも釈然としないものだけれど、とりあえず今回は砂切にはお留守番しておいてもらうしかなかった。

 荷物を持って廊下へ出ると、かなり遠くの方から不機嫌そうな声で「遅い!」と響いてくる。遠くからでも金色の揺れる縦カールは目立つものだった。小走りでそれを追いかけようとしたところ、

「絹川さん!」

 と、砂切から呼び止められる。

「なに?」

「危ないことだけはしないでね……?」

 控えめな声と、心底心配そうな表情がそこにあった。

 ふふっ……と、その時の私は珍しく、上手く笑うことができたように思う。

「しないよ。ただの害虫駆除なんだから。……あぁそういえばゴキブリって「噛む」らしいけど、まぁ噛まれても危なくはないでしょ」

「ひえっ……」

 身震いする砂切を後目に、私は早乙女さんの背中を追いかけた。このあと勤しむであろう初仕事の成果は、ちゃんと表現をボカした上で、明日存分に砂切に話そう。

 下駄箱で早乙女さんに追いつく。その私をさらに砂切が追いかけてくる。早乙女さんだけ学年が違うので下駄箱も別になっており、パーテーション越しに会話をするような形になる。

「害虫駆除をする場所って、早乙女さんの自宅ですよね」

「えぇ、そうですわ」

「遠いんですか?」

「三駅向こうですわ。……電車賃は出せませんわよ?」

「致し方ないですね」

 今後こういうことが重なってあまりにも出費がかさむようなら、それはその時になってから考える。

 靴を履き替えて、門の外へ。水筒二刀流に一瞬ギョッとする依頼人へ、副部長こと砂切流は諸事情により今日は参加せず帰宅する旨を伝える。すると彼女は砂切の方を一瞥して鼻で笑ったけれど、そこに悪意は感じられなかった。

「ふん、同類ですのね」

「えへへ……」

 照れ笑いをする可憐な少女にしか見えない男子に、彼女はそこそこ困惑しているようだった。何なんだこいつは……と。良い意味で、私もちょくちょく同じことは思うけれど。

 そうして三人で駅まで歩いたのだけれど……。道中、早乙女さんが何も喋らないので話題に困った。そして困った末に、害虫駆除の実績ということになるかなと思って、午後の授業中に起こったことを早乙女さんに話してみた。ドン引きされた。

 彼女は砂切の方に顔を寄せながら、聞こえる程度にひそひそ言う。

「あなたのご友人、やばくありません?」

「え、だ、大丈夫だよ」

「大丈夫ってなんだ、聞こえてますよそこ」

「あら、なんのことでしょう」

 その一瞬のやり取りだけで、もしやこのお嬢様はかなりいい人なのではないか? と私は直感する。現場を見ていないからということもあるのだろうけど、私の行動にドン引きするにしてもかなりフランクに引いていたから。

 その場で改めて、彼女の家に行ってからは必ず新聞紙で害虫を駆除しようと心に誓う。二度同じ過ちは犯さない。体にも心にも痛みを感じない分、「学習」は意識して起こさなければならないのだ。

 決意と共にお茶を一口飲むと、水筒はもう二本目までずいぶんと軽くなっていた。

 

 

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