呪術廻戦にP5のジョーカーぶち込んでみた 作:全てのイシを拾イシ者
13.
真人は焦っていた。このままでは己は、如何に動いても動かずとも死ぬと、焦燥に駆られていた。
三対一という不利な状況に加え、おそらく己よりも強いであろう特級術師の存在が、更に拍車を掛けていた。
だが、自身が呪いである事が幸いし、かろうじて命を繋いでいた。真人が人間であれば、撃たれた時点で死んでいた。
真人は通常の手段では死なない。それは呪いとしての特性ゆえのものではない。真人は『魂の形』を如何様にも変化させられるのだ。それを『保持』し、不変のものとして、己にかかるダメージを無効化する事も出来るのだ。
たかが銃撃ならば、真人の術式と呪力による防御があればどうという事はない。これは実際に、そこら辺にいた警官が携帯していた拳銃・SAKURA M360Jで実験し、得た結論だった。警官がどうなったかなど、語るまでもない。
「やっりィ! 作戦、上手くいったな!」
「ああ。これも、順平が全てを話してくれたお陰だ」
だがジョーカーの攻撃は通った。叛逆の魂たる
これが普段の銃弾であれば効果は半減していたが、節約のためマガジンから弾を抜いていたので、その銃弾はジョーカーの呪力そのものとなり、十全にダメージを与えられた。
だがそれを知らぬ真人は、幾度も逡巡していた。あまりにも不可解だった。理解と激痛に苦しんだ。
既に頭部の修復は完了している。だがそれが何になる。
三人に囲まれ、内一人は特級術師。
絶望的状況は、どう足掻いても覆せない。
(クソ……クソ、クソ!!
……雨宮、蓮!!)
「礼を言うのは僕だ。この恩は一生掛けて返すよ」
「律儀だナー」
「はは。
さて、あとはコイツを完全に──」
だが真人は忘れていた。己は独りではないという事を。
頼れ、信じられる仲間達がいる事を。
生来、人は厄災を恐れてきた。
人は大地の憤怒を恐れた。
人は大自然の暴食を恐れた。
人は大海の嫉妬を恐れた。
人は大空の傲慢を恐れた。
そして人は、他ならぬ〝人〟の底知れぬ強欲を恐れた。
光明が差す。
暗き大空より出でし傲慢。夏油が念の為連れていた
そして真人の、誇らしく頼もしい仲間の一人だ。
「退け!!」
「なっ!?」
真っ黒の服に布作面を被る昊噓。学校の天井を破壊し尽くし、荒れ狂うハリケーンの目となって、一直線にジョーカーへと向かう。
ジョーカーはというと、残る人間二人を押し除け、昊噓から距離を取らせていた。昊噓から滲み醸すその膨大な呪力を、ジョーカーは自身の気配察知能力にて敏感に感知していたのだ。
そして、その膨大過ぎる呪力ゆえに、二人を巻き込めないという事も。
一人と三体がいる二回の踊り場に昊噓は降り立つ。狙うは怪盗、ただ一体。
溢れ出す傲慢の余波は、仲間も敵も見境なく吹き荒ぶ。目の前の敵に、視線と意識が奪われていた。
「クルスアキラアアアアアアアアア!!!」
「な──────!?」
だからだろうか……否、故にこそ。
昊噓は己の内なる衝動に絆され、自身が知る彼の名を、咽喉が掻き切れんばかりに叫んだ。
ジョーカーの顔面を掴んだ。果たして、校庭側にいた悠仁らとは真反対の、狭い中庭方向に体ごと押し付けられ、瓦礫と崩れ行くコンクリート壁と共に吹き飛ばされた。
それを隙と見た真人もまた、唖然とし、棒立ちとならざるを得ない虎杖悠仁へと襲いかかる。狙うは心臓、当たれば即死。深い嗤いを浮かべて、真人は己の術式を解放する。
「悠仁──っ!!」
「《
術式の細部を知っている吉野順平は、近寄らせまいと悠仁を庇おうとした。互いの距離はほぼ同じ。しかし悲しいかな。身体能力は、真人に軍配が上がる。
順平の奮闘虚しく、悠仁はその血糊に赤く染まった胸部を、真人に触れられてしまった。
真人の術式は《
真人の狙いは、両面宿儺に虎杖悠仁が不利になる縛りを設けさせ、自身の仲間に引き入れる事。その第一段階である、宿儺との対話を──
「俺の魂に触れるか」
「──!!」
瞬間。真人の世界は、両面宿儺の世界によって塗り潰された。
血のように生緩い感触。骨のように硬い地。積み重なった牛頭の山。
その頂点に、王はいた。
「だが、先は良い演目だった。お前の醜態は存分に笑えたぞ?」
宿儺はどことなく上機嫌だ。対話に臨むなら今しかない。
……だが、体が動かない。動く事を、彼は赦してはくれない。
それもそうだ。今の真人の状況は、アポイントメントも無くノックもせず、土足でテリトリーに踏み入ったのと同義。宿儺による無礼千万極まりない不届きの罰を受けていない
「今の俺はすこぶる気分が良い。
故に此度は赦そう。
だが次は無い」
──そのカリスマが、その重力が、その存在が。
あらゆる『他』に呼吸を赦さない。
はっとなり、真人は現実に引き戻される。無事で呼吸出来ている事に安堵している自分がいる。
誰が咎められようか。たかが指三本程度の実力しかないのにも関わらず、身じろぎ一つでもすれば、其れ即ち死と思わせるプレッシャー。それからの解放が、どのような形であれどいかに救いであったか。
「離れろおお!!」
だがその安堵は、戦場において隙を晒す行為。
戦いにおいて経験の浅い順平とて、それを見逃す事はない。真人の術式発動を警戒し、順平は己の術式を発動し、悠仁から彼奴を引き剥がす。
果たして油断しまくっている真人は、順平の式神【澱月】の触手を避けられず、横薙ぎのそれに体を任せ、校庭へと吹き飛ばされる。
「大丈夫、悠仁!?」
「モーマンタイ! アイツ追うぞ!」
「でも、蓮は!?」
「ジョーカーなら大丈夫!」
戦闘体勢に切り替えた悠仁は、彼の切り札の如く、不敵な笑みを浮かべて言う。
「アイツが負けるトコ、想像出来ねえよ」
「……それもそうだね!」
そう言い合って、ジョーカーを信じる二人。そこに迷いという名の竦みは無い。吹き飛ばした真人を追い、窓から飛び去って行く。
《帳》の中なのに、雨が降っている。
悠仁達のいる校庭とは反対方面の中庭。
その地面は赤い砂で埋まっている。
空と地に佇む二頭の黒い影。
ジョーカーはしかし、力無く。
地にてぐったりと後方に倒れ掛けている。
そこから立ち上がる事など到底出来ない。
その目は空を見遣ることは出来ても、
その口は何かを伝えることは出来ても、
その手は得物の現代日本刀を手放すほどに、
その体から力抜け落ち、
その命は、今枯れ果てようとしている。
「…………ごぼお゙ッ」
あまりにも多くの氷柱が、ジョーカーの全身に突き刺さり、貫き、抉り、地に深く突き刺さっていた。
ジョーカーの、これまでの総てを嘲笑うかのように。
(悠仁……順平……、……逃げろ……)
その思いは、雨音に掻き消され。
赤い砂は、ジョーカーの流れる血と反吐によって滲みを増し。
切り札の死に体を、あの二人はまだ知らない。
ああ 苦しい 楽しい
この気持ちを 何と呼ぼう
14.
真人は悦び、楽しんでいた。呪いの王、両面宿儺に出会えたこの奇跡が、真人の神経全てに恐怖という名の悦びを与えた。
およそ今の我々よりも弱い。にも関わらず、平伏したくなるほどのカリスマ。そして昊噓が目の敵にしている雨宮蓮を死の淵にまで追いやった、正に鬼神のごとき神格が、真人に武者震いを起こさせる。
さて、真人は順平の式神【澱月】により、校庭の砂場へと不時着する。着用していたポンチョのような黒服が砂に塗れ、不快感を覚えさせる。
だが砂を払う暇もなく、黒雨より飛来する二つの影が追撃を試みる。
「うおおおっ!」
二つの影の正体は虎杖悠仁と吉野順平。先手を取ったのは虎杖悠仁の方であった。錐揉み回転による遠心力を伴う剛脚は、確実に真人の頭を蹴り潰さんと振るわれる。
だが悠仁は回転に時間をかけ過ぎた。悠仁の殺意を感じ取った真人は咄嗟に横転し、危機一髪回避に成功する。呪力の籠ったその足は、瞬間的に里桜高校全体を震わせるに至り、震度2はあろうその足は、真人がいた所に砂埃と小さなクレーターを作った。
素直に避けれて良かったと真人は思った。
横転の後、真人は悠仁の武器がその強靭な体躯のみである事を悟る。であればわざわざ接近させる真似はさすまいとして、大きく跳躍し、真人は己の魂を弄る。
一瞬の間の後、真人は爆発するかのようにその体を大きなウニの棘皮の如く尖らせた。放射線状に伸びるそれは、見事に悠仁の奴頭をブチ抜く──
「セイッ!」
──のを、吉野順平は許さなかった。順平は海月の式神【澱月】を展開し、その鋭利な触手で棘を粉砕しながら悠仁の盾を担う。
【澱月】は殴打のような攻撃には強いが、斬撃や刺突など武器を用いる攻撃にはめっぽう弱い。だが、それは悠仁を助けない理由にはならない。果たして【澱月】は、幸運な事に、その表皮のみを数箇所薄く撫でられるだけに留まった。
(ダメか。良い案だと思ったんだけど)
一方真人は、通称『うに花火とけとげ作戦』を愚策だったと吐き捨てていた。何せ消費する呪力は多いくせに、敵の在所が分からず精度も落ちる上、避けられて末端から叩き壊されて行くのだ。
故に、いつまでもとげとげしている理由もない──が。
(なら、至近距離で──)
盾だ。それこそ、
真人はうに花火状態から一瞬で戻りつつ、着地と同時にその前腕をおよそ二センチ程度の厚みを保ちつつ大きく広げ、棘の密度をより大きくする。至近距離でのニードルシールド展開は、二人を近寄らせないためにするのではない。
(棘──!?)
実際、追撃を試みていた順平は、そのニードルシールドに刺さらないために急停止してしまっている。人間誰しも、痛いのは嫌なのだ。そこを突けば、確実に一人は殺れる。真人は本気でそう思っていた。
だからこそ、この一瞬が逆に悠仁にとっての隙となるとも思わずに。
「そー来ると思ったぜ」
悠仁はその真人の予想を軽々と超えて行く。
何と、そのニードルシールドに臆する事なく、それにより自らが傷付いてしまう事も厭わず、拳を盾に突き出して来たのだ。
「
果たしてやはり、悠仁の下段からの左拳はその鋭利な剣山に突き刺さってしまう。血が拳を砕くように吹き出し、悠仁はその痛みを歯を食い縛る事で堪える。
通常呪術師の体術は、拳や脚部を呪力で覆う事で鉾と防具を兼ね備える。だが悠仁の場合、《逕庭拳》発動の際だけは、彼の呪力コントロールが未熟であるために、体の中で掌部分を一番無防備にしてしまう。
だがそのリスクを天秤に掛けても悠仁は征くのだ。
守るべきを──為すべきことを為すために。
「《逕庭拳》!!」
《逕庭拳》の極意は二撃必殺。槍の如く盾を貫く呪力の拳は、真人の左腕棘盾をその腕ごと砕いた!
順平を狙っていた真人は、その左腕の崩壊による激痛に驚愕し、順平から視線を逃してしまう。
(中々イカれてるよこっちも! しかも──)
真人の肉体は魂の形に引っ張られる。つまり肉体が傷つくという事は、『真人の魂が傷付いている』事の証左。ジョーカーと似たように、両面宿儺という魂を肚の内に取り込んでいる……つまり、無意識的に魂の輪郭を知覚している悠仁の攻撃は、ジョーカーからの攻撃と同意義となる。
《逕庭拳》に次ぐ悠仁の上段からの追撃を、自身の体を小学生低学年程度まで縮める事で無理やり回避する。悠仁の拳は空振り一振、そのまま校庭へと突き刺さり、水蒸気爆発が如くの砂埃を立ち上げた。
(うひゃー、アレに当たるのだけはごめんだな。大人しくしてもらおうか)
「ゲホッ、口の中がしゃりしゃりする……」
「わりわり。それよか、気付いたか順平? アイツは形を変える時──」
「──呪力の溜めがあるね!」
「分かってんな、行くぜ!」
ぺっぺっ、と口に含んでしまった砂埃を吐き出しながら、湿った髪を邪魔に思いながら、順平は【澱月】を顕現。その一方で、幼児から戻った真人は口から砂ではない別の何かを吐き出していた。
「お゙え」
一寸程度はあろうか。しわしわになっている何かの数、三つ。それを真人は自身の『原型の手で触れた』。
真人は縛りにより、元の形の手でなければ、《無為転変》を発動出来ないのだ。このままではジリ貧になると察した真人は、すかさずのその三つの何かに術式を施した。
みるみる内に肥大化し、一定の形を取ったそれらは──
「改造人間……!?」
「短髪のガキを殺せ」
あの雨の映画館にて、七海建人と虎杖悠仁、そしてジョーカーが戦った『元人間』……それもその身長から見るに、まだ子供のそれと同じだ。
命令に従うままに、三人は一斉に悠仁を襲う。
「糞野郎がァッ!!」
憎まれ口を叩きながらも、それでも悠仁にはこの三人を殺せない。こんなのは、正しい死に方ではない。だから、逃げる事しか出来ない。
真人と順平から逃げるように、空中渡り廊下の天井で振り払い続ける。だがそれにも耐えきれなくなって、改造人間の一人の首根を掴んだ。掴めるほどに首は太くなく、そして軽かった。まるで幼稚園児を握っているかのようだった。
「ア ソ ぼぉ よ」
「──っ…………!!」
握り潰せば祓える。
ブン殴れば動かなくなる。
苦しませずに、一息に殺してやるのが、正解だ。
生命として、もう終わっているんだ。
コイツらは敵だ。やらなきゃ、やられるんだ。
頭では分かっている。
分かっているのに……!!
「……っ、くそ、くそぉッ!!」
でも……
やらねばならぬ事を躊躇って、横から来るもう二人に対処が遅れる。バランスを崩し、三人に、その躯体からは考えられぬほど物凄い力で押さえ付けられてしまう。
悠仁の腹部にて、喉を掻き切ろうと爪を尖らせる改造人間。
もはや意識も言葉も失ったはずの、その歪な形の口から、一つ。
「おね がい」
「──!?」
呪霊の言葉に意味なんか無い。そう五条悟から教わった。ジョーカーからも念入りに言われた。
耳を貸すな、聞くな。聞いたならば、相手の思惑に足を取られ──
「ころ し て」
口からの涎が 泣けぬ彼の涙のように溢れる
「……──っ!!」
一方で、順平は真人と一対一で──それも順平側が不利な状況で苦戦を強いられていた。
腕を大太刀の如く研磨させて横薙ぎにすれば、それだけで校舎は真っ二つになる。順平は間一髪で避けれているだけだ。【澱月】で庇って仕舞えば、自分は攻撃手段を失う事がわかっているから。
だが、相手は腐っても特級呪霊。たかだか一日二日訓練しただけの下級術師相当の実力しか持たぬ順平が敵う道理は無い。
間一髪で避けているのが、それこその間違い。立ちあがろうとした所を、肥大化した右手によって【澱月】ごと校舎の壁に叩きつけられ、そのまま拘束されてしまう。
「ぐうっ!」
「やっぱり思った通りだよ。お前もアイツも、人間殺せないだろ。
は〜あ、こんな事なら最初からこうすれば良かったよ」
上から目線で、知ったような口を利く。ほぼ同じ目線で、順平は睨む事しかしないままだった。
「ホントはさ、
だから面白いよね。現実と理想の擦り合わせが出来てないバカなガキはさ」
「違う……」
──吉野順平は、ジョーカーと虎杖悠仁から多くの物を貰った。
彼らは友となってくれた。話を聞いてくれた。一緒に笑ってくれた。
それを貶されて、黙っていられる筈は無い。
「視野が狭いのはアンタの方だ。自分の持ってる世界こそが全てと勘違いしてるくらい、薄くて浅い世界しか見えてない。
人が人を恐れるから生まれたのが自分だって?
笑わせんなよ、クソガキ」
「あ゙?」
手は動く。そして【澱月】の触手も動く。左で捕まっている【澱月】の左触手と自分の右手で、真人に中指をドンと立ててやる。不敵な笑みも添えてやれば、真人はこめかみをひくひくさせている。それが更に、順平の笑いを誘った。
「イキんのも大概にしろよ、お前。自分の状況分かってる? 何勝ち誇ってるワケ?
そんなに死にたいなら、お望み通りブッ殺して──」
七海建人曰く、真人は『五条悟と同じ』らしい。子供のような無邪気さで人を殺せるし、その欲求に際限はない。
そしてジョーカーに曰く、だからこそ短気で、思考を読み易く、そして次の手を予想しやすい。それこそ、録画として撮ったものをビデオ通話のように思わせるほどに、苛立った真人は手玉に取りやすいのだ。
だから真人は、また気付かない。
【澱月】の左の触手が、今どこで何をしているのかなど。
くらっ、と世界が回る。
「……ありぇ……?」
平衡感覚が急激に失われる。真っ直ぐに立てない。
そういえば、
回らない頭を全回転させながら、左手でふるふると何かを掴んで引っ張る。見ると、それは──
「──そんなんだから、簡単に背中を取られるんだよ、バーカ」
爪だ。地面から生えている爪。水色の海月のような肉の先端についてる、毒を分泌する爪。地面を掘り続けて真人の頸に突き立てた、【澱月】の右触手の爪であった!
「あ……?
(何ら この……くらくらすぅ、きもひいい……の)」
「知らないかもしれないけどさ」
やがて膝に手をつく真人に、順平は無理やり大右腕を振り払いながら、静かに語る。
「毒って、日常に溢れてるんだよ。
コンビニで買えるくらい、お得にね」
診断:顔の紅潮、頭痛、意識混濁。呪霊の場合、解毒に掛かる時間は一分も要さないが、普段よりも時間がかかる。あまりにも大き過ぎる隙を生じさせた。
──そう、真人の足元が覚束無い要因は、順平が術式で作り出した『アルコール』による酔いと、急性アルコール中毒によるものだった。
(まずい……じゅつしき、を、たもて……)
「オオ、ラァッ!」
「げぽぁっ!」
そして真人に最悪な事に、ここで上空から飛来する虎杖悠仁の
「悠仁、大丈夫……?」
「……今は、アイツに集中しろ」
「……うん」
順平は悠仁にその安否を問うた。だが返って来たのは、普段の彼からは考えられぬような、暗めの返答。
……おそらく、あの三人を手にかけて来たのだろう。
もう、そんな地獄は終わりにしよう。
「さあ、お仕置きの時間だ……!」
「ブッ潰してやる……!」
宵闇の空へと舞い上がる影二つ。持てる総ての力を込める。
この外道に殺された人々の思いを継いで、二人の猛攻は加速して行く──!
右目を押さえ付けて、少し格好を付けてみる。
真人から大量の血飛沫が上がった。
だがその痛みも、真人にとっては一種の快楽に過ぎない。
悠仁達には理解出来ないだろう。死闘を愉しむという感覚を味わい続けていたいなどと。正気の沙汰ではないと思うだろう。
だが、この呪術の世界は。
頭のネジがトんでいる者こそを祝福する。
頭脳戦は大敗。
呪力も体力も消耗している。
酔いから覚められたのは僥倖に過ぎず。
追撃が来れば終わり。
なのに、なぜだろう。
(ああ、そうか)
その事実に、昂る自分がいるのはなぜだろう。
(これが、この気持ちこそが)
生まれたがっている。
新たな自分の可能性が、殻を破ろうともがいている。
溢れ出る血液が、苦痛という名の脳内物質を更に分泌させる。
(──〝死〟か!!)
魂が、大きく鼓動する。
そのタブーに触れてみる。
この気持ちを具現化するために。
この世界を 犯すために
「領域展開」
「な──────!?」
掌印を二つ、
両方とも人差し指と小指を合わせた。片方の手は人差し指と中指を折り曲げ、もう片方は人差し指と中指を絡める。
そう。真人の成長は、いかなる邪魔をも凌駕する。
悠仁が『それ』に気付くも、もう遅い。
真人という呪いの真骨頂を。
この世界の全てが祝福しているかのように。
全てのピースが嵌るように。
死というインスピレーションが頭を溶かし、犯したことで。
真人は今、頂に行き着いたのだ。
「順平──────っっ!!」
悠仁が手を伸ばすも 真人が
わざわざ苦労して救った命を引き摺り込む
虎杖悠仁と雨宮蓮を 無力感という絶望で押し潰すために
真人は
更に
高く
トぶ
──ヒトとは死ぬために生まれ、
故に生きるからこそヒトは醜い。
奇跡は一度 二度は無く
七つ罪にて
15.
昊噓は己の出自に関する記憶がほとんどない。物心ついた頃から、己の身は
だが、己の記憶──否、その奥底にある感情を構成する数少ない一つに、〝クルスアキラ〟という言葉と、その人物の姿形があった。逆に言えば、それ以外に昊噓には何も無かった。
故に昊噓は〝クルスアキラ〟に拘った。〝クルスアキラ〟に会えば、己がどうやって生まれたのかが分かると、そう直感した。
己は人が大空からの厄災を恐れる故に生まれた存在であると、夏油や真人らに言い聞かされてきた昊噓は、しかし、その在り方に疑念を抱いていたのだ。
そして、7月の下旬にあの切り札に邂逅した時──昊噓は得も言われぬ感情に包まれた。
理由は分からない。だが心で理解した事がある。
この《蟻》だけは絶対に潰す。その仲間も、家族も、恋人も、子孫も、何もかもを奪い尽くす。魂の跡形も遺さぬよう縊り殺す。そうでなければ気が済まない。
だが、目の前の見窄らしい姿は何だ。
思わずして、昊噓は地に降り立ち叫ぶ。
「立て!!」
赦されない。赦されて良い筈が無い。
「貴様の『罪』はこの程度の『罰』では贖えぬ!!」
たかが蟻如きが人を殺せぬように、
█が人に殺されて良いはずが無い。
「立てクルスアキラ!!!」
その理を崩した者が、こんなにも弱い訳がない。
それこそが、昊噓が抱いた傲慢の罪とは知らぬままに。
全ての憎悪を込めた声で、昊噓は叫ぶ。
「……聞きたい、事は……色々あるが……」
絶え絶えの声で、昊噓へと敵意を向ける。しかしそれは、普段のジョーカーのそれより遥かに弱々しかった。氷柱の冷たさが、もはや底を突いた体力を更に奪っていく。
ジョーカーは見誤った。七海建人の曰くを信じ、敵は一体であると思い込んでいた。それが唐突な二体目の対応を遅らせ、更に最悪なことに弱点属性である氷結による攻撃を受け、瀕死となっている。だがそれも、《食いしばり》というスキルをペルソナが覚えていなければ、本当に危なかった。
《食いしばり》。それは、ペルソナ使いの中でもジョーカーのみが有する事の出来る、他のスキルとは一線を画す特殊なスキルだ。このスキルがあるか無いかで、ジョーカーの生存率は大幅に変化する。
その効果は、『一戦闘中に一度だけ、ジョーカーの死を一歩手前で防ぐ』事が出来るのだ。
更にはこれよりも上位互換であるスキルも存在するが、それは現在共にあるペルソナでは、アルセーヌをおいて他に有する者はいない。そんな特別なスキルを序盤からぽんぽんと覚えられる訳はないのだ。
血反吐を大量に吐きながら、氷柱をどうにかして抜こうとするも、力が入らずに苦しむだけだった。
「その苗字は
クルスアキラという人間はもう存在しない。過去も、現在も、未来も、永遠に。クルスの苗字でかつてを生きる事は出来なかった。己を見捨てた家の名を継いでやる道理は無かったから。
故に、婿入りして苗字を変えた。結婚式など呼ぶわけがなかった。子供の顔を見せる事などあり得なかった。
……いや、子供に関しては、蓮自身も言えた義理ではない……。
かつてのアキラも、親としての責務を果たせなかった、失格者なのだから……。
「──ゴグマゴグ!!」
だが、それを会話などする理由はない。敵と話し合う義理も無い。
仮面が蒼く燃え砕かれ、かつてのイギリス・アルビオンの時代に生きた巨人《ゴグマゴグ》を呼び起こす。その怪力を天変地異に見立てた物理スキル《アースクエイク》は、ジョーカーに突き刺さった氷柱の足を砕き、体の自由をもたらす。
虚を突かれた昊噓は回避に間に合わず、隆起する地殻をその身に受けた。
自由を受けるジョーカーだったが、あまりにも血を流しすぎている。ジョーカーのその立ち姿はふらふらで、刀を杖にしなければ立つこともままならない。少し指で押して仕舞えば倒れそうなほどに覚束ない。当然だ。身体中穴だらけの重傷と激痛は、ジョーカーの意識を刈り取るにはあまりにも容易い。
だがジョーカーは倒れない。宿儺に負けたあの日から、もう二度と負けないと誓ったのだ。
ジョーカーが今立てているのは、彼の宿儺をも上回る堅き意地が故に。
故に昊噓は、その意地ごとジョーカーを刈り取らねば、永遠に勝つことは無い。
「……そこまで死に急ぎたいか。ならば良いだろう」
そう言って昊噓は、どこからともなくサッカーボール程度の大きさの球体を取り出し、帳に発生した雨雲に放り投げた。乱気流……否、それどころでないほどの真っ黒な嵐を凝縮したようなそれ。先もジョーカーはこれにやられたのだ。
「《
昊噓の術式は《
そして【
降り注ぐ雨すらも、瞬きのうちに、鋭利で通常ではありえないほど大きな氷柱と化すほど、超低気圧の絶対零度。
そしてジョーカーには、もうこれを避けられるほどの体力は残っていなかった。虫の息であるジョーカーには、為すすべは無く──
「フンッ」
──それ故に、彼が辿り着かなければ、本当に危なかった。
鈍の鉈を振るい、空からの氷柱の悉くを叩き落とす。昊噓の【冰壷】は、発動限界時間を五秒とし、再発動可能条件を停止から三十秒の経過としている。それもあってか、飛来する冷たい死神の針の雨からの傷はほとんど見られなかった。
「独断専行、命令無視。本来なら懲罰ものですが、キミの怪我に免じ説教だけで許しましょう。
さっさと回復して立ち上がってください」
ぶっきらぼうにその男、七海建人は言う。先の猛攻に息を切らす様子は見えないのは、彼が一級術師としての実力者である所以。
「あり、が……──」
「礼は後。早く反転術式を」
「……りょ……いき」
「──まさか反転術式による治癒に縛りを?
全くキミは……」
呆れ返る建人と、ずり落ちて力なくへたり込むジョーカー。
領域を展開せずともペルソナで治癒出来るが、身体中に風穴が空いている重体を治癒するには、《
それなら、領域を展開して縛りから解放する方が早い。
自分で組んだ縛りとはいえ、普段から反転術式で治癒できないのは痛手だ。いっそ縛りを無くしてみるかと考えたが……否、強くなるための処置だ。ジョーカーの目的は両面宿儺をおいて他にない。それを忘れてはならない。
長いため息を吐く建人。サングラスが僅かな光で反射する。その慧眼の目元には、隈が色濃く浮かんでいた。
「朝の六時出勤なんて日は、今日限りにして欲しいですね」
その途端、建人は鉈を空中に放り投げた。
スーツ姿が目立つ彼。その間にジャケットを脱ぎ捨て、青いシャツを腕まで捲る。サスペンダーと背中に仕込んだホルスターが目に新しい。ネクタイを己の右手に巻き、空いた左手で鉈をキャッチする。
──その瞬間、建人を包む呪力量が跳ね上がった。
七海建人一級術師は、かつて証券会社に勤めるサラリーマンであった。しかしそのあまりの激務と労働基準法を無視した毎日のようなサービス残業に、心を荒ませてしまったのだ。
七海建人は残業を嫌う。
故にこそ、残業する羽目になった時、普段以上の力を以って早急な対処を行うのだ。
普段の力を七〇〜八〇%に留め、八時間を一日の労働時間と定める事で、八時間以上勤務する際に、普段以上のコンディションを強制的に付与出来る縛りを建人は組んだ。
先程、後輩である
「──三十秒。それ以上は負かりません」
今の建人の実力は、優に普段の一五〇%を超える。
「疾く失せよ」
「イエスと答える馬鹿がどこにいますか」
軽口を叩きながら、建人は己の使命を全うせんと疾る。
昊噓とてそれを黙って見ている訳は無い。先述の通り、《色即是空》は気圧を操るが、大量の呪力を使って作った【冰壷】は今リキャストタイムの消化のため凍結中。故に昊噓が出来るのは体術のみ。
だが体術とは言っても、昊噓のそれは少々特殊だ。
集中力を高めた建人は、『体術の極意』の発生を期待しつつ、一瞬の間に昊噓の懐に潜り込む。
ネクタイで縛った右拳を突き出し、そのままボディへと叩き込もうとするが、それを見越していた昊噓は、半身を逸らす事で紙一重で回避する。
建人から見て右側に避けた昊噓は、すかさず左手で建人の頭部を掴もうと試みるも、右拳の勢いのまま体を回転させた建人は、左手の鉈で、昊噓前腕の比が丁度7:3である、突き出された左手首を叩く……が。
(手応えが無い……?)
すかっ、と空振ってしまった感覚。勢いを殺さずに回転したまま通り抜け、即座に着地と分析を開始しつつ、更なる特攻を仕掛ける。分析といっても建人は、先の【冰壷】という拡張術式を見極めていたため、昊噓の術式が何なのかに対する推理はすぐに終わった。
(──呪力で構成されている肉体を霧……いや、粒子の集合体と認識する事で、奴の呪術で無理やり肉体を乖離させ回避。その後切断させた手首を接着させる事で呪力消費を抑えたか。はっきり言って、神業ですね)
否、建人の考察は半分正解で半分間違いだ。
昊噓がなぜその身を洋服で包んでいるのかと問われれば、それは己が課した縛り故。昊噓は、『常に己がこの世に存在する証明をしていなければならない』のだ。
なぜならその気になれば昊噓は、自身に《色即是空》を永久的に施し、呪力体である自身の肉体を霧散させて、物理的に祓う事の出来ない唯一の呪霊となれるのだ。これを利用して、霧や雨と同化して姿を隠す事や、確実に戦闘から脱出する事も可能だ。
しかし、その縛りはあくまでも術師達や呪詛師など、呪いが見える者のみに適用される上に、昊噓自身のプライドが、そんな下水道にいるような溝鼠程度の根性を許さなかったが故の、この縛りなのだ。
だがその縛りと引き換えに、昊噓は負傷しやすい腕と脚を《色即是空》が用意した
そう、昊噓の生まれ持った特技は、六眼無しの神業級の緻密な呪力操作であるのだ。
やがて昊噓は《色即是空》を建人に差し向け、荒れ狂う暴風にて強制的に距離を置かせた。近接戦は昊噓の得意とする所だが、さすがは一級術師と言った所。昊噓の嫌がる胴体へや頭部への攻撃を継続していたために、遂に昊噓は痺れを切らしたのだ。
「……蟻風情が」
「その蟻にあなたは敗れるのです」
「口の回る!」
昊噓の術式には、どうしても空気中に水分が必要だ。昊噓は普段、【冰壷】を使用する事で、空中の水分や雨、霧などを瞬く間に氷結させる事で攻撃するという、回りくどい手段を取る。
だが一方のこれは、全盛期のジョーカーのために取っておいた切り札。先の【冰壷】よりもその球は小さい。およそハンドボール程度だろうか。建人は新たなカードに、警戒の体勢を取り、背後のジョーカーを庇う。
しかし、その行為が何になろうか。
『それ』から感じる呪力エネルギーは、【冰壷】のそれなど比較にならないくらいに高いというのに。
「終いだ」
(来る──否、避け──────!?)
──瞬間。
──裂けた。
──何もかも。
太鼓を乱雑に叩く音のような。
古くから恐れられている二柱の神の一柱のよう。
建人は──
「──《色即是空》【
目の前に、雷神を幻視した。
閃光。後、鼓膜が割れるほどの爆音。建人を一筋の光が貫く。
見えたのはそれくらい。
あまりの激痛に、逆に体が痛覚を麻痺させるくらいに、建人の意識は、たった一瞬で朦朧となる。
そうか。雷霆が、昊噓の掛け声で疾ったのか。
なら、鉈を構えていたのは間違いだったな。
なぜなら、最悪な事に、左手に持っていた鉈が避雷針の役割を果たしてしまったのだから。
生きて思考できている以上、致命傷は避けれたのは分かる。
ただ、左半身の感覚が無い。
見ると。
まあ、案の定と言うべきか。
嫌な予感が的中していた。
鉄の匂いすら掻き消す、肉の焼け焦げた匂いが充満し、
その部分のシャツも肉も原型を留めておらず、
千切れ、刎ね飛ばされ、融解し、
建人のあらゆる『左』は 死んでいた
(──────っ!!!)
脳が、左半身の事実上の欠損を認知してしまった。それ故に訪れる激痛に、建人は悲鳴を堪えるのに精一杯だった。
──そう。昊噓のもう一つの切り札【
【冰壷】より大量の呪力と術式を込め、更にそれを【冰壷】よりも小さく凝縮する事で電子を活性化。敵との間にプラズマを発生させる事で電撃の通り道を作り、そして雷霆を放出する事で、敵を一瞬の内に葬り去るという、【冰壷】の完全上位互換である。
ただ、この【雲耀】は呪術的に【冰壷】と同一視されるため、【冰壷】のリキャストの消化が終わるまで【雲耀】もまた使えなかったのだ。
莫大な電気エネルギーによる電離が起こり、空気中の酸素がオゾンとなっている。これを防げる人間がいるとしたら、それこそ五条悟の無限を置いて他にいないだろう。
故に勝利を確信した昊噓は、建人に取引を持ちかける。
「蟻、後ろのソレを差し出せ。さすれば苦しませず殺してやる」
「…………なに、を」
呪具として愛用しているあの鉈は、幸いにも、刃に巻いた呪布が焦げただけで、まだ得物として振るえるだろう。炭となった左手の指が何本か掛かって残っているのが気になるが、致し方なし。
即座に余った右手で得物を握ろうとする──
だがそれを、今度は一陣の烈風が阻む。
先の【雲耀】ほどではなく、建人が万全であれば回避は余裕だったろう。
だがもはや、建人にはそれすらをも避ける体力が無いのだ。
「ぐうッ!」
「二度言わすな」
「…………っ、く」
右肩から先を 一陣の風が奪っていった
(…………ここまで、か)
両腕を欠損。左目の視力は、先の電撃で無意味と化した。
鉈は握れない。へたり込む状態からも立てない。
もはや建人は、詰んでいた。
「……答えぬのならば、選べ。
──七海建人は、呪術師である事を一度諦めた人間だった。
唯一慕える先輩と、唯一親友と恃んだ同級生を喪くしてから、七海建人の心には罅が入っていた。
生きる事に気力を使いたく無かった。死に際の想像に興味を持てなくなった。死生観など、とうに終わっていた。
白黒の世界の背景画。
それが、七海建人の人生だった。
新人は社会に絶望しすぐに辞めて行く。それもそうだ。こちらは真摯でありたいのに、上は自分の利益のみを追求する。客の不利益など知らん振り。その現実と理想の擦り合わせが出来ずに、嫌になって辞めて行く。
だが建人は辞めなかった。それは何故か。
──金だ。
金さえあれば、何不自由ない生活を送れる。金が貯まれば、どこか物価の低い国に移り住み、呪術師として絶望した時のような事も考えず、老後を送れる。
朝から晩まで、金の事ばかり考えていた。
金。
だから働いた。必死で働いた。
金。
呪いのないどこかに行きたかった。
金、金、金金金……。
──お疲れですか?
と、いつの間にか建人は、行きつけのパン屋に足を運んでいた。ここのカスクートは美味いのだ。ここに来る以前の記憶が薄いのは、社内泊をしたためだろうか。彼女──店員に指摘されるほど、どうやら隈も酷いみたいだ。
──あなたこそ、疲れが溜まっているようですね。
──あ、分かっちゃいます? なんか最近、疲れが取れないんですよね。眠りも浅いし。
そう言って腕を回す店員。その方に……蠅頭が乗っていた。それこそ、放置していても、体調を少し崩させる程度の呪いしかもたらさないほど微弱で、祓う必要もないくらいに惰弱だった。
──一歩、前へ出て貰えますか。
──え? はい……。
そう言って横薙ぎに腕を振るう。たったそれだけで、彼女を苦しめていた蠅頭は跡形も無く消え去った。
何が起こったのか分からず、店員は建人が薙いだ方を、何かあるのかと思い向いた。だがそこには何もなく、頭にクエスチョンマークを浮かべている。
──肩、どうですか。
──はい? ……えっ、あれ!? 軽い!
──違和感が残るようでしたら病院へ。
そう言い残して、建人はカスクートを手に店を後にする。
一銭にもならぬ無駄な行為だった。そう思いながら会社へ向かっていると。
──あの!
快活な彼女によく似合う大きな声で、彼女は建人に礼を言った。
それに建人は一瞬足を止め、振り返ってみる。
──また! 来てくださいねー!
その大きな声に。
その大振りに振るう手に。
その向日葵のような真っ直ぐな笑顔に。
何か、建人は、救われたような気がしたのだ。
少しだけ、微笑んで、会社の方とは違う道を行く。
うざったらしい先輩の電話番号をコールしながら。
……そう。やり甲斐とは無縁の人生だと思っていた。
それを、ただ一言の「ありがとう」が救ってくれた。
その人は、建人を救ったとは思っていないだろう。何せただのパン屋の店員だ。日常に仄かな彩りを与えても、人の世界そのものを彩ってしまえるほどの力は無いと、そう思っているだろう。
けれど、けれども。
七海建人という男にとって、その「ありがとう」こそが、本当に得難く、そして有難いものだったのだ。
「──お断りします。あなたにやる物は、何も無い。」
「……ならば──」
その最期の言葉に、昊噓は【
感謝されるほどの事をしてきたとは思えなかった。
だがそう思えないのは、『その一言』を貰った事がなかったからだ。
感謝されるほどの事は、何度だってしていたのだ。
ならば、それ以上に勝る幸福などない。
悔いは、無い──。
「両方で死ね」
まるで神の怒りのように。
その怒りを代弁するかのように。
あるいは己が神の怒りそのものであると言わんばかりに。
閃光と氷河が、建人の視界全てを覆って──
「領域展開」
禁断の蔵は解き放たれた。
──錠前も鍵も、鎖諸共投げ捨てて。
だが、建人が走馬灯を巡らせるにはまだ早い。
世界が、宿儺のそれとはまた違う血の色に染まる。足場は巨大な骨となり、地上は悲痛と畏怖の表情に塗れる人々が、助けを乞いながら消えていく。
昊噓は目の前に広がる世界に、なぜか〝懐かしさ〟を感じていた。
「……すまない。ゆっくり休んでくれ」
昊噓が【冰壷】で放った氷河よりも【雲耀】で放った雷撃よりも疾く、建人を抱き抱え昊噓の背後へと降り立つ。切断された両腕も、感電し尽くした内臓も、まるで何事も無かったかのように反転術式を施せば、建人は規則正しく息を吹き返し、死んだように眠った。
家入硝子女医から、反転術式による治癒を鍛えてもらったおかげだ。でなければ、ジョーカーは建人を救えなかっただろう。
「……そうだ。それでこそ」
「黙れ」
全くもって腹が立つ。
敵も、己も。
仲間を守るために強くなったはずだ。誰も死なせないために必死で学んだはずだ。
……それなのに。
建人を死に体にさせておいて、一体何が切り札か……!!
「呪霊、貴様は──」
死ぬ事に恐怖は無い。既に一度死んだ身だ。死ぬ覚悟など、既に前世で終えている。
ただ、前世からずっと怖くて耐えられない物も、ジョーカーとてある。
死ぬ事よりも恐ろしいのは。
「──本気でオレを怒らせた!!!」
何も出来ないまま、仲間を目の前で失う事だ。
定期的に死にかけてなおカッコいい男
昊噓のcvは藤原啓治さんをイメージしてください
感情のないアリー・アル・サーシェスと思っていただければ
昊噓のステータスも、幼魚と逆罰篇が終わったら設定で書こうと思うよ