ミトに至る倒錯   作:氷の泥

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12 お嬢様の藁にも縋る夏 後編

 早乙女さんの家は砂切の家とは逆方向だった。一つのホームに二方向の電車が来るのでギリギリまで一緒にいたけれど、彼の方の電車が先に来たので今日はそこでお別れとなる。

「じゃあねー絹川さん。また明日」

「うん。またねー」

 小さく手を振って見送る。車両に乗り込んだ彼が座れそうな席を探すけれど、まばらな乗車率の中でも目ぼしい席は見つけられなかったようで、諦めたように手すりを掴んだところでドアが閉まった。

 砂切を乗せた電車はあっという間に、走行音も聞こえなくなるくらい遠くへ行ってしまう。線路を挟んだ向こうの街の景色を見たままで、早乙女さんが気を見計らったように言った。

「あの人に対しては愛想が良いんですのね」

「砂切ですか?」

「ええ」

「付き合ってますからね」

 私の方へ視線を向けた彼女の顔には「冗談でしょ」と、言うまでもなく分かりやすく書いてあった。

「つ……!? ……そうなんですのね」

「早乙女さんはそういう関係の人は?」

「いるわけないでしょう」

 わけないってことはないと思うのだけど……。私に彼氏がいる時点で誰にでもいる可能性があるように思う。

 その後一分か二分で、私たちの乗り込むべき電車もすぐにやってきた。しかしこちらの方向へ行く物はこの時間帯微妙に混んでいるようで、吊り革や手すりが完全フリーな分、座席は一つ残らず埋まっていた。

 早乙女さんがドア傍の隅を背もたれにするように立ったので、私もその近くに陣取る。電車はほとんど揺れを感じさせず、なめらかに走り出した。

「先に言っておきますけど」

 睨みつけるように私の方を見ながら。

「わたくし、そこそこ裕福ではありますけれど、漫画に出てくるような物凄いお金持ちというわけではありませんの」

「はあ」

「髪は染めていますし、喋り方はわざとですし、ジャンクフードは人並みに食べますわ」

「ははあ、なるほど」

 意図は測りかねるけれど、言っていることの意味は分かる。とにかく彼女は、本物のお嬢様ではないらしいということ。……言われずとも薄々感じていたことではあるけれど。

 数百円のハンバーガーだったりカップラーメンだったりを食べて「この世にはこんなに美味しい物が!?」と言いだすことが、フィクション上では有名かつ古典的な「お嬢様キャラ」の特徴だと言える。けれどはたして本物のお嬢様は、我々と同じようにその認識を持っているのだろうか? 本人の言う通り、早乙女さんの感性は非常に庶民的であるように思う。そこらへんの高校生と同じように、漫画もアニメもそこそこ見て育ってきたのだろう。

 つまり彼女は非常に自覚的に、古典的あるいはシンプル化しすぎたお嬢様キャラを、演じているということであるらしい。それが理解できたところで、本当に意図を測りかねるとしか言いようがないのだけれども。

「わたくしの振る舞いは、他の人たちが例えば好きな洋服を着て、化粧をして、ネイルでも塗ってみたり眼鏡かコンタクトかで悩んでみたり……わたくしはコンタクトなんですけれども、そういったことをするのと何も変わらない行いなのですわ」

「そうなんですね」

 趣旨の分からない会話に乗り切れない私の無愛想な相槌に、彼女は露骨に不満そうな雰囲気を纏うことで返した。

 電車が一駅目に停車する。私たちのいる場所から乗り降りする客はいなかった。電車の外からは、もわっとした温い空気が漂ってくる。乗り込んだ時にはそれほどクーラーが効いているとは感じなかったけれど、たった一駅の間にこの体は少しの快適さにも慣れ甘え始めたらしい。

 水筒のお茶を飲むとついに空になった。これは明らかにペース配分を間違えている。今日は何かと「失敗」をしてしまうことが多かったから、それを誤魔化すかのように口をつけすぎたのかもしれない。

「正直に仰ってほしいのですけれど」

 ドアが閉まり電車が再び走り出すと、それを合図にして早乙女さんは再び話し始める。あまり楽しくはなさそうに、閉じたドアから窓の外の景色を眺めながら。

「あなたの目から見て、わたくしはどのように見えているのかしら?」

「どのようにとは……?」

「いわゆる「印象」の話ですわ」

「印象……」

 そっぽを向いて話す彼女につられるように、私も窓の外へ目を向けてみる。

 自分がほとんど自宅の傍から移動しないこともあって、あまり馴染みのない景色が、ほどよく目で追えるスピードで窓の中を流れ続けていた。それは見ごたえがあるとまでは言えなくとも、つまらない物でもなかった。……私にとってはそうでも、早乙女さんにとってはただの見飽きた景色なのだろうけど。

「本当に正直に言っても?」

「ええ」

「見ていて楽しいです。夢があって」

「夢?」

「夢です。例えば自分と同じ教室に通う生徒としてお嬢様がいて、何かのきっかけで話しかけてみると意外とフランクな人柄だということが分かって……みたいな。そういうアニメ的な夢があるじゃないですか」

「……そう」

 変な子、と彼女は呟いた。電車は二駅目に到着する。降りるべきは次だ。

 一人二人、ごく少ない人数が電車に乗り込んでくる。その乗客たちが各々選んだ定位置につくまで、早乙女さんは口を開くことを我慢しているように見えた。

 プシューという音が鳴りドアが閉まる。お喋りをしているのは私たち二人だけで、車両の中は二人の変わった女子高生と、ガタゴトという車輪の音が目立つばかりの空間になっている。早乙女さんはそこで、感傷に浸るかのように窓の外ばかりを見ていた。

 そして突然思い出したかのように、私に質問する。

「彼氏から褒められることはあって?」

「え?」

 彼女の視線がこちらへ戻ってくる。

「あの女の子みたいな彼に、あなたは女として褒められたりするのかしら?」

「女としてって……」

 それは、どうなんだろう……?

 褒めてくれること自体はちょくちょくある。ちょうど彼から常に滲み出している好意が、何かの拍子に一定の言葉として具現化するみたいに。けれどそれが「女として」なのかと考えると、そもそも砂切が「女性」をどういう目で見ているのかが分からないという問題に突き当たる。

 かわいい物が好きで、そうではない物が嫌い。そういう一見単純な基準で生きているように見える彼が、じゃあ例えば、私を性的な対象として見ているのかどうか? と考えると、それは分からないのだ。彼が私に告白した時に言った「友達以上」「特別な関係」とはつまり一体どういう物なのか? 私には彼が「デート」と称してただ遊んでいるだけでも、それで十分満足しているように見えてしまうことがある。だから彼の望みの具体的な部分はずっと分からないままでいる。デートをするためだけに付き合っているということはまさか無いだろうけど。

 しかし、もしも彼が普通の男子と同じような目線で「女性」を見ているのなら、自分がその女性と同じ格好をする時に、「かわいい」を目指す時に、いったいどういう気持ちで鏡を見ているのだろう? という話にもなってくる。……そういった心の深い部分について触れるには、知り合ってから三ヶ月程度の時間ではまだ足りないと私は思っている。しかし言われてみれば、じゃあどれくらいの時間を重ねれば十分なのかと考えると、それにも見当がつけられない。

 揺れる電車の中で、今日会ったばかりのお嬢様へ、私は自分の考えを整理するためにそれが必要であるかのように述べる。

「……まぁ、褒めてくれることはありますよ。でも「女として」っていうのは、定義が難しいですよね。例えば彼は自分が男であり、自分の恰好が女性らしいことを自覚していますけど、自分のことを「異性」として見ているとは思えませんし」

「……つまり?」

「ただ好意だけがはっきりしているということです」

 早乙女さんはため息を吐いた。ため息を吐くという、その行為自体馬鹿馬鹿しいとでもいう風に、自嘲的で不満そうな顔をして。

「……白状しますとね、わたくしもそういう相手が欲しかったんですの。……あなたが羨ましいんですのよ」

 目を伏せて、彼女はそう言った。

 三駅目に到着した電車のドアが開く。

「降りますわよ」

 彼女の背中を追って、見知らぬ駅のホームに降り立つ。お嬢様は手のひらを団扇かわりにしながら「あっつ……」といかにも不機嫌そうに呟いた。

 下車してすぐの頃は私も蒸し暑さを感じていたけれど、改札を抜けて少し歩いていくとその感覚も消えてしまう。歩くリズムに合わせて揺れる水筒からは、氷まで綺麗に溶けきってしまって音もしない。

「ちょっと歩きますわよ」

「はい」

 ちょっとという言葉の個人差には目を見張るものがあるけれど、どうせ疲れを感じられる体でもないのだから気にするだけ無駄である。

 そして結局、それから十五分くらい歩いただろうか。ちょうど学校から自宅までと同じ距離感で見えてきた一軒のアパートの前で、早乙女さんが足を止める。

「ここですわ」

 数台の車が停まった敷地内の駐車場を通り抜けて、いくつもの玄関ドアが並ぶ廊下へと足を運ぶ。一階の、奥から二番目のドアに鍵をさして、彼女は帰宅した。

「どうぞ」

「おじゃまします」

 家に入ってみると、そこには驚くほど几帳面に整頓された空間が広がっていた。物が少ないわけではないのに生活感が感じられないような片づき方に、ふとモデルハウスを連想させられる。私を連れてくる予定があったから今だけそうなっているのかもしれないけれど、しかしそれにしたって、あの黒い虫が現れるような隙があるとは思えなかった。

 部屋の電気とエアコンの電源を入れながら、早乙女さんはカバンを下ろして台所の冷蔵庫を開きに行く。

「麦茶しかないけれど、構いませんわね」

「あ、はい、お構いなく」

「適当に座っておいてくださいまし」

 そのあたりで私はようやく、数分前の彼女の言葉の意図を理解した。「自分は漫画に出てくるようなお嬢様ではない」というのは、金持ちが住む城みたいな家を期待するなということだったのだろう。

 絨毯の上に置かれた低いテーブルの前に座る。やはりそのテーブルはあの画像と同じ物だった。かつてここに、藁人形と釘と金槌が置かれていたこともあるのかと思うと、今それがどこに置いてあるのかということに多少興味が湧いてしまう。

「あぁ、これを使って」

 氷入りの麦茶を淹れたコップを両手に一つずつ持ってきた早乙女さんが、それをテーブルの上に置くとクッションを投げて寄こしてきた。まるで飾るように丁寧にそれらを部屋の片隅へ置いていたわりには、実際に使う時の扱いが雑で、なんだか親近感が湧く。

 麦茶はよく冷えていておいしかった。おいしくて、それでホッと一息をついてしまい、危うくここへ来た理由を忘れそうになった。遊びに来たわけではないのだった。

「それで早乙女さん、例のその、ターゲットはどのあたりに現れますかね?」

「……神出鬼没ですわ」

 片手でコップを持ったまま、トラウマに苛まれるような顔をして彼女はそう言った。

「あぁ、ターゲットといえば、そうですわね」

 お茶を一口飲んでから立ち上がった彼女がどこか別の部屋へ消え、ハエ叩きのような道具を持って戻ってくる。

「これ、武器ですわ」

「あれ、新聞紙は?」

「新聞は取っていませんの。あれは物の例えですわ。……構わないでしょう?」

「ええ、なんでも大丈夫です」

 そちらが大丈夫な物なら、本当になんでも、素手でも大丈夫なんですけどね……と、かつて常日さんを怒らせてしまった時のことを思い出す。しかしそれにしても、「ハエ叩き」という物の実物は今初めて見たけれど、これは用が済めば捨てられる物なのだろうか?

「ところで」

 鑑定するかのようにしげしげとハエ叩きを観察する私に、向かいに座っている早乙女さんが声をかける。お互いなんとなく正座をしていた。

「何でも部だったかしら。……今さらになりますけど、あなたはなぜそんな活動をしているの?」

 麦茶に浸る氷がカランと音を立てて崩れる。段々と涼しくなってくる部屋で、それが風鈴の役割を果たしている気がした。

「話せば長くなりますけど、一言で言えば親の影響ですね」

「親の? へぇ、どんな?」

「どんな、ですか……」

 思ったより話に食いついてくる。そういえば早乙女さんは「絹川」という名字を聞いて私の母を思い浮かべるのだろうか? 思い浮かべたって浮かべなくたって別にどちらでも構わないのだけれど、……それよりも私は、思いのほか友好的なその先輩のことを、ちょっとからかいたくなってしまった。

「意外ですね」

「え?」

「おかしな一年生に興味を持ってもらえるなんて、光栄です」

 ちょっと攻めたことを言ってみる。するとそれはちゃんと冗談として受け取ってもらえたようで、彼女は私の言葉を面倒そうに鼻で笑った。けれど、やはりそこに悪意は感じられない。

「思い上がりも甚だしい……。ヤツが現れるまでの暇つぶしに過ぎませんことよ。どうせ合わない趣味の話をするより、いくらか有意義かと思っただけのことですわ」

「そのヤツですけど、本当に現れるんですか……?」

 あの黒い虫については、一匹見たらなんとやらとは言うものの、探そうと思って探せる物ではないことも周知の事実かと思う。むしろ一度逃がせばしばらく現れず、忘れた頃になって再び相見えるところにタチの悪さがあるような気さえする。

「必ず現れますわ。ここ最近、毎日ですもの」

「毎日?」

 こんなに片付いた部屋で? と周囲を見渡す。そしてその几帳面さの理由に一つ思い当たった。

 もしやこれは早乙女さんの本来の性分ではなく、私という客人に対する対応でもなく、今日私が倒すべきその虫への、毎日現れるというその虫への必死の「対策」なのではないかと。

「毎日っていうのは、なんというか、珍しいですね」

「嬉しくはありませんけれどね……。……まぁ今日すぐには出てこなかった場合は、あなたにはとりあえず一晩ここに泊まってもらいますから、そのつもりで」

「えっ」

「そのための脅しでもありましてよ?」

「えぇ……」

 聞き捨てならないことを、なんともまぁ唐突に言ってくれるものだ……。

 部室で撮られた写真と、呪いのアイテム三点セットが頭の中に思い浮かぶ。あの写真を現像して藁人形に貼り付け釘を打ったとしても、まさか本気で呪い殺されるとは思わないけれど、どちらかといえば、それを早乙女さんに実行させてしまうことの方に身に危険を感じる。今まで顔を合わせることもなかった三年生の先輩とだって、この先まだあと半年以上も同じ学校で生活していくのだ。出来れば仲良くしたい。

 けれど仮に、本当に突然の泊まりをすることになったら、どうしよう……? 早めに連絡さえ入れておけば、一悶着はあるかもしれないがきっと母と常日さんは許してくれるだろう。明日の砂切とは……朝の駅で落ち合うことにすれば大丈夫か。着替えは早乙女さんの物を借りるということになるのだろうか? というか、早乙女さんはここに一人暮らしなのか……?

 と、あれこれ考えている最中に、かなり近くから動物の鳴き声のようなものが聞こえた気がした。ねおーん、ねおーん、と猫の鳴き声のようなものが、窓の外のすぐ近くから聞こえてくる。

「あら?」

 その声に反応して、早乙女さんがリビングで一番大きな窓をカラカラと開ける。窓の外には少しの庭スペースと、物干し竿があった。

 そして窓を開けた彼女の足元に、茶色でモフモフした毛の動物がちょこんと座っていた。見た感じどうも猫ではないようだったが、じゃあ何なのかと言われるとよく分からない。猫というよりは犬に近いように見えるが、しかし犬ともまた違うような……。

「あらネオン、来てくれたのね」

 早乙女さんは当然のようにその動物を抱きかかえる。そして窓を閉めた。

「え、何なんですその子は……?」

「狐よ? 名前はネオン」

「きつね!?」

 いるのか、キツネが。しかもまるで猫みたいな登場の仕方で。

「ほらネオン、ご挨拶して?」

 抱きかかえたままモフモフとその狐を撫でながら、赤ん坊を見せる母親のように早乙女さんは私に近づいて来る。するとその狐は私の目を見て、ねおーんと鳴いた。名前の由来はその鳴き声か……。

「飼ってるんですか?」

「いいえ、野良ですわ。このアパート、ペット禁止ですもの」

「野良の狐っているんですか……?」

「どう見ても目の前にいますでしょう? ねぇ?」

 金髪縦カールのお嬢様が、抱きかかえた狐に話しかけている。狐からの返事は当然「ねおーん」と返ってくる。

「何ならあなたも抱っこしてみます?」

「え、あっ、はい」

 差し出されたネオンを言われるがままに抱きかかえる。触れてみると見た目よりもさらにモフモフ感が強くて、その毛のおかげか抱いているとすごく暖かくて、そして地味にそこそこ重い。

 と、そうやって狐の存在を肌で感じたところで、そっかぁ野良の狐が家まで遊びに来たりするんだなぁすごいなぁ、と納得できるわけではなかった。絶対おかしいだろ……という念が頭の中にうずまく。しかしいくら違和感を覚えたところで目の前の事実を曲げられるわけではなく、そこにいるものは、そこにいるのだ。

 とりあえずネオンを早乙女さんに返す。すると彼女はその子を床に下ろして、またどこか別の部屋へ消えて行った。足元をちょこまか動くネオンと共に彼女が戻ってくるのを待っていると、今度の彼女が持ってきた物は掃除用のコロコロだった。

 向かい合って交代制で、お互いに制服に付いてしまった狐の毛を黙々とコロコロする。なんだこの時間は……と思っていると、早乙女さんが口を開いた。

「いつもヤツが現れたら、ネオンに助けてもらっていましたの。追い払うことが限界でしたけれど」

「限界って……そんなに凶悪な相手なんですか?」

 狐が素早く動く虫に対してどの程度強いのかは知らないけれど、本気で仕留めようと思ってくれれば圧勝できそうなものなのに。

 すると早乙女さんは、思い出すのも嫌だというように顔をしかめて答える。

「凶悪も凶悪、南国の方の悪い部分を集積化したようなものでしてよ……。別に南国に行ったことはありませんけれど」

「あぁ、分かります。なんとなく暖かい地域って虫がデカいイメージがありますよね」

 名前を出すことさえはばかられる黒い虫からヘラクレスオオカブトまで、熱帯の方には派手なスケールの虫がいるイメージがある。日本国内でさえ北海道にはGがいないと聞くので、逆に九州・沖縄の方へ行くとストロングワールドが広がっているのではないだろうか。

 ……なんていう風に、どこか他人事のようにそんな話をしていられたのは、たった今その瞬間までのことだった。

「……早乙女さん」

「はい?」

 なんでもない日常の中で通り魔に刺されてしまうみたいに、平穏という物は何の脈絡もなくその幕を閉じてしまうことがある。今まさにそれと似たようなことが、私の目の前で起こっていた。

 いつの間に来たのかは分からない。さっきまでは絶対にいなかった。一瞬、壁に大きな穴が開いたのかと思ってしまった。私の視線の先にある白い壁面……その腰のあたりの高さに、ちょうど女子高生の握りこぶし一つ分くらいの大きさで、黒い楕円形が出現していたから。

 だけどその楕円形は、間違いなく動いた。

「一つ、質問してもいいですか?」

「なにかしら」

「参考までに聞きます。あの黒い虫のこと、どのくらい苦手ですか……?」

 私の視線の先にソレがいるということは、私に向かい合った早乙女さんにとっては背後での出来事ということになる。出来ることなら彼女には何も悟らせないままでいさせてあげたかった。……けれど私という人間は、普段は表情に乏しいくせに、いざという時に感情を隠すことが下手らしい。

 早乙女さんが、私の意図に気が付いた。あの時の砂切がそうだったように、どうやら人は本当に恐怖した時、それこそ漫画みたいに体が震えてしまうようだ。

 二つ上の先輩が血の気の引いた顔をして、ふるえる声で、見るからに私に助けを求めていた。

「あ……あぁ……。絹川さん……わたくし……わたくし本当に……本当にダメなんですの……」

「大丈夫です。ゆっくり、ゆっくりこっちへ来てください」

 コクコクと、彼女は小刻みにうなずく。彼女がこちらに歩みだす摺り足と同じくらい慎重に、ゆっくりと、私もハエ叩きを手に取る。

 無音だった。少しずつ少しずつ、土をかきわけて出てくる植物の芽のような速度で、早乙女さんは少しずつ私へ近付いてくる。そして凝縮された時間を乗り越えて、ついに彼女は、「何でもする」を活動方針に掲げている無愛想な後輩女のもとへとたどり着いた。

 何の迷いもなく、早乙女さんが私の肩を掴んで背後に回り、私のことを盾にした。それでいい。

「は、早くなんとかしなさい! そういう話だったでしょう!?」

 大金を払って護衛を雇った人のようなセリフを、画面の向こうではない現実で聞いたのは初めてだった。

「そうしたいのは山々なんですけど、そうしがみつかれると、一緒にヤツへ接近することになっちゃいますよ」

「そんなことしたら、わたくしあなたを呪い殺しますわよ……!! 絶対に、何がなんでも呪ってやるから……!」

「じゃあ、手を離してください」

「わたくしを一人にする気なの……!?」

 ヒステリックに叫ぶ彼女だけれど、その声が今にも泣きだしそうな恐怖を伴ったものとなっているので、なんというかシンプルに「守ってあげなければ」という気持ちになる。彼女が校門の前で砂切に対して言った「同類」という評は、だからかなり正しいように思えた。

「ネオンちゃんがいるでしょう? このままだと、いつ向こうからこっちに来たっておかしくありませんよ。離れてください、後ずさるだけでいいんです」

 壁に張り付いたそのターゲットは大きい。本当に早乙女さんの語った通り、少なくともここではないどこかの地方が原産であることを感じさせるスケール感だ。そしていくら大きくなってもGであることに変わりないそれは、二本の触角が不気味に蠢き、次の瞬間にも阿鼻叫喚の惨劇が起こり得ることを示していた。

「いや、いやだ……やだ……見捨てないで……」

 ぎゅうう……と肩を握る手にさらに力がこもる。私は思わず感心してしまった。そこまで深刻に怯えるのなら、逆によく今日までの間、相棒の狐一匹だけを頼りに毎日現れる刺客へ対抗してきたものだと。そしてそれを思えば、気丈に振る舞っているように見える彼女の葛藤に対しても想像が働く。

 部屋を片付けて、ネオンに頼って、きっとそれ以外の手もありったけ試して、それでもGを排除することが出来なかった早乙女凛音。彼女は苦手で苦手で仕方ないその化け物と毎日対峙して、毎日こんな風にふるえていたのだろうか。家にいたって安心できる時なんてなかったのかもしれない。いつ現れるのか分かった物じゃない虫に怯えて怯えて、ついにおかしな下級生にまで助けを求めるところまで来ていたのかもしれない。

 ……なおさら、絶対に助けなければという気持ちになる。

「大丈夫です、早乙女さん。私は絶対にヤツを逃がしません、私より後ろへ行かせもしません。必ず仕留めます。だから、お願いですから少しだけ離れてください。絶対です、必ず、今日で終わらせますから」

「……言ったわね? 言ったわね? ぜっ、絶対ですわね!?」

「絶対です」

「……うぅ」

 過呼吸気味の息遣いが離れていって、肩が軽くなった。ずっと強く握られていた分、じんわりとそこに温もりを感じる。

 ターゲットを刺激しないように、早乙女さんの摺り足を見習って、ゆっくり、ゆっくり、近付いていく。物音一つ立てず、こちらの間合いまでソレににじり寄る……。……しかし寄れば寄るほど、私はその敵から異常性を感じた。

 大きすぎる。いくらなんでも大きすぎる。ハエ叩き程度の武器では、一撃で仕留められるかどうかも分からないほどに、それは大きすぎた。大体、人間の拳のような大きさのGだなんて、そんな物が本当にこんな場所に生息しているものなのか……? 野良の狐がいることよりもさらに疑問に思う。これは本当に、自然発生したものなのか……?

 虫とて体が大きくなれば思考も変わるということだろうか。学校の教室にいたものと、ソレの動きはまったくの別物だった。あっ、と思う間もなく、ソレは壁を這い上がる。

「うっ……!?」

 そしてその黒は飛び立つ。壁に張り付いたそれが、羽根を広げて飛翔する。その開く羽根が、私にはまるでスローモション映像のように感じられた。あれだけ大見得を切っておいて早乙女さんを裏切るわけにはいかないというプレッシャーが、私の思考と動体視力を一つ上の次元へ上げた。

 咄嗟に把握する。大した飛行能力のないヤツは、私の顔へ飛び降りてくるつもりだと。サイズがありすぎるせいで、もし貼り付かれれば視界を塞がれることになりかねない。そうなる前に殺るしかない。ハエ叩きを持った右手に力がこもる。私は次の自分の行動を光の速さで脳内シミュレートした。

 まずは右手の武器でやつをはたき落とし、足元に落ちたところで間髪入れずに二撃目を入れる。……そうだ、それでいけるはずだ。二撃で仕留められなくとも、少なくとも動きは止められるはず。動きを止めることさえ出来ればあとはどうにでもなる。

 ……だがそのシミュレートは、空中から黒点の接近する土壇場で否定された。なぜなら私は、武器を使わなければならないから。ハエ叩きでヤツを叩き落し、そのまましゃがみこんで、同じハエ叩きで追撃する必要がある。足は使えない。……しかし本当にそんな隙があるのだろうか? さっきヤツが壁を這った速度は尋常じゃなかった。しゃがみこんでいる間に逃げられるかもしれない。でも、だったらいったいどうすればいい!?

 ギリギリまで迫る黒く不気味な虫の影。追い込まれて、判断を迫られて、結局のところ私の思考回路はめちゃくちゃになった。全ての思考はあっけなく放棄された。ただソレをここで仕留めるためだけに、自分のことも他人のことも考えないまま、恐れも痛みも理解しない私の体が反射的に、最も確実な手段を選んでしまった。

 気が付いた時には、空いていたはずの左手の拳の中に、何か大きく脆い物が潰れる感触があった。大きすぎて拳の中に入りきらなかった残骸が、掲げられた指の隙間からそこかしこ、今にもちぎれ落ちそうなほど覗いている。

根怨(ネオン)ッ!!!!!!!!」

 早乙女先輩の、鼓膜を貫き破るような絶叫が響く。咄嗟に振り返ると、ちょうど彼女の足元で狐が光の塊に変化していくところだった。

 ネオンと呼ばれた狐は、形はそのまま光となり、狐の形を取っていた光の塊は、やがて別の形へと変化していく。変形する光はその過程で輝きを失って行き、動物よりももっと単純な、不吉で不気味な命無き物質へと変化していく。……そうして修羅の形相をした早乙女さんが最終的に手にした物は、あの三種の神器だった。

 藁人形、釘、金槌。……画像で見た時と一つだけ違うのは、その藁人形の頭部にはすでに、私の顔写真が貼られていたということ。

「わ、わたくしに今近づいたら……、今……一歩でも近づいたら……!!」

 文字通り藁にもすがるような気持ちなのだろう。左手に藁人形を、右手に金槌と釘を握りしめて、全身をガタガタふるわせながら早乙女さんが私を脅す。彼女の行おうとしているその「呪い」が単なるおまじないの域を超えていることは、誰が見ても明らかなことだった。

 私は左手を背中に隠す。手を隠してばかりの日だなと思った。

「絶対に近付かないのでやめてください」

 早乙女さんは、苦しそうに目を閉じて床に向かって叫んだ。

「じゃあ出て行って! 荷物はあとで出してあげるから、とにかく出て行って!!」

「了解です」

 ハエ叩きはその場に置いて行く。くれぐれも左手ではどこにも触らないように、またそこから何もこぼれ落ちないように注意しながら、私は靴を履いて玄関を出る。外はもう夕暮れだった。

 ……一度外の空気に当たって落ち着くと、さすがにため息が出た。アパートの壁に背をつけて体重を預ける。

「しまったなぁ……」

 今日のことは間違いなく、早乙女さんの一生のトラウマになってしまうだろう。二度同じ過ちは犯さないと誓ったのではなかったのか。私は本当に、本当に、分かっているはずのことがどうしてこんなに上手くできないのだろう……。

 しばらくすると玄関のドアが薄く開いて、私のカバンと水筒二つが差し出された。くれぐれもそれを右手で取ろうとしたけれど、もはや私の手を見るだけでも怖いだろうと思って、それを引っ込める。

「投げてもらって大丈夫ですよ。ぽいって」

「……出来るわけないでしょう」

 顔は見えず、腕だけがドアの隙間から伸びている。彼女の声はまだふるえていた。向こうが目を閉じていてくれることを祈って、右手でその荷物たちを受け取る。

「……ごめんなさい。明日、ちゃんとお礼を言いに行くから」

 扉は閉まり、ガチャリと鍵のかかる音がする。顔を見れば今日のことを思い出すでしょうし来なくても大丈夫ですよ……と、伝える暇もなかった。トラウマの象徴に会いに行かなければならない明日の彼女の気持ちは、いったい如何ほどの物なのだろうか……? 私には理解できるはずもない。

 いくつものドアが並ぶ廊下をとぼとぼ歩いて、アパートの駐車場まで出てくる。そして私の足はそこで進むことをやめてしまった。歩くよりももっと大事なことが、思考するべきことがあったから、自分のつま先を見ながらそちらを優先したくなった。

 今回の件で、これでようやく私にも気付くことが出来たと思う。相手が早乙女さんでも砂切でも変わらない、この世の法則にやっと気が付けたように思う。……その人の怖がる物を退けたからといって、私がその人にとっての救世主になれるわけではないのだ。化け物を殺す者が、別の化け物であっては意味がないのだ。

 砂切は私に言った。あの時絹川さんがするべきだったのは、先生に叩くものはないですかって聞くことだったんだよと。けれど、きっとそれも百点満点の正解ではなかったのだと思う。今日の午後の授業で私がするべきだったことは、そういうことではなかった。虫を退けることではなかった。私に縋りつくようにして怯えていた砂切に対して私がするべきだったことは、優しく寄り添って、大丈夫だからねって、私がついてるからねって、ただ慰めることが、きっと正解だったのだ。離れろ、私が倒す……なんて言っている間は、私は一生人の心に寄り添うことが出来ないままで……。

「おい」

 頭上から声がした。ハッとして顔を上げると、黒いパーカーのフードを目深に被った長身の男が目の前に立っていた。その人を見上げた私は、ここに車を停めている人かな……などとぼんやり考える。

 男が、私の握りしめたままの左手を叩いた。まるでアメ玉が入っていることを言い当てるかのように、見知らぬ男が無遠慮に私の手を叩いたのだ。……その瞬間、違和感があった。

「え……」

 左のこぶしを開いてみると、綺麗な肌色が目に飛び込んでくる。私の手の中でぐちゃぐちゃに潰れていたはずのグロテスクな物は、なぜか欠片もどこにも見当たらない。まるで最初からなかったみたいに消えている。今まで確かに感触はあったのに。

「なあ、誰だお前」

 低い声が降ってくる。見下ろされている。そしてその声音が表す感情を、私はよく知っていた。

 ……けれど、なぜ? なぜ会ったこともない男が、私に怒っている?

「誰なんだよお前!!」

「うわっ」

 本当にそんな体験をする日が来るとは思っていなかった。私はその男に力ずくで押し倒された。駐車場まで来ていたから、背中には当然固いアスファルトがぶつかることになる。なんとか頭だけは打たないようにしたけれど、それ以上思考が追い付かない。

 とにかく抵抗しなければ! 訳も分からずにそう思った瞬間、大きな手で口を塞がれた。男の膂力でそのまま押さえつけられれば跳ね除けられない。口を塞ぐ手を両手で引きはがそうと試みる、とにかく足をばたつかせてマウント体勢からの脱出を試みる。けれどどれも上手くいかなかった。

 そしてやがて、私の顔の下半分を覆うその大きな手の上に、男のフードの中から腕を伝って信じられないものが現れる。一匹や二匹ではない、触角を持った黒色が這って来た。男のフードの中から無限かと思えるような勢いで、ゴキブリが、おびただしい数のゴキブリがうじゃうじゃと腕を伝い、私の顔を這っていく。

 ……その時、なんとなく勝った気がした。ケチなことをする男だなぁと思って、彼にはそれが効くような気がした。

 私は一か八か、舌で男の手のひらをべろんと思い切り舐めてみる。するとゴキブリなんて物を使う男のくせに、そいつは「うわっ!」と不愉快そうな声を出して一瞬私を解放してくれた。

「助けてー!!!!!!!!」

 ありったけの声で叫んだ。誰か、救世主が現れてくれることに賭けるくらいしか、その場の私には思いつかなかったから。

 叫ぶために大きく口を開けた拍子に、ゴキブリが一匹その中に入ってきた。私はそれを一思いに噛みしめて、潰れて動かなくなったそれを男の顔に向かってプッと吐きつけてやる。やはり彼は低い悲鳴を上げ、それを不愉快そうに手で払った。

「何事!?」

 遠くから女性の声が飛んでくる。私も男もそちらを見た。アパートの廊下の先、一階奥から

二番目の扉が開き、一人と一匹がこちらの様子をうかがっていた。足元にネオンを従えた早乙女凛音が、並々ならぬ表情をこちらに向けている。

 その瞬間、私に馬乗りになっていた男が駆け出した。……まずい! とその時全てを理解する。そうだ、どう考えてもその男が今回の件の黒幕だ。つまり男が本当に敵意を向けている対象は、私ではなく早乙女さんなのだ。

「早乙女さん逃げて!!!!」

 遠目にでも分かるくらい、彼女は全身で困惑を表現していた。助けてと言われたから出てきたのに逃げろと言われるわ、鬼気迫った見知らぬ男が迫ってくるわという状況に突然晒されて、体が固まってしまわない人の方が珍しいだろう。

 間に合わないと分かっていても身を起こし男を追う。頭についた虫を払い落としながら走る。ゴキブリを出すのがあいつの異能力なのだろう、早乙女さんがそれをくらうのは絶対にまずい。私は彼女に害虫駆除を依頼されたのだ、絶対に私がソレを倒すと言ったのだ、この期に及んで私はそんな約束すら守れないのか……?

 再び世界がスローモーションになって見える。背中を見るだけで分かるほどの殺意を持って早乙女さんの方へ駆ける男、それに追いつくことの出来ない私、それから……いつの間にか藁人形を持っている早乙女さん。その人形の頭に貼ってある写真は、それは私の写真か……? ……いや違う、違う、いつの間に撮ったんだ?

狐々納苦怨(コンコンノックオン)!!!!」

 放り投げられた藁人形と釘。それが空中で、金槌によって打ち付けられた。その釘は物理法則を無視して人形の胸に突き刺さる。空中に固定されているかのようにしっかりと、深々と打ち付けられる。

 コーン! と不自然なほど良い音が鳴った。

 ぐぶっ、と何かを吐き出すような音がして、男が衝撃波でも受けたかのように吹き飛ぶ。アパートの廊下にて、背中を強打しながら倒れるそいつの頭がちょうど私の足元に来た。

 空中に浮かびっぱなしの藁人形には、やはりそのゴキブリ男の顔写真が貼り付けてあった。と言ってもその写真の中でさえ、フードによって目より上は全く見えなかったけれど。

「な、何なのこいつ……」

 早乙女さんは金槌を持ったまま怯えた表情で、遠目に男の顔を覗く。

「早乙女さん、こいつゴキブリを出す能力者です、離れて」

「ごっ!? ひぃっ!」

 彼女は余裕を持って十歩以上飛び退く。呪いの三種の神器が発光して狐の姿に戻り、颯爽と彼女のあとを追った。

 ヒューヒューとか細い呼吸の音が聞こえる。そうでなくてはさすがに困るが、男は死んだわけではないようだった。それどころかむしろ、まだ喋れる程度には意識と余裕がある。

「ぐっ……禁止だろ……おいっ……!」

 上体を起こした男の前に、私は立ちはだかる。こいつを早乙女さんに近寄らせるわけにはいかないし、この状況で身を守るには彼女の後方支援的な能力が必須であるようにも思う。いろいろな意味で、私が絶対に早乙女さんを守らなければ、この調子だと洒落にならないことになる。

「あんた、誰か知らないけど何が目的なの? 後ろの彼女が何なんだ……?」

「どけっ、邪魔だ!」

 立ち上がりながらの勢いでこちらに飛びかかってきた男の顔面を、私はグーで殴る。先ほどの私も例外ではなかったけれど、やはり大抵の人間は突然の暴力を想定していないようで、素人女子のパンチでもクリーンヒットして男は再び吹っ飛び尻餅をついた。

 しかしそれこそゴキブリのように、その男はしぶとかった。次にその男が立ち上がった時、今度はそのズボンの裾から、うじゃうじゃと何匹ものGが湧いてくる。

 いや、もはやそういうレベルではなかった。

「早乙女さんやばい!」

根怨(ネオン)!」

「ここはペット禁止だろうがぁー!!」

 裾から、袖から、フードから、気味の悪い虫をバラバラとまき散らしながら、男がこちらに迫ってくる。フードが少しだけめくれた瞬間に見えた、ギラギラとした異常者の目が、私なんか気にも留めず早乙女さんだけを見つめていた。

 しかし十歩も引いた甲斐あって、彼女がその男を呪うのには十分な時間があった。

狐々納苦怨(コンコンノックオン)!」

 コーン、と良い音が鳴る。吹き飛んだ男は、今度こそもう起き上がってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いろいろあって、私にも話が整理できた。……早乙女凛音の身に起こったことは一言で言い表して、隣人トラブルだった。

 ゴキブリ男は彼女と同じアパートの隣の部屋の住人であり、ペット禁止の部屋へ狐を連れ込む隣人へ腹を立てて抗議するも本人からは相手にされなかったのだという。そこで大家にその苦情を伝えたものの彼の主張は退けられ、その結果、最後の手段として自らの能力を使い、隣人を追い出すことを画策したのだそうだ。

 あの狐は早乙女凛音の持つ能力「丑の刻参り(サウンドノック)」の一部であり、それを手放すことは不可能だということで、狐の存在はアパートのルールとしても特例的に認められているらしかったが、あの男はそれでは納得しなかったのだという。そしてその末に起こった事件に運悪く私も巻き込まれてしまった……ということになるらしい。しかしそこはむしろ、運良く早乙女さんを助けることが出来たという考え方もできる。

 ともかく今回の件が大事になりすぎて、隣人トラブルの件についてはゴキブリ男の方がしょっぴかれる形で一件落着となりそうだったが……、「納得」といえばそう、今回の一件で私はまさに「納得」を与えるために、いろいろな大人と接することになってしまった。学校の先生だとか、親だとか、警察だとか……。

 拳にせよ異能力にせよがっつり暴力を振るってしまったことで、私と早乙女さんを中心に、いろいろな大人たちがちょっと……というかかなりもめた。最終的に法的な責任は問われないことになったけれど、それはめでたいにしても、今度は何でも部の存続がいきなり危うくなってきたという事実と向き合っていかなければならない……。

 ……と思いきや、今回の例に限っては予測不可能かつ突発的かつ正当防衛であったということで、先生たちの好意によるイエローカード的な厳重注意でもって、部解体などの具体的なペナルティは無しという結論を出してもらえることになった。だから先生たちの寛大な対応には本当にひたすら感謝している。特に、何でも部発足の教師陣における言い出しっぺだったせいで色々と大変なことになっていたらしい二鍵先生には、本当に大きな迷惑をかけてしまった。「無事でよかった」とは言ってくれたけれど、申し訳なかった。

 けれども、申し訳なさで言えばそれとは比べ物にならないくらい、いくら感じても感じたりない相手が私にはいた。警察沙汰がひとまず落ち着いたのはその日の夜中だったのに、彼は私の家まで駆けつけて来てくれたのだ。

「嘘つき! 嘘つき……!!」

 顔中涙でぐちゃぐちゃにして現れた砂切を見た時、あぁ話がねじれて伝わっているのだろうなと直感した。絹川ヨルがやばい男に襲われただとか、暴力沙汰の事件を起こして警察に連れていかれただとか、そういう不安を煽る伝え方をした人間がどこかにいたんだろうと思う。

 けれど、私が彼との約束を破ってしまったことには変わりなかった。言い訳の余地もない。危ないことはしないでねと、あれだけちゃんと言われていたのに、しかも何度も言われていたのに、その日のうちに彼を裏切ってしまった。

「ごめん砂切くん……本当にごめんなさい……。心配かけてばっかりでごめん……」

 もうしないとか、次から気を付けるとか、私はもはやそういう言葉を使える立場にはない。砂切に対してただ謝り続けることだけが私に出来ることの唯一だった。

 そしてその最中に、私は不真面目にも母の言葉を思い出していた。「人と関わりたくない」。……母がそう言ったのは、人と関わることによって、こういったことが起こり得るからなのだろうか? 私は初依頼を受けた今日という日にさっそく、身をもって母の歴史を繰り返したのだろうか。

 嘘つき、危ないことしないって言ったのに、気を付けるっていったのに……。涙声でしゃくりあげながら砂切が私をなじる。私はそのたびに謝ることしかできない。彼と違って涙なんかこぼれず、感情さえほとんど出せず、ただただ謝罪の言葉を並べることしかできない。それが、私が私の気持ちを表す本当の精いっぱいだから。

 すると砂切は最後に、ひとしきりなじり終えた後で、とても彼のものとは思えないような冷たい声で私に宣告を突き付けた。

「もういいよ、絹川さん」

「…………」

「もう、気を付けなくていい」

「……ごめん」

 愛想を尽かされた、と悟った。けれどその事実を、悲しい終わりを、いくら噛みしめても、いくら理解しようとしても、私の心はおそろしく凪いでいた。

 あぁ、ダメだったかと。好きになってもらえたのに、結局ダメだったかと。そう思ったところで、涙も悲しさも私の中からは湧いて来てくれない。当然怒りもない。ただ「あーあ、残念」という他人事のような気持ちで、心の中が一面真っ白に染まっていくかのようだった。

「絹川さんはこれから好きなようにしていいよ。危ないことでもなんでもやっていい」

「……うん。ごめんなさい」

「これからは僕が絹川さんのこと守るから」

「…………はっ?」

 後から思えば失礼極まりないけれど、その時は本当に耳を疑ってしまった。

「なんて……?」

「僕が守るから、もう気にしなくていいよって言ったの。……たくさんごめんって言ってくれたから、怒ってたけどもう許します」

「…………」

「絹川さん……?」

「あ、ありがとうっ。砂切くん、砂切くんありがとう……!」

 悲しいという感情を知らない人間にも、嬉しいという感情はある。「許す」と言われた瞬間、私は、抑えることのできない変な笑いに感情をジャックされたかのように、喜びが止まらなくなってしまった。おいしいものを食べた時みたいに、えへへあはは……なんだか自然と笑えてきてしまったのだ。私の感情はしばしば、そんな風に逆説的だった。

 結局その日は夜遅かったこともあり、母や常日さんが言い出したことで生まれた流れによって、いつの間にか砂切が絹川家に泊まっていくことが決定したのだけれど、その時のことはまたちょっと別の話になる。

 ……一方、翌日の放課後。早乙女さんは本当に何でも部に現れた。心の距離感を測りかねる私に、彼女がまた「座っても?」と聞く。それで何かがほどけたような気がして、二人でまた「どうぞどうぞ」と着席を勧めた。ただし砂切は、少しだけムスっとしていたけれど。

「お久しぶり……と言っても、昨日ぶりですわね」

「長い一日でしたから」

「ええ、本当に……。……絹川さん、ありがとうございました。お世話になりましたわ」

「いえいえ」

 深々と頭を下げる先輩を見て、こんなに人から感謝されたことは初めてかもしれないと感じた。まさか、その感覚の虜になるわけではないけれど。

「何の恩も返せないのが申し訳ないですけれど……」

「ボランティアですからね、この部は」

「そうですわね……」

「……でも一個だけ聞いてもいいですか?」

「なんでしょう?」

 それは私が大人たちにあれこれ聞かれていた時、のんきにもその合間に考えていた推理だった。

「ネオンが見た人の顔を、藁人形に貼る写真に出来るんですか?」

 昨日の夜ちゃんと話したはずなのだけれど、それでも砂切が「何のこと?」というような顔をする。私の解説が下手だったのかもしれない。

 一方で早乙女さんは、「まぁ」と口に手を当てて驚いた。

「よく分かりましたわね」

「あのタイミングで写真が出てきたことに、それ以外考えられませんでしたから。……ただ、そうすると一つ謎なんですよね」

「謎?」

「ネオンが写真機を兼ねているなら、なぜここで私と砂切の写真を撮ったんですか?」

 早乙女さんはその時初めて、悪女のように少し毒を含むニュアンスで、ふふっと短く笑った。

「あぁ、それはネオンをおいてきてしまっているからですわ。さすがに学校には連れてこれませんから。……つまり昨日警察にも言った「ネオンと離れられない」は嘘ですわ。誰もわざわざ調べようとは思いませんでしょう」

「えぇー……」

 警察にも大家にも、ゴキブリ男にだってそう言って弁明していたのではなかったのか……? 調べられればバレるような嘘を、その場その場でずっと堂々とついてきたのだろうか。ものすごい精神力である。実際にバレていないことがまたすごい。

「ネオンはわたくしが望めば傍に来てくれますけれど、さすがに三駅も離れるといけませんわ。だからあらかじめ写真を用意させてもらったのです」

「なるほど。ありがとうございます、すっきりしました」

「いえいえ。……それではわたくしはこれで失礼しますけれど、今の話も含めて「脅し」はまだ効いていますから、くれぐれも余計なことは喋らないように、お願いいたしますわね?」

「もちろんです」

 大の男が吹き飛んで気を失うような呪いの威力を見せられて、誰が逆らうものか。

 どれだけ物騒な騒ぎがあっても、泣きそうになっても、過呼吸気味になっても、決して崩れなかった縦カールをみょんみょんと揺らしながら、早乙女凛音先輩は部室を後にした。

 ……しんと再び静まり返った教室で、砂切が問いかけてくる。

「初依頼、無事達成だね」

「無事だったかな……」

「無事だったの! 無事達成、ばんざーい!」

 一番何もせず、一番精神をすり減らしたであろう砂切が、大きく両手を上げる。そして「ほら、絹川さんも」と目で促してくる。ば、ばんざーい。

「それで、お母さんの気持ちは掴めた?」

 確信に迫るようなことを突然聞かれて、両手を上げたままちょっと身構えてしまった。

「ちょっとはね」

「そうなんだ」

「……だからもうやめたら? っていう話?」

「えっ、ちがうよ」

 本気で心外そうな声で否定する。そして今までの砂切からでは考えられないような表情を、彼はまるで聖母のような表情を浮かべた。あんなに臆病な砂切なのに、ていうか男なのに。

「絹川さんは絹川さんがしたいことをしていいんだよ」

「砂切くんが守ってくれるから?」

「うん」

「……じゃあそれを当てにしちゃおうかなー」

「どうぞどうぞ」

 その自信がどこから来るのか私にはさっぱり分からない。そしてそれを教えてくれと言ってみても、なぜか砂切は頑なにそれを教えてはくれないのだった。まぁ言われるまでもなく、彼の持つなんらかの能力が関係しているのだろうとは思うけれど。

 実は何かものすごく複雑な概念系の能力で、概要を説明することが難しかったり、説明した時点で効力を失ってしまったりするものなのかもしれない。聞いても聞いてもとにかく絶対に答えてくれないので、今日の昼休みを最後に私はもうそこへの諦めをつけた。守ってもらえるならそれでいいか、と。

 そして不謹慎だけれど、いつか私のピンチに彼の能力が明かされることを、密かな楽しみにすると決めたのだった。

 

 




N紹介
・「丑の刻参り(サウンドノック)
所持……早乙女凛音(さおとめ・りんね)(早乙女・フォルマリア・利世(りぜ))
能力……対象の顔写真を貼った藁人形に釘を打ち込むことで任意のダメージを与える能力。その気になれば殺傷力もある。藁人形と釘と金槌の三点セットは普段「根怨(ネオン)」という名の不死の狐の姿となっており、任意のタイミングで狐を呼び寄せこのNを使用することが出来る。また、狐は「変身時、瞳に映した者の写真を用意する」という補助能力も併せ持っている。
 狐々納苦怨(コンコンノックオン)というかけ声は、実は能力発動には一切必要ない。けれど呪いを模した能力である以上、気持ちの面は重要なことである。



・「侵略の黒星(ブラックスター)
所持……早乙女の隣に住んでいた男。
能力……体の一部をゴキブリに変えて操作する能力。大きな部位を変えるほど巨大なゴキブリを生み出せるが、ゴキブリに与えられたダメージはこのNの持ち主にも反映される。ただし反映されたダメージは能力を解除することにより瞬時に回復できる。またついでのような効果として、この能力を所持した者は、元々がどんな潔癖症であろうともゴキブリに対する嫌悪感だけは完璧に克服される。
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