ミトに至る倒錯   作:氷の泥

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06 梅雨が来る

 一階の端、下駄箱から最も遠い位置。一年D組の横にある空き教室は、妙に掃除が行き届いていた。砂切いわく埃臭くないらしい。私にはそういうのはあまり分からないけれど。

「誰かが掃除しておいてくれたのかな」

「そんなことある……? だとしたらすごく申し訳ないな」

 空き教室の掃除なんてそれこそ、ストレスを感じない人間に最も向いている「気合いで何とかなること」じゃないのか。言ってくれればやるのに。

 D組横の空き教室というのは、かつては五クラス目、E組として使われていた場所らしい。しかし諸々の事情があって、最近では一学年四クラス編成が基本になっているのだという。そういった背景がなければ今自分の頭上にある空調設備もなかったのかと思うと、かなりの強運で命拾いをしたものだと感慨深く思えてきた。

 空き教室の中心には何も無く、捨て置かれた場所らしい殺風景な雰囲気が広がっている。そのかわり部屋の四隅には使われていない椅子や机が積まれていた。二人でそれを一つずつ引っ張り出してきて、とりあえず自分の席にする。砂切は普段の生徒の席配置に倣ってか、私の出してきた机と自分の机とを密着はさせずに、少しだけ距離を取った。

 二人で教室の入口に向き合う形……つまり窓を背にする向きで着席する。他の教室と同じように今いる部屋にも出入り口は二つあるけれど、黒板を基準とした場合の前方の扉に向かって、そちら側から人が入ってくることを想定して陣取った。

 いつもはごく普通だと思っていた教室が、たった二人でいるといやに横幅のある部屋だと感じてしまうものだった。

「あ、そうだった」

 任務を思い出した砂切が、指定カバンの中から、裏から表の色が透けて見えるほどペラペラの紙を取り出して廊下へ出ていく。私もそれに続いた。

 素材的に教室の扉には画鋲等が通らない。ということで、それはセロハンテープを使って貼りつけられた。

 

「何でも部 OPEN」

 

 何か明るくてオープンな雰囲気を出そうと思った末に、その文字の周りには花が咲いていた。砂切の書いた桜の絵があった。しかしいざ貼り付けたところを見てみると、絵は普通に上手いものの……。

「なんか、パン屋みたいだ」

「たしかに」

 しかし朝は営業していない。

 空き教室……もとい部室に戻って椅子に座り直す。私も自分が持ってきたアイテムを思い出してカバンから取り出した。

「じゃじゃーん、見てこれ」

「……名簿ノート?」

 表紙に油性でタイトルを書かれた、何の変哲もない大学ノート。それが何でも部における唯一の仕事道具とでも言うべきアイテムになる。

「依頼が来たら、依頼してくれた人の名前や所属をここに書いておこうと思います」

「おー」

「人の名前を覚えるのが苦手すぎるから、書いておかないと……」

 単純に記憶力が弱いのか、それとも本当に他人に興味がないのか、とにかく私は人の名前を覚えることが苦手だった。人懐っこさの対極にあるような持ち前の雰囲気と合わせてその性質が露呈してしまうと、なおさら「あぁこの人は他人が嫌いなんだな」という印象を与えてしまうので良くない。

 実際は「他人」という存在にそこまで悪印象があるわけでもないし、仲良く出来るものなら仲良くしたいと思っている。ノートに書いて覚えておこうという意思がまさにその証明だ……と思っていたのだけれど。

 普段の教室と同じように少しだけ離れた隣にいる砂切が、思いのほか不安そうな顔をし始めた。

「え、絹川さん……僕の名前覚えてる?」

「すなきりながれ」

「よかった~」

 ナメられすぎだろ! と言いたいところだけど、もしも砂切が向こうから話しかけてきたりとんでもない自己紹介をしたりしていなければ、たとえ隣の席のクラスメイトでも名前を覚えていなかった可能性が高いので、何も言い返すことが出来ない。

「逆に砂切と担任の名前以外、クラスの人の名前を全部忘れているかもしれない」

「えっ、やば。……あー、でもまぁ絹川さんあんまり他人に興味なさそうだから、それでかぁ」

「そう思われたくないので、このノートを使います」

「あ……ごめん……」

「いいよ」

 性格的にそう思われたくないというよりは、客商売的にまずいという意味合いが大きい。だから別に誰から何と言われたところで、究極的には部の活動に影響が出なければなんでもいいのだけれど……。

 しかしそれはそれとして意外だった。砂切の目から見ても、やっぱり私は「そういう人」に見えるらしい。それが明らかになることで、初対面時の砂切の胆の座り方がなおさら強調されていった。

「で、最終下校時刻まであと一時間あるわけですが」

 他の教室と同じように取り付けられている壁掛け時計を見る。スマホと照らし合わせてもその時計にズレはなく、カチカチという音とは無縁な滑らかな動きで秒針が動いていた。窓の外では運動部の人たちが練習に勤しんでいて、頻繁にかけ声も聞こえてくる。

 ……廊下に人の気配はこれっぽっちもない。

「しりとりでもする?」

「えー……」

「じゃあ砂切くん何か面白い話して」

「……この前お姉ちゃんと買い物に行った時のことなんだけど」

「おお」

 生まれつきの異能力ゆえの平静さを保ちながら、しかし静かに驚く。まさか今の無茶ぶりを受けて話し出すとは思わなかった。メンタルの強さというアイデンティティを砂切に取られてしまう。

「近所の家の窓からネコが外を見ててね、それで思い出して、ビニール袋とか大きい石とかを野良猫に見間違える話ってよく聞くよねー、って話しながら歩いてたの。そしたら遠くの方に、茶色いネコが丸まってるように見えたんだよ」

「おー、なんだったの?」

「半ズボンでベンチに座ってるおじさんの足だった」

「草。遠目すぎる」

「くさ?」

「うん」

「くさってなに……?」

「あっ……」

 走り込みをしているテニス部女子たちの、エイオーエイオーみたいなかけ声が迫って来ては遠ざかって行った。

「えーと、草というのはなんというか……ネットスラングで、笑ったみたいな意味なんだけど」

「へ~。絹川さん物知りだね」

「うん……そういうわけじゃないけど……」

 煽りで言っているわけではないことが目を見れば分かった。そして、それで一つ話題を思いついた。

「今度は私から質問なんだけど」

「うん」

「砂切くんって、いい歳して子どもの作り方を知らない女性のことどう思う?」

「えっ……なぜそんな話題を……?」

「なんとなく」

 私はその手の女性(男性もだけど)を過度に尊ぶ文化というか、純粋だ何だと言ってもてはやすノリが嫌いだった。偶然知らないだけのことは、偶然知っているだけのことと同じくらい、何も偉くないと思っていたから。

 けれど今、もしも砂切がニコニコ動画のコメント欄みたいな喋り方をするようになったら……ということが頭をよぎって、それだけはどうかやめてほしいと思ってしまったので、これが「純粋なままでいてほしい」という気持ちなのかもしれないと気付きを得たのだ。

「なんとなくって……。……なんか誰かのこと指してたりしないよね? その話」

「しないしない」

「どこかにはいるかもしれない、赤ちゃんを運ぶコウノトリの存在を信じている人の話ってこと?」

「そうそう」

「うーん……」

 机に両肘をついて何かの司令官みたいなポーズを取りながら、砂切は思いのほかじっくりと悩み始めた。そんなに真剣に考えてほしかったわけではないのだけれど。

「……サンタさんの正体を知った日のことを思い出す」

「え?」

「コウノトリを信じている人も、いつかは絶対に本当のことを知ると思うんだよね。子どもがサンタさんの正体に気付く日みたいに」

「ほう……?」

「絹川さんはいつ知った?」

 記憶を振り返ってみる。私だって物心ついた時からサンタの実在を疑っていたわけではないように思うけど、中学に上がるよりも前に本当のことを知っていたような気もする。どこがターニングポイントだったのかまでは思い出せない……。

「覚えてないかも、言われてみると。そんなにショックじゃなかったのかもしれない」

「僕は何かの拍子に、おもしろ子育て日記みたいな物を読んでた時に知っちゃったんだよね」

「あ、それはつらい」

 たしかにツイッターのトレンドでも見ていれば、特に興味がなくともその手のコンテンツに触れることはあるかもしれない。何の変哲もないアニメにそういった展開が入ることだってあるかもしれないし、「サンタを演じる側目線」のコンテンツはどこにでも転がっている物だと思われる。

 でも、そうだ私は少なくとも、そういうルートで真実にたどり着いたわけではなかったような気がする。たしかもっとこう、教室の中で「まだサンタなんか信じてるのかよ! だっせー!」みたいな話を聞いたことがあったような……。

「なんかあの……えっ? って読み返す感じ? 犯人しか知らないはずの凶器について、主人公の相棒がさらっと口走ったみたいな」

「うんうん」

「本当のことを知っているのが大前提で、当たり前みたいな雰囲気があって、それがすごくショックだったんだよね。……コウノトリを信じている人もいつかそれを体験するんだろうなぁと思うと、心が苦しくなるよ」

「なるほど……」

 言われてみれば、確かにそうだった。誰もが知っている真実に気付くことが遅れれば遅れるほど、その時に起こる驚愕や衝撃に、誰も寄り添ってくれなくなる。それはすごく悲しいことなのだろう。……私にはよく分からないけれど。

 私の知る限り、普通の人というのは、感情に寄り添ってもらえないことで深刻なダメージを受ける生き物だ。砂切の話はその認識とちゃんと噛み合っている。

「逆に絹川さんは、キスしたら子どもが出来ると思ってる男性とかいたらどう思う?」

「馬鹿じゃないのって思う」

「無慈悲~」

 自覚している。だから人を慰めることと、無知な人に優しく真実を伝えることだけは、何でも部の依頼としてもプライベートのお願いとしても持ち込まないでほしい。それは「気合いでなんとかなること」じゃない。

「砂切くんは優しいんだね。慈悲深い」

「いやそんなことはないけど」

「今の話を聞いてたら明らかにそうだったでしょ。……部長やる?」

「やらない!」

 砂切は肩書きにこだわる。優しい人間ほどプレッシャーには弱いのかもしれない。それと、あえて口に出すようなことはしないけれど、彼の優しさは人類の半分にしか適用されないのだろう。

 誰一人空き教室の扉をノックすることはないまま、お喋りだけで時間が過ぎていった。そもそも、ここが今やただの空き教室ではないということを理解している人自体、何人いるのかも定かではない。いないのかもしれない。

 唐突に、外の光を光源としていた部室が陰る。おや、と思って窓の方を見ると、運動部の人たちが急遽の撤収準備をしていた。……雨だ。

「絹川さん傘持ってきてる?」

「いや?」

「あらら……」

 徒歩で十五分の道のりくらい、走ればなんとかなるだろう。雨の勢いもパラパラと大したことのないもので、そんなに気にするほどのことではなかった。

 ただ、それをきっかけにスマホでカレンダーを見る。もう六月がすぐそこまで来ていた。梅雨か……。一度この時期にコンビニで傘を盗まれてから、梅雨にあまり良い印象がない。

 強くはない雨が、しかしグラウンドの土の色を変えていく。一時避難してきた部活の人たちの活気で、廊下の外は一応ガヤガヤと賑わってはいた。誰一人としてこの部屋の扉を叩く者はいないけれど。

 その後も私と砂切は、律儀に最終下校時刻まで待った。しかし雨は止まず、人も来ない。いよいよ帰ろうかという段取りになったところで、砂切がカバンから折りたたみ傘を取り出した。

「あぁ、妙に余裕だったのはそれね。準備がよろしいことで」

「うん。いつも持っておいた方がいいよって、お姉ちゃんが」

「なるほど、その通りにするとはいい子だ」

 私も似たようなことを常日さんに言われていた。折りたたみ傘を持っていることを忘れて濡れて帰った日に「やめよう」と思ってからは、その助言をつっぱねている。

「……一個しかないんだよね」

「お姉ちゃんが一人しかいないから?」

「いやお姉ちゃんは一人しかいないけども。…………入っていく?」

「あ」

 そうか、とその時初めて気が付く。砂切くんは、彼も一応男の子だから、人の心が分からない絹川ヨルが「じゃあ走って帰るわ! あばよ!」と駆け出していくところを、元気だなぁと見送るわけにはいかないのだ。

「じゃあお言葉に甘えて」

「ん」

 廊下に出ると、もうすっかり湿気た空気があたりを覆っていた。砂切が「CLOSE」と書かれた太めの付箋を例の紙の上に貼っていく。

 大体身長が同じ二人で、一つの傘に入って学校の門を出る。傍目には仲の良い女友達同士に見えるのだろうか……と私がどうでもいいことを考えている間、砂切はずっと思いつめたような顔をしていた。自分の傘に女友達を入れる男子の気持ちなんて、私には分かるわけもない。

 しばらく歩いていると、ふと途中で、砂切の肩が濡れていることに気が付いた。私は日本の悪しき風習を感じ取る。

「砂切くん、肩めっちゃ濡れてる」

「あっ、ご、ごめんっ」

 ずい、とこちら側に傘を寄せてくる。

「いや違う、君の方」

「あ、僕はいいよ。大体いつも濡れてるし」

「んなわけないでしょっ。私は借りてる側なんだから、どちらかといえばちゃんと自分のために傘を使ってよ……!」

「いやいやいや! なかなかない機会だし、自分の肩くらいまた今度守るから……!」

「今守って!」

「絹川さんが自分の肩を守ればいいでしょ……!」

 傘の押しつけ合いが始まる。肩が雨に濡れるだなんて、冷静に考えたらかなりどうでもいいことなのだけれど、そういったことはお互いの尊厳の問題であった。

 誰だったのかな、こういう状況で相手のことを思える人なら自分の肩が濡れているはずだ……みたいなことを言い出した馬鹿な人は。そういう「圧力」をやたらと無駄に発生させてしまうところは、日本人の欠点だと私は思う。

「そんなに濡れたいなら…………いただきっ」

 私は砂切の手から傘をひったくり、パパラッチのカメラを盗んで走るどこぞのハリウッド俳優のように逃亡を図った。無駄な圧力を消すには、私のような人間が全てをうやむやにしてしまうのが一番良いと思ったから。

「ちょっとー! 返してー!」

 追いつく気があるとは思えないちょこまかした走り方で、傘の持ち主がひったくりを追いかけてくる。今日一番楽しそうな顔をしながら、ぱしゃぱしゃと足元の水を跳ねさせて。

 スキップするような歩調で逃げながら、私は久しぶりに、頭を空っぽにして笑った。

 

 

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