ミトに至る倒錯   作:氷の泥

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07 ファーストテイク

 気温という物を感じなくなる時がある。極度に暑いか極度に寒い時にそうなる。連日の雨が止み、晴れたかと思えば気温の感じられない日が来て……と、私にとって六月とはそういう時期だった。

 相合傘をした日と同じような思いつめた顔をする砂切を、今月に入ってからよく見るようになった気がする。授業中も休み時間も放課後も、いつも忘れた頃にそういう顔をするので、私も彼が何を考えているのか日に日に気になっていった。でも、「なにを考えているの」と聞いたりはしない。そんな意味のないことはしない。

 私でさえ、本心を隠すべき時は隠すから。そして隠す必要のない時は隠さないから。それは、私でなくても誰でもそうだろう。母の過去を詮索しないようにすることと同じである。

「えいっ」

「ひゃっ」

 雨の音を聞きながら、誰もいない空き教室で砂切の頬をつついてみた。すると思っていたよりぷにっとした。そういえば人の頬をつつくのは初めてだった。

「な、なに……?」

「そんな怯えた顔しなくてもいいでしょ」

「いや怯えてはないけど、びっくりして……」

 下校時刻まではまだ長い。今日も依頼者は来ないだろう。昔の母はいったいどうしていたのだろうと思いを馳せる機会が増えた。餌のついていない釣り針を垂らしているような気分になるのだ。

「砂切くん、最近なにか考え事してるでしょ」

「えっ、あーうん、まぁ、してる」

「私も考えてるんだ」

 光明を見つけたかのように、砂切が期待をこめて私の瞳を覗き込んだ。どう見つめたって、そこにはただ人を威圧する目があるだけなんだけど。

「どうやったらお客さんが来るのかなーと」

「あぁ、たしかに」

「本当に誰一人来ないと、現実が見えてくるね」

 いにしえのオタクが、自分のブログのアクセスカウンターを一人で回すように、日ごとに現実を知る。そして希望を抱いてしまう。待っていればいつかは誰かが来てくれるんじゃないか。あるいは、何か少し工夫をすれば、やっぱり誰かが来てくれるんじゃないか……と。

「考えてみれば僕も、知らない人が同じことをしてたら行かないかも」

「それは私もそう」

「えぇ……」

「でも他人は誰も、絹川ヨルじゃないし、砂切流じゃないんだよ」

「それは、そうかもしれないけど」

 そうだったところで、来ないものは来ないんですよね……。

 維持費もかからず、提出しなければならない報告もなく、ただ空き教室に居座ってお喋りしているだけなので、問題はないと言えばない。誰かを待っていると思うから心残りが湧いてくるのであって、砂切とお喋りする時間を取っていると考えれば、普通に楽しいような気もする。けれどそれはそれこそ、現実逃避なのではないか……?

「あっ、そうだ!」

 砂切が突然立ち上がる。何かなと思って眺めていると、彼は教室の隅に積まれている机と椅子をもう一セット持ってきて、私たちの正面に配置した。……ただしその背もたれは教室の扉の方を向いている。

「お客さん用の椅子」

「あ、そっか」

 盲点だった。心のどこかで、初めから誰も来ないと思っていたのか。それとも本当の本当に他人に興味がないのか……。

 よいしょ、よいしょ、と大変そうにお客さん用の椅子と机を配置し終えた砂切は、ふぅと一息ついて自分の席に腰を下ろした。

「…………」

「…………」

「……なんか余計に来る気がしなくなってきた」

「僕も」

 こちらへ向かって並ぶ無人の席を見ると、それは額縁に飾られた絵のように、一生そのままである気がしてしまった。

「どうする? もう帰る?」

「え、いいの……? もし誰か来たら」

「御用のある方はここに書いておいてください、ってポストを作るとか」

「やる?」

「……やってみるかぁ」

 工作遊びでもしておいた方が、少しは働いている感じが出るかなと思っての決断だった。とはいえ、よく考えると材料の類はほとんどどこにもない。

 というわけで、新品だったノートが一冊「何でも部予約ノート」になった。たった二人しかいない部員が全員不在だった時には、あるいはそうでない時でも、そのノートにクラスと名前を書いておいてもらえれば後日こちらから教室までお伺いする、または指定された日付と時刻に必ず部室にいるようにする便利システムだ。……本当に運用できるのかは分からないけれど。人口数的にも、私たちの練度的にも。

 とりあえずはそれを廊下の外に出す。が、地べたに置くわけにもいかないので、置き台としてもう一つ机を出してくることにした。

「あ、僕が運ぶよ」

 そう言ってまた砂切が、えいしょえいしょと頑張って机を運んでくれる。それを眺めていた私は、今日は帰ったら久しぶりにピクミンをやってみようかなと思った。

「よし、じゃあこの予約ノートの機能実験も兼ねて、今日は帰りますか」

「うん。絹川さん、今日は傘は?」

「ある」

「よかった」

 人の気配がない廊下を抜けて、靴を履き替えて。昇降口の傘立てに差してあった各々の傘を手に取り、私たちはいつものように仲良く下校した。

 翌日の朝、「廊下に勝手に物を出さないでください」と部長と副部長が怒られた。先生というよりは砂切の方に、心の底からごめんなさいを言った。

 

 

 

 

 

 

 

 予約ノート作戦が失敗して、結局部室に籠城するしかなくなった何でも部の部員たち。その貴重な二名の部員のうち一名が、ある朝突然の欠勤を申し出てきた。

「ごめん絹川さん、今日はちょっと用事があって」

「ん、いいよ。一人で寂しく、何をすることもなくぼーっと、ただ長い長い時間が過ぎていくのを見てるから……」

「ご、ごめん……!」

「冗談だよ」

 それを苦と感じる心がないことも、部長が部長たる由縁なのかもしれない。

 よほど急ぎの用事があるのか、放課後のホームルームが終わるなり、砂切は大急ぎで帰っていった。私は一人で部室へ行く。雨雲に太陽を遮られて暗くなったその部屋を、何でも部の発足までしばらく使われていなかったであろう電灯が照らした。

 今日もパラパラと、雨が窓を叩く音がする。椅子と机が三セットも並んだ部屋に一人でいると、否が応でも自分が変人であると理解させられているかのようだった。話し相手までいないとなると本当にすることがないので、適当にスマホでも眺めていることにする。

 ……しばらくの間、カードゲームの戦術アドバイス的な記事を読んでいた。すると段々文字だけでは頭がこんがらがってきて、動画で実際の動きを見てみたくなってくる。けれどそれは通信容量の関係で今は不可能だ。

 いったい何のために私は、Wi-Fiのないこの部屋に居座っているのだろう……? 誰もいない静かな部屋の中、いよいよ疑問に思い始めた時。……コンコンコンと、雨音にまぎれて扉が三度鳴った。

「えっ……?」

 何日も沈まなかったウキが沈む瞬間を見た感覚に襲われる。やったぞ、という喜びではなく、本当に……? と自分を疑う気持ちばかりが湧いてくる。しかし本当に、本当についに依頼者が現れたのだとしたら、絶対にそれを逃すわけにはいかなかった。私はそのためにここにいるのだから。

「はい!」

 ノックに返事をする。すると重い鉄扉でも開くかのように、じりじりと少しずつ、横開きの扉がスライドして行った。

 その先の廊下に立っていたのは、目まで被さるほど長い前髪が特徴的な少女だった。そしてその少女は私服を着ていた。学校内で制服でも体操服でもない服を着た同年代の人間を初めて見たので、若干面食らってしまう。

 少女は一歩教室に踏み込むと、自分の喉をツンツンと指さした。

「喉……?」

 続いて、自分の口の前でパクパクと手を動かす。その後に両手の指でバッテンを作って見せる。……それを二回見せられてやっと意味を理解した。

「あぁ、喋れない?」

 少女はコクコクと頷いた。作り物みたいに綺麗な黒髪が揺れる。

「じゃあ筆談で、まずはお名前とクラスからいいですか……?」

 コクンと頷き、渡されたペンとノートを手に取る。返ってきたノートにはこう書いてあった。一年C組、春川早霧。……まぁ当然と言えば当然、知らない名前だった。

「春川さんは、えっと、何でも部に依頼に来てくれたんですよね……?」

 頷き一つが返される。

「どういったご依頼でしょうか?」

 彼女がペンとノートに手を伸ばすので、それを渡す。私と違って、向こうも向こうで緊張しているのか、よく見ると手が震えているように見えた。

『恋愛相談です』

「どのような……?」

『好きな人がいるのですが、告白していいのか、分からないんです』

「なるほど……」

 心の中で、あくまでも心の中で、……はぁ~と深いため息を吐く。

 来てしまった、初っ端から、気合いではどうにもならない問題が。人間の心の問題が。一番の苦手分野が。

「その相手というのは、この学校にいる人ですか?」

『そうです。同じクラスの人です』

「仲はいい?」

『良い……と思ってます』

「なるほどなるほど」

 そんなアキネイターじみた質問を繰り返したって、気の利いたアドバイスは何一つ思いつかない。というか、他人の恋愛の命運を握る資格が、私にはないような気がしてならなかった。確かに何でもするとは言った、常識の範囲内でとも言った、恋愛相談は常識の範囲内に収まることだろう。しかし……。

 あぁこれが、恥ずかしくて気持ちを伝えられないので代わりに手紙を渡してきてくださいとか、そういう話ならよかったのに……。私にできるのは、そんな内心の憂いを外に出さないことだけだった。

 ただ、そんな素人目にもいくつか把握出来たことはある。まず、春川早霧……彼女は気が弱い人だということ。前髪で顔を隠し、意中の相手との仲を聞かれれば「良い……と思ってます」と回答する人が、気が強いっていうことはないだろう。根拠は、私と正反対だから。

 つまり問題は彼女の「意中の相手」が、そういうタイプの女子を好んでいるかどうかだと思われる。……まぁ仮にその問いに対する答えを見つけられたところで、それだけで彼女に勧めるべき「正解」が分かるなら、誰も苦労はしないのだけれど。

「……ちなみに告白を躊躇う理由というのは、何なんですか……?」

 今まで震える手で、しかしつっかえることはなく言葉を記していた彼女が、そこで初めて動きを止める。ピタリと静止してしまう。何かクリティカルなことが、今の質問の中にあったようだ。

 ……長い時間が過ぎたあと、彼女は再びペンを走らせ始めた。長文だった。

『相手は、私と友達の関係でいたいのかもしれません。私のことを異性としては見ていないかもしれません。告白することで、友達でさえいられなくなるのは、嫌なんです。何でも部の部長さんは、もしも自分がただの友達と思っている相手から告白されたらどう思いますか? やっぱり嫌ですか?』

「……私が告白されたら、ですか」

 真っ先に思い浮かんだのは、まぁある意味では異性として見ることの出来ない男の娘の顔だった。どう見ても美少女にしか見えない隣の席の男子、砂切流。友達だと思っていた異性から告白されることをシミュレーションするなら、まさに彼が適任だろう。

 彼ならそうだな……。初対面の時のようにまったく臆せず、そして意表を突いてくるようなタイミングで、急に告白して来たりするのだろうか。もしも仮にそれが起こったら私はどう思うだろう? 昼休みの教室か、放課後の部室か、帰り道か、また土日にどこかへ遊びに行った時か、それとも満を持して夜中に送られてくるラインかもしれない。いずれにせよ日常のどこかの場面で、突然彼から「好きです。付き合ってください」と言われたら……。

「……これはあくまでも、私の意見ですけど」

 黒髪の向こうで、春川が真剣な眼差しを向けている気がした。

「私だったら、悪い気はしませんよ。好きって言ってもらえたら、それは素直に嬉しいじゃないですか、人間って。……まぁ、それが男性にも共通する感覚なのかは分かりませんけど……」

 と、私が自分の言葉を全て述べ終えるよりも早く、春川は再び深い沈黙に入っていった。

 言ったあとで、私も一つ、ある可能性に気が付いた。もしかして春川が私に意見を求めたのは、「意中の相手」が同性だったからだろうか? と気が付いた。

 そうなってくると話が変わってきてしまうかもしれない。「友達でいたいのかもしれない」の意味だとか、「異性として見ていない」の解釈だとか……。しかし本当にそういう話だとしたら、この話題はいよいよ私の手には負えない領域に入っていって、戻って来なくなってしまう。

 春川早霧は、一つ大きな深呼吸をした。私もそうしたいくらいだった。

『女性は、みんなそうなんですか?』

 見せつけられたその文面に、ほら見ろやばいぞ……と焦る。春川は同性愛者だったのだ。一番ややこしいタイプの話になってきてしまった。どうすればいいんだろう? まずは一度「ちょっと前提を間違えたので、話を巻き戻しましょう」とでも言った方がいいのか? けれど巻き戻したところでどうなる? 女同士の恋愛について私が語れることなんてない。いや異性同士の恋愛にも語れるところはないけれど、しかし一般的な傾向さえ分からないような分野ではなおさら……。

 ……と、頭がパンクしそうになった、その最中に。ある違和感が、混乱の中に穴のように際立って浮かび上がった。

 女性はみんなそうなんですか、とは、……どういう意味だろう? 私がそうであるように、春川早霧だって女性なのだから、「女性の気持ち」はわざわざ他人に聞く物ではないはず。……じゃあ、どういう意味で聞いたんだ?

 

 

 

「絹川さんは」

 

 

 

「……えっ?」

 その声がどこからやってきたのか、一瞬分からなかった。よく聞きなれた、その女のように高い声が、いったいどこから発された物だったのか。

 恐怖も驚愕も感じないはずの私が、ぞくりとした。

「絹川さんは、告白されたら本当に嬉しいの……?」

 春川が自分の髪を掴んで、それを引きずり下ろした。髪の下から、また髪が出てくる。

 偽物の前髪に隠れていた目は、今にも泣きだしそうにうるんでいた。

「…………帰ったんじゃ、なかったの?」

 場違いな、月並みな言葉。それが私の内側からせり上がってきた唯一の、正体を現した「砂切流(すなきりながれ)」に対する、咄嗟の、なんとか絞り出した一言だった。

 改めて見ると、念入りなことに、彼はここへ来る衣装として、スカートではなくズボンを穿いて来ていた。私服の人間が現れたことばかりに気を取られて、知らない女子がズボンを穿いていたところで何ら注目はしていなかったけれど。

「帰って、また来た」

「そ、そっか」

 状況を飲み込むのに時間がかかる。「「春川早霧」は「砂切流」だった」。ということは、変装? 偽名? ……なんで? 何のために? 用事があると言っていたのはどうなったんだ……?

「絹川さんはこの前、僕に優しいって言ったよね」

「え、う、うん。言ったかもしれない。……あぁそうだ、サンタの話をしていた時に」

「絹川さん」

 砂切が、ただ正体を一時隠すために持ってきたウィッグを握りしめて、感情の中から言葉を絞り出すように言う。

「僕にこんなに優しくしてくれる人は、絹川さんだけだよ」

「……へー」

 頭が真っ白になる。焦る、焦る。未来が頭に雪崩込んでくる気がして、焦る。言葉を選ぶ余裕もなくなるくらい。

「した……っけ? 優しく……?」

「してくれたよ」

「おー、それは、あんまり心当たりはないけど、まぁそう思ってくれてたならよかった」

「うん、ありがとう。いっぱいありがとう絹川さん。……でも」

 どうして彼が泣くのか、私には分からなかった。

 ……人の心がないからだ。痛みが、分からないから。誰の痛みも、二ヶ月近くほとんど毎日話してきた、ただ一人の友人の痛みも、理解してあげられないから。

「これ以上を望むのは、ダメなことなのかな……? 絹川さん、僕なんかが……」

「いや、これ以上っていうのは……?」

「これ以上は、これ以上だよ……! 絹川さんのことが好き……! 好き、本当に好き。友達以上になりたい! もっと特別な関係になりたい……」

「……マジか」

 咄嗟に口をついて出たのは、そんなくだらない三文字だけだった。

 君の精一杯の言葉を受け取って、そんな短いリアクションしか出てこない女のどこがいいのか、私には分からないけれど。……でも、彼が冗談でそれを言っているわけではないことは、誰がどう見ても明らかだった。それくらい私にでも分かった。……そして私は、意味もなく嘘はつかない。

「砂切くん」

 その女はこんな時にまで、いつもと変わらないトーンでしか喋れないものだった。ストレスを感じないだとか、そんなことは関係ない。純粋に本人の性格の問題として、ただ人としての何かが欠けている。

「はい……」

「私でよかったら、その、…………この先ももっと好きになってもらえたら、嬉しいです」

 勝手が分からず、思いつくがまま彼に両手を差し出した。テレビの見すぎだとまた誰かが笑うかもしれない。でも、どうしろというんだろう。私が人の気持ちを知るには、テレビでも何でも、ただ人のことを見る以外に方法がないのに。

「……えっ? えっ……?」

 顔のまわりにたくさんハテナマークを浮かべたまま、彼はそうしてしまってもいいのか分からないといった様子で、おそるおそる私の手に触れた。

 その手をしっかり握る。女の子みたいに細い指と、男の子のくせに頼りない手のひらから、人の熱を感じる。

「だから分かりやすく言うと……。……砂切くんの彼女になってあげるから、私の彼氏になって……?」

 なんでそういう言い方しか出来ないのだろう。ストレスを感じなくたってなんだって、喜んだり嬉しく思ったりすることくらい、人並みに出来てもいいのに。

 けれど砂切は、そんな私の言葉を聞いて、泣いて喜んでくれた。泣きながら、それはそれは嬉しそうに笑っている。

「本当に……? や、やった……! あはは、やった! えへへへ、あれ、なんで僕泣いてるんだろう……? 嬉しいのに、なんか全然……止まんない……えへへっ」

「あらら、なんでだろうね」

 これから先、それを理解して行きたいと思った。涙をぬぐってあげると、彼は恥ずかしそうにまた笑ってくれる。

 本当に、悪い気はしなかった。

 

 

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