呪術廻戦にP5のジョーカーぶち込んでみた   作:全てのイシを拾イシ者

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 電車の座席にて眠る、目元に傷のある少年。
 その身体に奇妙な模様の刺青が浮かんだかと思えば、刹那の内にそれは消えていた。
 少年が目を覚ました。座席の膝丈まで浸水している事に気が付いた。
 外の風景を見る。どこを走っているのだろうかとふと思った。
 その対角線には癖毛の少年がいた。嬉しそうな、悲しそうな顔で少年を見ていた。
 彼がいるのなら安心だと思い、一度にへらと笑って、少年は再び夢の世界へと身を投じた。


#9

 47.

〈2018年7月5日〉

 曇天の雨。憂鬱色の雲。本日の空は泣き虫だ。梅雨はもう終わったというのに、何をそんなに悲しむ事があるのだろうか。釘崎野薔薇は、本日の任務にあまり気分が乗らなかった。

 英集少年院入口には、立ち入り禁止を警告する黄色のテープが張り巡らされている。そこにいるのは、複数名の背広を着た職員と、虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇、雨宮蓮。皆、険しい顔をしていた。

 雨の中、呪術高専補助監督から任務の概要を知らされていた。補助監督の名を、伊地知(いじち)潔高(きよたか)という。黒い背広に茶色のネクタイを着た、中別(なかわけ)ヘアの眼鏡の男性だ。痩せぎすであるためか、実年齢よりも老けて見える。

 さて、ハスキーな声音で潔高は続ける。

 

「我々の《窓》が『呪胎(じゅたい)』──集積した呪力が胎児を成した物を確認したのが、約三時間前。避難誘導が九割がた完了した時点で、現場の判断により施設を閉鎖しました。500メートル以内の住民の避難も完了しています。

 英集少年院・受刑在院者第二宿舎に五名が、現在も呪胎と共に取り残されています。呪胎が変態を遂げるタイプの場合……『()()』相当の呪霊に成ると考えられます」

「……つまり、スンゲー強いって事か」

「それも()()()()()()な。こないだ言った通り、本来なら相当級である特級呪術師の五条先生が相手するんだが……」

「その先生はどこなのよ」

「出張中。そもそも高専をプラプラしていい人材じゃねえしな。まあ本人はプラプラしてるけど……お土産には期待すんなってさ」

「お土産なんてどーせ新幹線の中で独り占めするじゃん先生。けど……俺ら、ソイツに勝てんの?」

「今回の皆さんの任務は、あくまで『生存者の確認』及び『救出』です。戦闘は目的ではありません。……今の皆さんが特級に会敵した時、与えられる選択肢は、『逃げる』か『死ぬ』かです。絶対に戦わずに、自分の恐怖には素直に従ってください。くれぐれも、お忘れなきよう」

「……んで、さっきから気になってたんだけどさあー……ッち、ああもう!」

 

 潔高の説明を聞きつつも、流石に腹を据えかねた野薔薇が……いや、この状況下では全くもって至極当然の事なのだが──

 

こーゆー時(非常事態)にアンタはそこで何しとんじゃクォラ──ッ!!」

「はびゃあっ!?」

 

 ──フルスイングで、説明をよそにボーッとしている雨宮蓮のご尊顔をパーで引っ叩いた。

 効果は抜群だったようで、譲れない事で有名なフィギュアスケート選手も驚愕の五回転アクセルを決め、顎を強打しながら着地する。頬には、季節外れの紅葉が咲いていた。魅力のパラメータが下がった気がする。それを滑稽に思った恵と悠仁は、緊張感の『き』の字も無く噴き出した。

 

「ふくっ、はびゃって……何だよそりゃ」

「はははははは! はひっ、うえ゙っごほっ、むせちゃったはははは!」

「……いや、こっちはこっちで準備してたんだって!」

「ボーッとするのが準備なら誰も苦労しないっつーのよ!」

「オレも色々と事情がだなぁ……いや、ちょっと待ってくれ」

 

 いつにない慌て振りで、携帯で銀行の通帳明細を確認する蓮。そこには、最後に四に零が五つほどつく金額が引き出されているのが分かる。ペルソナの強化や再召喚により自動的に引き出されたのだろう。そして、その残額は実に──絆創膏がギリギリ買える値段だった。

 

「……二百円…………」

 

 刹那、蓮は白目を剥きながら後ろに倒れてしまう。満身創痍の蓮が地に落ちる寸前、その肩を悠仁が抱き、顔を悲哀に顰めて叫んだ。

 

「どうした!? 蓮、しっかりしろ! ……ふふ、し、しっかりしろっ!」

「やるんならちゃんとやれ悠仁」

 

 ……訂正、少し楽しみながら、笑いを噛み締めて叫んだ。

 

「……オレの……が……」

「何!?」

「オレの……貯金が…………がくっ」

「おい蓮!? しっかりしろっ! 蓮! レェエエっ、ごめんむり笑っちゃうわふふえへへへへ!」

「行くぞ野薔薇」

「はいよ〜っと」

「いやいやちょっと待ってよめぐみんのばらん!」

『誰がめぐみんだ(のばらんよ)

「オレ……今、結構傷心……」

「任務済ませば金は入るだろ。そもそも何に使ったんだよ」

「結構な額をさっきペルソナに……」

「……ペルソナってお金で買えるのね」

「金で買える反逆の魂って……」

 

 野薔薇と恵は呆れ、頭を押さえた。蹌踉(よろ)めきながらどうにか立ち上がる蓮は、死んだ魚の目をしていた。その光景を、潔高は微笑んで見ているのだった。

 ──そうしていた最中だった。

 

「あのっ! 息子は!? (ただし)は無事なんでしょうか!?」

 

 やや歳を取った女性だ。四十代の半ばほどだろうか。白地のショルダーバッグを掛け、息を切らしながら高専職員に、切羽詰まった様子で問う。(ただし)とは誰の事だろう、と蓮がふと考えていると、潔高が一歩前に出て、生徒と女性とを阻む壁となった。そして女性に聞こえない程度の声量で四人に言い、後に本人に警告する。

 

「(面会に来ていた保護者です)

 ──お引き取りください。何者かによって、毒物が撒かれた可能性があります。現時点で、これ以上の事は申し上げられません。安否が確認出来るまでは……」

「そんな……何で、何でなのよぉ……っ!」

 

 残酷な現実を押し付けられて、涙滂沱とする女性。目に当てるハンカチが涙に染みを作って行く。その光景を見て、悠仁は顔を遣る瀬無さに歪めた。

 虎杖悠仁には両親がいない。物心ついた時には、既に両親はいなくなっていた。他界したのか、はたまた蒸発したのかすらも分からないし、興味も無かった。唯一の身内は、厳しい頑固な祖父の倭助だけだった。そしてその唯一の身内さえも、もう居なくなってしまった。

 身内を喪った経験のある悠仁だからこそ理解できる、何も出来ない、してやれないという悔しさ。

 けれど、今は違う。虎杖悠仁は力を付けた。人を助けられる力を。

 ──絶対に死なせない。気付けばその思いを、口を介して皆に伝えていた。

 

「助けるぞ。皆」

「トーゼンよ」

「ああ」

「…………」

 

 悠仁の問い掛けに、野薔薇は鼻を鳴らし、蓮は拳を握り締め、恵は無言で前へ進んだ。

 英集少年院は、その外観を灰色のコンクリートで固められている。これといって特筆すべき点もない、ごく一般的な少年院だ。まるで田舎町の小学校のようだ、と蓮は思いつつ、潔高と共に、受刑在院者第二宿舎の入口へと到達する。

 

「《(とばり)》を下ろします。お気をつけて。

 ──闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え

 

 潔高が祝詞を唱えると、まるで絵の具のような泥々とした『黒』が、少年院を覆っていく。

 

「お〜! 夜になっていく!」

「《(とばり)》……非術師から俺達を見えなくする結界だ。今回は住宅地が近いからな」

「見えなくする理由って?」

「呪いは人のマイナスなイメージから生じるだろ。ストレスとかな。それらから出来るだけ予防するための策、結界術だ」

「無知め」

「知らないんだから仕方ないでしょーが! 俺ら入学したてホヤホヤのハリーポッターとまんま同じだからね!?」

「無知は罪よ。知らぬ存ぜぬで通せる世の中じゃないの」

「うぐ、何も言い返せねえ……あれ? 恵、じゃあ何で杉三高校の時は下ろしてなかったの? 帳って、誰でも下ろせるって訳じゃねーって事?」

「………………【玉犬・白】!」

「ワウッ」

「え、恵サン?」

「……うるせえよ俺だってミスする時はするんだっつーの」

「聞こえてるぞ恵」

「何で聞こえてんだよ蓮!」

「生憎オレは地獄耳で(耳が良くて)な」

「聞くな聞こえんな!」

「そんな無茶な!?」

 

 そう言い合いながら、緊張もやや(ほぐ)れ、いつもの雰囲気を取り戻した一年四人。顕現した【玉犬・白】を悠仁がヨスヨスと撫でる。当の本人もとい本犬は、Oh...Yeah...と言わんばかりに目を細めていた。それを見て蓮もジョーカーへと変貌した。

 さて、仕事モードに切り替わった四人は、伏黒恵を筆頭に、その扉を開けて内部へと侵入する。ギギギィ……という音が鳴り響いた。一寸先は闇、内部の状況は視認出来なかった。闇を臆せずに進み、そして──

 

「──えっ、え!? あれ!? ここ、二階建ての少年院だよな!?」

「おおお落ち着け悠仁、メゾネットよ!」

「メゾネットなら仕方ないよな?!」

「何が仕方ねえんだよ、メゾネットでもねえよ」

 

 ──扉を(くぐ)るとそこは迷路であった。

 少年院の複雑な内部を説明するための比喩的表現ではない。このだだっ広い空間は、少年院内部の構造を明らかに無視している。入り組んだ排水管と錆びついた鉄格子で出来た監獄。まるで広島県の工場島、契島を彷彿とさせる。

 悠仁はこの現象を知らない。呪霊によるものだと推察は行くが、それ以上は分からなかった。だがこの現象に、一人──否、二人ほど、思い当たる節がある人物がいる。

 

「呪霊の《領域展開(りょういきてんかい)》か」

「──! ジョーカー、知ってたのか」

「昨日先生に教わったばかりだ」

「そうか。……けど、コイツは()()()みてえだ。生得領域(しょうとくりょういき)を、術式を付与せずに展開しているだけ。何にせよここまでの物は、俺も初めて見るが……」

「リョーイキテンカイ? ショートクタイシ? 何ソレ?」

「説明は後……──扉は!?」

 

 バッ、と振り向き、来た道を確認する。

 そこにあったのは扉ではなく──蜘蛛の巣のように張り巡らされた排水管だった。扉の姿形など、どこにもなかった。つまる所、脱出が不可能となってしまった。

 

「うえっ!? 何、何で!? 私達、こっから入って来たわよね!?」

「これじゃ出れねーじゃんか!?」

『どーしよおっ、あそーれどーしよおっ』

 

 そうしてパニックになり踊り出す虎と薔薇。どうしようと言ってはいるが、どうしようもないのでどうにもならないのだ。

 

「落ち着けお前ら。玉犬が出入り口の匂いを覚えてるから、脱出の際は玉犬が誘導する。だからその変な踊りを止めろ」

『あらま〜〜!』

「いよぉ〜しッ、よしよしよしよしよしよしよしよし良い子だ玉犬お前はホントによ〜しよしよしよしよしよし」

「ジャーキーよ! ありったけのジャーキーを掻き集めて献上するのよ!」

「緊張感! んなモン無えよ」

「買っておいたぞ」

お前()ってホント用意良いよな。……、……、……いや、どんだけ出てくんだよ止めろバカそれ以上出すな! 普通にそんな量食えねえよ。ポケットどうなってんだ」

「普通のポケットだ」

「普通のポケットにはそんな山のジャーキーは入らねえんだよ」

「──確かにそうだな……?」

「今気付いたのかよ……」

「しっかしまあ、頼りになるよな、恵! お前のおかげで人が助かるし、俺らも助けられるよ!」

「…………急ごう」

 

 上機嫌で歩みを進める悠仁を他所に、恵の顔はどこか浮かないままだった。【玉犬・白】の鼻を頼りに、錆びついた空間を進み、五人の捜索を続ける。歩き続ける事数分、やがて空間が鉄からコンクリートへと移り変わった頃、一向は、水を抜かれたプールの底へと抜け出した。

 最初に異変を感じ取ったのは悠仁だった。

 ……腐敗臭がする。(はえ)の羽音が聞こえる。今までに嗅いだ事の無い臭気に、悠仁は嫌な予感がした。……そしてその嫌な予感は、()()()()()()()()()()()

 

「────────────、

 

 二つの肉塊と、上半身しかない坊主頭の男性。

 それが、虎杖悠仁が最初に見た被害者だった。

 二つの肉塊は、見るも無惨な状態だった。関節も、筋繊維も、骨も、何もかもを無視して、無理矢理に丸められている。顔面には表皮と眼球が無く、頭蓋骨が剥き出しになっている。しかし中途半端に皮を剥いだようで、上唇から下は残っていた。……おそらく、生きたまま丸められ、苦しんで死んだのだろう。口元は苦痛に歪み、血の涙を流し、所々から内臓がはみ出し、体の一部は糞尿に塗れていた。

 マシな死に方をした上半身の方は、良く見ると両腕が無かった。酷い出血量だ。吐瀉物混じりの血反吐と鼻血、下半身へと伸びていたであろう内臓を垂らし、虚な目をして死んでいた。スプラッター映画でも、これほどグロテスクな物は無い。凄惨さに顔を顰めながら、ジョーカーは心の中で合掌した。

 

(むご)い……」

「……三名死亡、で良いんだよな」

「──っ」

 

 思わず遺体に駆け寄る悠仁。まだ原型がある方の遺体の身元を確認すると──『岡崎 正』という名前が、胸ポケットに見え……悠仁は確信した。

 ──息子は!? 正は無事なんでしょうか!?

 

「……この遺体、持って帰る」

「えっ、で、でも……」

「あの人の息子だ。顔はそんなにやられてない。

 ……遺体も無しに死にました、なんて、納得出来ねえだろ」

 

 どうにかして遺体を連れ帰るかを思案する悠仁。しかし、おぶろうにも持ち上げようにも、腕が無いため不安定な体勢になると直感した。その後ろに駆け寄り、声を掛ける恵。その眉根は、常時よりも険しく寄せられていた。

 

「立て悠仁」

「ダメだ。悪りぃ恵、何か縛るモン──」

「あと二人の生死を確認しなきゃならん。ソイツは置いてけ」

「来た道が無くなってるんだ。ここにまた辿り着ける保証は無えだろ」

「『後にしろ』じゃねえ、『置いてけ』っつってんだ」

「──────は?」

 

 低い声で悠仁が(いか)る。立ち上がり、いつの間にか恵の胸倉を掴んでいた。

 

「どういう意味だよテメェ」

「そのままの意味だ。ただでさえ救う気のない奴を、死んでまで救うつもりは、俺にはない」

「こんな酷え死に方無えだろうが……! せめて供養を……遺体だけでも母親にッ──」

「──ソイツは、無免許運転で女児を撥ねてる。それも二度目の無免許運転でだ」

 

 瞬間、悠仁は息を呑む。腹の底が煮え滾る感覚と、恵の言葉の重圧に、悠仁はどこか吐気を催した。

 

「……なあ悠仁、お前は考えた事あるか? 『自分が救った人間が将来人を殺したら』……って」

「ンな事言ってたら誰も救えねえよ! 将来なんて分かりっこない。俺が助けた人に……なんて、一々考えてられねえよ」

「──悠仁。俺は、『救われて欲しい奴』以外は、正直どうでも良い。せめて良い奴には酷え目にあって欲しくはない。だがな、悪人の場合はどう足掻いても自業自得だとしか思えないんだ、俺は」

「……恵が言う事は分かる。確かにコイツは犯罪者だけど、それでもっ、こんな……!」

「当然の報いだ。沢山の人を助けたいって言うお前の気持ちは知ってる。万人に『正しい死に方』をさせてやりたいお前の思いも知ってる。だが善人ならまだしも、悪人の死に方になんざ拘るな」

「名前呼ばねえ事に拘ってた奴がよく言うぜ。──ならさ、俺だって犯罪者予備軍だろ。宿儺っていう、いつ爆発するか分かんねえ爆弾抱えてんだぞ。それが分からねえ恵じゃねえだろ。

 ──ハッ、もういいや。この際だし聞いて(タブーに触れて)やるよ。

 なあ恵。前からずっと思ってたけどさ、何でお前、俺を助けた? 蓮なら分かるよ。一度言った事は曲げねえような頑固頭だしな。けどお前が俺を救う義理は無えだろ。こんな化け物()生かすより、死なせた方がまだ人のためになるって、俺でも分かるんだぜ? 俺を救って何がある?」

「お前は善人だ。俺にとって救うべき人間なんだ。だから助けたいって先生に頼んだ。……俺はただ──」

「──善人だの悪人だのテメエごちゃごちゃ言ってっけどさあ! 要はテメエの身勝手なエゴじゃねえかよ!!」

 

 ──気付けば恵も、悠仁の胸ぐらを掴んでいた。

 

「ンだと、テメエ……!」

「確かに罪を犯した奴は裁かれる! 場合によっちゃ死刑にだってなるだろーよ! けどそれは、呪いとかから勝手に殺されて良い理由にはならねえんだよ! 例えソイツが犯罪者でも、俺はっ……死ぬんなら、ちゃんと罪を、()()()()()()()()死んで欲しかった!

 何で怒ってんのか知らねえけどよ、テメエより俺の方が怒ってんだよ、恵……!

 ──なあ! 何で俺は助けたんだよ!!」

 

 ──その時、一発の銃声が、二人の鼓膜を貫いた。

 ジョーカーのトカレフである。警砲のため撃たれたそれは、跳弾を避けるために故意に在らぬ方向へと飛んでいた。排莢された薬莢が、軽い音を立てて地を転がる。銃撃手であるジョーカー自身は、呆れを含みつつ──目に見えて分かるほど怒っていた。

 

「いい加減にしろ。今は哲学を議論している場合じゃない。

 喧嘩をするのは大いに結構だが、帰ってからにしろ」

「……ああ、分かってるよ!」

「チッ…………」

「ジョーカーの言うとーりよ! ったく、アンタらの辞書にTPOって言葉は──」

 

 ──その言葉が、最後まで紡がれる事は無かった。突如足元に現れた闇に足を掬われ、引き摺り込まれてしまう野薔薇。

 

「のばっ──」

 

 一番近くにいて、一番早く異変に気付いたジョーカーが野薔薇の右手を掴むも、敢えなく共に飲み込まれ──二人は、跡形も無く消えた。ジョーカーと呼ぶ事を忘れて、悠仁が二人の名を呼ぶも、それが返ってくる事はなかった。

 

「……野……薔薇? 蓮?」

「馬鹿な、敵は【玉犬・白】が──」

 

 【玉犬・白】の最期は、呆気ない物となった。

 恵が【白】を待機させていた所を見ると──首だけになった【白】『だったモノ』が壁に()り込み、穴という穴から血液を噴出しているのが視認出来た──視認出来てしまった。そして【白】の死は──呪霊が限りなく近い場所に顕現している事の証左だった。

 息を詰まらせながら、恵はどうにか、頭の中に鳴り響く警鐘に従い、悠仁と共に退却しようとした。

 

「──は────ッ、逃げるぞ悠仁! 野薔薇とジョーカーの捜索は──」

 

 もう、言葉を紡ぐ事すら不可能だった。

 悠仁にとっては左、恵とっては右。

 そこに──『奴』がいた。

 白磁のような肌。筋骨隆々。剥き出しの歯。四つの眼球が、まるで蛸足のような黒い部位に散りばめられている。まるで(まげ)のように留められた、背中に伸びる長い髪。胸の中心に何かがあるが、良く分からない。下半身は、(さなぎ)のような物体で覆われていた。

 恵でさえ、ほとんど感じた事のない重圧。かつての杉沢第三高校の時よりも、格段にレベルが違う悪意の感触。冷や汗が止まらない。足の震えが(おさま)らない。呼吸が出来ない。ジョーカーの《アルセーヌ》を初めて見た時の感覚に似ている。

 一歩でも動けば、死ぬ。

 それがひしひしと、五感全てに伝わってきた。

 

(……この重圧……間違いない、特級だ……足が、動かねえ……)

(……ヤバい、ヤバい、ヤバいヤバい動け動け動け動け動け動け! うわあああああああああああああああッッ!!!」

 

 頭で考えていた事を無意識に口にしていたらしい。悠仁は絶叫しながら左手で《屠坐魔》を振るい──

 惨、という肉の音の後に。

 破、という刃の音の前に。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……………………?」

 

 

 48.

 革靴が彷徨(ほうこう)する音が聞こえる。釘崎野薔薇の物だ。悠仁と恵を自分なりに(なだ)めようとして、暗闇に足を引っ張られた直後の事だ。野薔薇は現在、どこかも分からない暗闇を、足任せに進んでいる。しかし、出口の光は見えず、それどころか壁にすら到達しない。背中に嫌な汗が流れるのを野薔薇は感じた。

 ──その時だった。呪いの気配を感じ取ったのは……否、感じ取らなければ、楽に逝けていたのかもしれない。

 

「呪い──って、何よこの数……!?」

 

 その圧倒的個体数は、釘崎野薔薇の力量を上回るには充分すぎた。

 ゲラゲラと嗤う能面の呪霊……それが無数に存在している。およそ百はいるだろう。野薔薇’s アイは彼奴等を二級程度と判断した。現時点で野薔薇の階級は三級、実力は二級レベルの彼女でさえも、この数的不利には歯噛むしかなかった。

 《芻霊呪法》は、一対多の戦闘を得意としない。術式発動には『金槌で』『釘を打ち』『対象に当てる』という一連の動作が必要だ。また《芻霊呪法》は、刻撃した釘を術者が操作出来るというような優れ物でもない。刻撃してしまえば一直線にしか飛ばないし、それゆえに軌道が分かりやすく、拳銃よりも避けられやすい。術者本人が上手く立ち回れればこの状況でも問題は無いが、生憎この数は、野薔薇の能力の範疇を超えていた。

 暗闇を漂いながら、それらは一斉に野薔薇の方向を向いた。どう見ても対処できる数ではない。自然と金槌を握る力が強くなる。嫌な汗が、今度は額にも滲んだ。

 だが、その視線達は直ぐに別の所に向けられる事になる。

 その先にいたのは──野薔薇の手を握り、共に引き摺り込まれたジョーカーだった。足音を出来る限り殺しながら、野薔薇に駆け寄り安否を問う。

 

「無事か、野薔薇!」

「まあね。……無事でいられるかどうかは分かんないけど」

 

 全方向を見渡せるよう、背中合わせの状態になる。一度ジョーカーは手袋を締め直した。

 

「状況を整理したい。野薔薇、釘は何本持ってきた?」

「結構沢山……五十本くらいかな。けど多分、数合わないや。そっちは?」

「マガジン五つ分。装弾数は八発だから、四十発……いや、さっき一発撃ったから三十九発か」

「それでこの数相手ねえ……生きて帰れるかなー」

「スリルがある。勝てる戦いほどつまらない物はない」

「……アンタ、やっぱどっかブッ飛んでるわ」

「そう言うキミは珍しく弱気だな、野薔薇」

「こんな数相手にすんだから弱気にもなるっつーの。怪盗なら紳士らしく絶対守るとか言ってくれない訳ェ?」

「フッ……そんな事言わなくても、キミなら分かっているだろう?」

「にひひ……まあね」

 

 当然、野薔薇はおろか誰一人として死なせるつもりはない。仲間を目の前で二度も喪うなど、そんな残酷な事あってはならない。今度も、ジョーカー(切り札)の名に掛けて、仲間を最後まで護り抜く。殺させてなるものか。あの時のようには──

 

 ──明智吾郎(我が唯一の好敵手)を死なせてしまった、あの時のようには、決して。

 

 さて、ジョーカーの前世でさえ、これほど大量の敵に一度に襲われた経験は、流石に無い。だが、一対多数の戦い方は幾度となく(こな)してきた。

 右脇と腰裏のホルスターから、それぞれ得物を取り出しながら、ジョーカーはかつての記憶を思い出す。かつての世界で仲間と過ごした日本一周の旅。今までに経験した事のない、大量の敵に囲まれながらも切り抜けた、あの夏の壮絶な戦い(スクランブル)を──

 

 

「──背中は預けるぞ、野薔薇」

「任しときなさい。さあ、ブッ(ぱら)ってやんよ、雑魚共ォ!」

 

 

 滾る怒りと共に、ジョーカーは《剛巌(ごうげん)》とトカレフを、野薔薇は釘と金槌を握り締めた。

 想像するのは、円卓に居座る六つの反逆の魂達。その一角、『裏・ペルソナ全書』にて作成した、ジョーカーの縛り④のギリギリ適用外にあるレベルのペルソナ。女帝のアルカナに割り振られた、女性の(なり)をした龍。フランスに伝わる『ワイバーン』。右半身を蝙蝠(こうもり)に侵されてしまった、黒布を一枚だけ纏っただけの、その女の名は──

 

「──ヴィーヴル……《べノンザッパー》」

 

 体を蝕む『毒』と共に、翼を以って、広範囲に及び複数体の仮面を鎌鼬(かまいたち)にて撫で斬りにする。十数体に及びヒットし、何体かは一気に祓えたが、一撃では仕留められなかった者──その内の一体が、苦しみ、足掻いて、地に落ちていくのが窺えた。

 ジョーカーに攻撃して来たものは軽々と避けられ、一体、また一体と落ちて、塵と消えていく。蓮の前世では存在しなかった状態異常……『毒状態』だ。勿論呼んで字の如く、一定時間対象にダメージを与え続ける現象である。ヴィーヴルは『毒状態を付与するスキル』を持っていた。

 ──裏・ペルソナ全書は、並行世界の東京に潜む悪魔を元にリストアップされる……そう言ったのはラヴェンツァだった。蓮が「どういう意味だ」と問えば、「実は私にも良く分かりません」と返された。両方共に首を傾げる不可思議な事態になったのは言うまでもない。

 そもそもこの裏・ペルソナ全書は、雨宮蓮の更なる強化のため、持てるペルソナの幅を広めようとして、ラヴェンツァがあれこれ錯誤していたら何か出来ちゃったと言うのだ。ラヴェンツァはこの裏・ペルソナ全書を、『二つの世界間の法則が変に入り混じって出来たバグのような物』と形容している。

 詳しく説明するために、蓮がいた世界を『ペルソナ世界』、そしてこの世界の事を『呪術世界』と呼称する。例えるなら、ペルソナ世界の法則(絵の具)を呪術世界の法則(絵の具)に上手い具合に組み合わせ(混ぜ)ようとしたら、誤って加減(分量)を間違えてしまい、『ペルソナ世界』×『呪術世界』×『どちらの世界にも当て嵌まらない並行世界』の要素を併せ持つ全書(ダークマター)が出来上がったのだと言う。

 ラヴェンツァ曰く、呪術世界における全書を作ろうとすれば、そのページ数はあまりにも少なくなってしまうが、そのページに記録されるペルソナ達があまりにも強力過ぎて、現時点でのジョーカーの技量では扱いきれないと言うのだ。それでは本末転倒であるため、故に今回の作成にて、手加減を誤る必要があったと弁解している。

 何だそりゃと思ったが、ラヴェンツァが唇を尖らせて涙目になっているのを見て、持てる《知恵の泉》並の語彙力及び知識と《慈母神》並の優しさを総動員して裏・ペルソナ全書を褒めちぎった。「ええ、そうでしょうとも。えっへん」と上機嫌になったのを見て、蓮はどうにかメギドラオンの刑を免れたと胸を撫で下ろした。……まあ、当の本人は、蓮に格好良いところを見せたくて意地を張っただけだったりするのだが。

 それはそれとして、彼女は彼女で一般的な工具から神器を造り出そうとするヤベーやつなので、『そういう物』だと蓮は個人的に無理やりに納得し、それ以上の詮索はしないよう努めようと決意した。

 さて、これにて縛り③の、一分間のペルソナの使用禁止が適用される。一見デメリットにしか見えないこの縛りは、しかしこの一分間、ジョーカーの更なる身体能力向上に補正を掛けている。

 縛りの恩恵無しの場合、現時点でのジョーカーの身体能力は、全盛の約三分の一。レベルとして数値化すると、四十手前程度だろう(ジョーカーでさえ自分の成長スピード早くないかと思っていたりするのは置いておく)。そして縛りが適用された場合、身体能力だけで言えば──全盛の二分の一に匹敵する。

 圧倒的跳躍力によって、フヨフヨと漂う能面の一体に飛び乗った。リロードをしていないため、現在のトカレフの装弾数は七発。──そして破裂音と共に、その内の一発が消費された。周囲に点在する気配を察知し、消えていく足場(能面)を踏み台にして、残り六発を舞踏(ロンド)のように舞いながらばら撒き、命中させていく。

 

「……アイツ本格的に人間辞めてない? 動きスマブラかよ」

 

 ──ま、こっちも負けるつもりないけどね。

 そう呟いた野薔薇も、派手さではともかく、活躍では負けてはいない。手始めに刻撃していた四本の釘は、それぞれ能面の脳天、右頬骨、左下顎、額右側に着弾し──

 

爆ぜて死ね(芻霊呪法【簪】)

 

 ──指を鳴らすと同時に爆発する呪力は、果たして周囲にいた呪霊達を巻き込み、闇に四つの淡く蒼い一等星を作り上げた。

 戦いは続いていく。

 虎杖悠仁と伏黒恵の安否を気にしながら、金槌を振るうその最中──釘崎野薔薇は、ジョーカーならばあるいは、あの二人の眼前に現れたであろう特級呪霊が相手でも、互角に戦えただろうに……と思い、その思考を直ぐに止めた。

 

 

 49.

 至近距離──奴の、特級呪霊の射程距離内だ。もはや逃げる事は出来ない。ドス黒い殺気が二人を襲う。先に口を(ひら)けたのは悠仁だった。

 

「オイ宿儺ッ、俺が死んだらお前も死ぬんだろ!? それが嫌だったら協力しろよ! このままだと死ぬんだぞ俺ら……!」

「断る」

「あ!?」

オマエ(虎杖)の中の俺が終わろうと、切り分けた魂はまだ十八もある……が、腹立たしい事にこの体の主導権は俺には無い。代わりたいなら代わるが良い。

 ──だがその後、真っ先に()()()()()()()()

 その次に、ジョーカーとかいう奇怪な男、そして女だ。特に女は活きが良い。アレが四肢を()がれ涕泣(ていきゅう)し、命を乞いながら(みだ)れる姿を(さかな)──

テメエの言い分は分かったからさ、もう二度と喋らなくて良いぜ、(ゴミ)野郎。

 チッ、相談する相手を間違えた……恵、ジョーカーと野薔薇を連れて領域(ここ)から逃げろ……っつ」

 

 もう使い物にならなくなった、《屠坐魔》を収めていたホルスターのベルトを左手首に巻き、苦痛に顔を歪めながら止血を試みる。

 

「馬鹿か!? 死ぬぞ悠仁!」

「いや、多分死ぬこたない。まあ下手したら死ぬけど……見ろよ恵、アイツ、俺達の事完全に()めきってる。さっきだって、俺達の事、殺そうと思えば殺せたんだ。今も、応急処置してんのにまるで打って来ねえしな。遊んでんだよ、俺達で。

 ……だから俺が囮になって、ここで食い止める。その間に、ジョーカーと野薔薇を助けて、脱出したら合図をくれ。合図と同時に宿儺に代わる。俺は宿儺の意思に関係無く代われっからな、問答無用で引き摺り出してやる……!」

「だが──もし万が一の事があれば、お前は──!」

「恵。」

 

 冷や汗を流しながら、無理に笑って悠仁は言う。

 

「……頼む」

 

 その顔は、どこかで諦めているような顔をしていた。

 まるで、生贄に捧げられる前日の少年のような、そんな顔を……。

 

(……こういう事があるから……誰かを救うために仲間を犠牲にしなければならない事があるから、呪術師は嫌いだったんだ……!)

 

 いつの間にか、拳を、爪が肉を食い破るほどに固く握りしめていた。

 ここで一人だけ悠仁を置いていくのは、悠仁を見殺しにするのと同義だ。だがここで見捨てなければ、野薔薇とジョーカーの救出は不可能。ジョーカーでさえも、この領域の出入口の捜索は、彼の持てるペルソナを以ってしても無理な話だった。

 ならば戦うか……無意味だ。伏黒恵の実力では、この特級呪霊の祓除は不可能ということもまた事実。無駄に犠牲を出すだけだ。恵の決死の()()()を出せば祓えるだろうが、一度顕現すれば最後、その被害は避難区域500メートルを大幅に超えて暴れ回るだろう。人、呪霊、果ては顕現させた本人である術師に関係無く、全て破壊するまで止まらない化け物が、野に放たれる事態になってしまう。

 ならば、自分よりも階級の高い術師に応援を要請する方が──つまり悠仁の囮作戦を採用する方が、よほど理に適っている。恵は、宿儺が素直に協力してくれるとは、先の問答では到底思えなかった。

 けれど、それは──その選択は、本当に正しいのか。

 恵が機械だったならば、あるいは心無い指揮官だったならば、真っ先にその選択をするだろう。だが恵は命令されないと動けないロボットでもなければ、作戦のために誰かの命を踏み躙れる悪鬼畜生でも無い。呪術師であり、男子高専生であり──友と笑い合う事を最近知ったばかりの、ただの少年である。

 故に、見捨てるという選択を心が阻んだ。

 だが現実はどうだ。目の前には、それを考えさせる余地も無い程の絶望が立っている。

 見捨てず戦えば、最低でも二人死ぬ。

 見捨てれば、悠仁の犠牲だけで済む。

 いずれにしろ、誰かが死ぬ可能性は高い。

 ……まるで雁字搦(がんじがら)めの紐だ。

 

「悠仁、俺は…………っ」

 

 ……結局恵が採用したのは、悠仁の案だった。

 伏黒恵は見捨てるのだ。己の意思で──友を。

 くしゃりと歪んだ顔を見せまいとして、反対方向を振り向きながら、恵は弱々しい声で言う。

 

「……死ぬなよ、悠仁!」

「もち。虎杖悠仁嘗めんなよ」

 

 交錯し、互いに反対の方向へと向かう二人。捜索を開始するその折、恵はある一点を見つめ、一旦足を止め、再び走り始めた──。

 さて、特級呪霊はというと、自身を縛っていた足元の蛹のようなものを引き割き、その健脚を悠仁に見せつけるようにして露わにし、悠仁はそれに皮肉で返した。

 

「ヘッ、フンドシ一丁になって動きやすくなりましたってか。クソッタレが」

「アッ フフゥ

(さーてどうする……呪力操作なんて出来た試し無えしな……けどそれでもいい。今はとにかく時間をかせ──)

 

 ──その先の思考を、全身に感じる痛みが消し飛ばした。

 

お゙うッ……ゔえ゙ッ??

 

 コンクリートの壁にクレーターを作って、躯体を地へ転がさせられる。あまりの衝撃に胃の中の物を戻しそうになるのを必死に堪えた。

 その衝撃の正体を分析しようにも頭が回らない。無理に起きあがろうとすると全身が軋む。上手く起き上がれないのは、左手首から先が存在しないためだけではない。雷に打たれたかのような、全身が麻痺する感覚が襲う。その正体を悠仁は知らない。だが憶測はつく。それも、あまりにも残酷な憶測が──。

 

(──()()()()()()()()()()()……! ()()()()()()! 呪力のバリアを押し出しただけだ!! それ以上でもそれ以下でもない!! 破壊力も、スピードも! 何もかも格が違う!!)

 

 一生命としての格の差が、悠仁の心に一筋の絶望を孕ませた。

 

(クソ、早く立ち上が──)

 

 ……だが悠仁はまだ知らない。絶望よりも深くドス黒い、醜悪で残酷なモノを味わう事を。そしてソレが、今まさに自身を嬲らんとしている事を……。

 

──イ、ヒッ

「ぐ──か──────……ぅ、え、うううぉ、え゙え゙えッ!!

 

 再び、特級呪霊の呪力が悠仁を襲う。クレーターの瓦礫を貫通して地を転がされ俯せになる。数瞬間の気絶の後、胃の中の全てを、血液とをブレンドしながら吐き出す事で目が覚めた。窒息感と、胃袋が萎縮する感覚が相まって、更に嘔吐しようと己の意思関係なく身体が試みる。細胞の隅々までが恐怖して、膝が笑って起き上がれなかった。

 だが、それを特級呪霊が待ってやる理由は無い。胸の中心にある黒点を起点に、より強力で膨大な規模の呪力のバリアが、俯せのままの悠仁を襲う。危機管理能力に身を任せて一瞬で飛び起き、鼻血が出ているのも、左手での防御がままならないのも構わず、そのバリアに向けて両手を掲げ、どうにか食い止めようと踏ん張る。

 だが……それをして何になるだろうか。

 悠仁は呪力操作が出来ない。そもそも教わっていない。蓮に聞いた事はあるが、何だかよく意味が分からなかった。

 左手の断面傷に加え、今度は右手までもが分解されていき、激痛により腕が震えた。鼻血の出血量が更に増した気がする。咽喉をすり潰したような喘ぎ声を出しながら、奥歯が砕ける程に噛み締めながら、永続的に襲ってくる不快感に涙を流しながら、それでも悠仁は立ち向かって──

 心が折れそうになる。

 どうしようもない程に埋まらない実力差。

 現在進行形で味わっている生き地獄。

 孤独に強者と戦う事の不安。

 隣に相棒がいない事の嘔気。

 口の中に広がる酸と赤い鉄の味。

 救えなかった人々への贖罪。

 直面する濃厚な死の予感。

 眼前に無限に広がる地獄への道のり。

 虎杖悠仁の心は、既に限界を迎えていた。

 

う、うう──ぎ、ぐ、ううう、ううゔううゔゔゔ!!!

 

 痛い、痛い、痛い!!死ぬほど痛い!!じゃあなんで死ねない!?

 何でこんな事に!!何で!!俺が一体何をした!!何で俺が!!

 何でこんな目に!!宿儺だ!!あんな指拾わなければ良かったんだ!!

 助けて、蓮!!恵!!野薔薇!!いや、違う!!俺が助けるんだ!!

 吐きそうだ!!気持ち悪い!!こんなにつらいなら、最初から呪術師なんて──いや、考えるなそんな事!!

 思い出せ!!爺ちゃんの遺言!!助けなきゃ!!人を!!沢山!!守らなきゃ!!蓮を!!死んでも!!何のために!?

 ──ここで!!こんな所で死んで!!

 ここで死んで!!死ねたとして!!

 これは『正しい死』なのか!?──違う!!違う!?何が違う!?

 もう嫌だ!!楽になりたい!!

 現実から目を逸らすな!!コイツを通せば全てがお陀仏になるんだぞ!!

 ──死なせてくれ!!

 ──嫌だ、死にたくない!!

 

 

「考えるなあああああああああああああああああああああ──────!!!」

 

 

 ──次の瞬間、感じたのは、まるで、この世界に自分だけがいなくなったような感覚。

 

 足元の地面が無い。死ねたのかと思ったが、それは否だった。

 

 直後に感じた背中の衝撃、共にやって来る窒息感が、今もなお、恥を晒しながら生きている事を実感させた。

 

 ……ああ、そうか。

 

 俺は、こんなに弱かったのか……。

 

 

 50.

 

「……このペースなら何とか行けそうね。つっても、釘のストックはこれ一本だけだけど。もっと持ってくれば良かったなあ……」

「オレも呪力はそうでもないが、弾は使い切ってしまったな。……悠仁と恵が心配だ」

「なら、さっさと殲滅(せんめつ)するに限るわね……!」

 

 そう言い合ったのは、つい十秒ほど前の事だ。能面の呪霊はほぼ祓除を完了し、一息を吐かんと大きく深呼吸した野薔薇。ジョーカーが飛び込み、野薔薇も最後の一本を刻撃しようとした所──しかし突如、その足首を何者かに掴まれ、圧倒的膂力によって為す術なく持ち上げられてしまった。

 見ると、いつの間にやら能面以外にも呪霊が発生している事が分かる。能面のそれよりかは小規模だが、全長5メートル二足歩行の芋虫やら、巨大な一頭身のキノコやらと、やはり種類も数も多い。その芋虫の一体が、野薔薇の足を掴んだのだ。

 その折に、地に頭を強く打ったのだろう。額に擦過傷と打撲による鬱血、及び少量の出血をしてしまっている。脳震盪を起こしたのか、根性で保っていた意識と金槌とを落としてしまう野薔薇。ジョーカーが静止状態ならば気付けただろうが、風という雑多の中から音を聞き分けられるほど、ジョーカーの耳は人間離れしていない。

 他者に向けられた殺意には、自身に向けられるそれよりは鈍感だったという事か。

 

「レディのごそ、ん……が…………っ」

「野薔薇!」

「あ゙ぁぁぁあああアア゙ア゙アン゙」

 

 救出に向かうジョーカーだったが、一頭身のキノコらがそれを遮る。ペルソナを野薔薇の治療に充てるか、呪霊の祓除に充てるかで一瞬迷ったが、祓除及び救出を優先し、キノコらを《剛巌》にて辻斬りした後、巨大芋虫にたどり着いた。

 刹那の内に円卓を思い浮かべる。皇帝のアルカナに割り振られた、裏・ペルソナ全書にて作成した内の一角。大和政権に恭順しなかった豪族達の呼称を元とする、源頼光に対抗したとされる妖怪の一種。二本角の鬼の(かお)に、青い甲殻に覆われた蜘蛛の胴体。日本を『魔界』へと変貌させようと目論む、その物ノ怪(もののけ)の名は──

 

「ツチグモ──!!」

 

 毒を孕んだ鋭利なる爪から放たれるそのスキルは、果たして芋虫の野薔薇を掴んでいた腕を引き裂き、野薔薇の救出に成功する。《ジオンガ》という電撃属性の──それこそ、この《ポイズンクロー》よりも強力なスキルもあったのだが、いかんせん電撃という事もあり、感電による筋肉の収縮によって野薔薇が握り潰される……という事態を危惧した一瞬間の思考は正解だったようだ。

 切断された腕を始めに、紫苑色の生命と握力が消えていく。すり抜けていく野薔薇の体を、優しく蝶を包むように、頭と膝裏に手を添えてジョーカーは抱き寄せ着地。金槌も拾っておこうとサードアイを発動させたが、見ると柄が折れてしまっており、使い物にならなくなっていた。回収の考えを放棄し、キノコ頭の呪霊と相対する。

 ……縛りの存在が鬱陶しい事この上ない。一分間野薔薇に我慢してもらうしか選択肢が存在しないのは、流石に酷だ。加えて乱入してきた更なる呪霊の処理は、野薔薇を抱えたままでは不可能だ。頭部を強打した怪我人を揺らせないというのもあるが。

 ジョーカーは久々に肝を冷やした。両手は塞がっている。ペルソナは一分間使えない。使えるようになったとて、まずは野薔薇の回復が最優先。そして野薔薇が気絶から回復するかどうかは本人次第。

 危機一髪か、万事休すか。

 そのスリルに、しかしジョーカーはニヒルな笑みを浮かべた。

 ──ジョーカーは戦闘中、笑みを絶やさないよう心がけている。ヒロイズムから来るものではない。そもそもジョーカーのその笑みは、ヒーローには似合わない程に歪んでいる。

 怪盗として、切り札としての責務なのだ。どのような佳境にいたとしても、苦戦していても、決して笑みは消えない。

 切り札が微笑まなければ、誰が勝利に微笑むのか。女神か? 神か? ──否だ。ジョーカーは神を嫌っている。唾棄していると言っても過言ではない。神の存在は信じても、その在り方や行動には一切の敬意を抱かない。

 信じるべきは、仲間との絆。それだけでいい。それだけで、神をも超える力になるから。

 

(とは強がってみるものの……どうする? 負傷者一人を抱えたまま戦っていれば、怪我が悪化してしまうな。発動した縛りも活かせないし、流石に手厳しいな。

 ……四の五の言ってられないな。()()()()()()()……)

 

 ジョーカーの『切り札を切る』という事はつまり、縛り④──自身の肉体レベルよりペルソナのレベル数が1つでも高いペルソナを召喚・スキルを発動した場合、以降七十二時間経過するまで、ペルソナを召喚できない──が適用されるという事だ。

 縛り③(一分間の羈束)が将棋で言うところの王手なら、縛り④(七十二時間の首枷)は矢倉囲いだ。

 矢倉囲いは、前面が特に堅い囲いの一つで、角が攻めにも守りにも適用できる事で有名だ。だが、横からの攻撃や端に詰められるとめっぽう弱い。居飛車を好む初心者向けの戦法だと、かつて███は習った事がある。リスクは負うがリターンも大きい。それが縛り④(矢倉囲い)だ。

 だが現在、その矢倉囲いを崩されつつある。ここで切り札(飛車)を切らねば、もはや打つ手は無いと言っていい。恵と悠仁との援護は難しくなるが、戦えなくなる訳ではないと腹を括り、潜入前にベルベットルームで()()()()()()()()()()()()()()切り札の顕現のため、ドミノマスクに手を伸ばし──

 

「【大蛇(オロチ)】、【(ぬえ)】!!」

 

 ──影から出ずるバジリスクと凶鳥が、残るキノコ頭を屠っていく。【大蛇】はその強靭なる躯体をもって締め上げ、【鵺】は雷を伴いながらキノコ供を八つ裂きにしていく。見紛うものか、伏黒恵の《十種影法術》の式神達だった。

 光差す方へと扉は開かれる。そこにいたのは、安心と信頼のうに頭、伏黒恵その人だった。

 

「恵!」

「脱出するぞ、ジョーカー! 野薔薇は俺の【蝦蟇(がま)】が連れて行く! 援護を頼む!」

 

 【大蛇】と【鵺】を解除しつつ、再び【玉犬・黒】と、更に【蝦蟇】を顕現させる。巨大な蛙が野薔薇を舌で包み、口に含んだ。

 

「うえ……」

「えずくんじゃねえよ! さっさと行くぞ!」

 

 流石にジョーカーでも嫌悪感を醸し出させた。恵はそれに叱咤しながら、ジョーカーと共に、己が開いた扉を潜り抜けた。

 腐食した排水管が血管のように巡っている。タイルが敷き詰められた道無き道を走る、二人と二匹と口内の一人。ジョーカーは恵に、ここにいない悠仁の安否を問うていた。

 

「悠仁は」

「今特級と戦ってる! 宿儺に代わろうとしてるんだ! 俺達が脱出しねえと宿儺に代われねえ!」

「そうか……」

 

 徐々に速度を落とすジョーカーを、足音で察知した恵。その真剣な眼差しを見て、恵は嫌な予感がした。

 

「恵、脱出後に【玉犬】を借りたい」

「……まさかお前」

 

「悠仁を──助けに行く」

 

 彼は言う。

 真っ直ぐに、愚直に。

 澄んだような、濁ったような。

 当然のように、強かに。

 切り札としての責務を全うする事を。

 

「──テメエ、マジでイカれてんのか!」

 

 自分では出来ない事を、平然と言ってのけた。

 気付けば、ジョーカーのコートの襟を掴んで逆上していた。その眉根は悲痛に歪んでいる。諦めた者と、諦めない者……その差を、恵は直視したくなかったのかもしれない。もう口は止まらなかった。

 

「何なんだよお前はっ! 今行ったら、お前でも悠仁の巻き添えを喰らうだけだ! いくらお前が強いっつっても相手は特級呪霊なんだぞ!? 命を無駄に落とすだけってのが分かんねえのかよ!!」

 

 特級呪霊には敵わない。人間兵器(五条悟)しか対抗手段は無い。

 まるでそう言っているようだった。

 ──そもそも恵は最初から、誰も勝てると思っていなかった。

 恵は、共に戦う者を過大評価しない。堅実に任務を遂行するため、自身や仲間の技量を最低限度で見積もる。例えそれがジョーカー(切り札)でも、五条悟(最強)でも。……五条悟に至っては、ある種の信頼を置いているのでさほど関係無いが。

 さて、術式や身体能力には『程度』と『限界』があると、恵は考える。身近な例だと、三日前、初めてジョーカーと稽古した折の事だ。ペルソナの二体同時召喚は……()()()()()()。そこが、蓮の『限界』。いくらペルソナが強力とはいえ、特級相当には通じない。そう恵は考える。

 故に止めるのだ。ジョーカーの行動は無謀だと。

 

「それに俺は……っ、託されたんだ。野薔薇とお前を、安全な所へ避難させろって! 決死の覚悟でアイツが言ったんだぞ!? 

 ああくそッ……何言いてえか纏まんねえっ! とにかく、悠仁の帰還を外で……、っ──。頼むから……!」

「……恵」

 

「──俺に、お前まで見殺しにさせないでくれ……!」

 

「恵。」

 

 ……だが一つ、恵は思い違いをしている。

 いつもの様に、不敵に笑ってジョーカーは言う。

 

「任せろ」

 

 ジョーカーにとっては、無謀こそ逆転のチャンスなのだ。

 その顔に、決して諦めなんて物は無かった。

 

 

 51.

 

「……自惚(うぬぼ)れてた」

 

 そう呟いたのは、虎杖悠仁その人だった。その言葉に覇気は無い。生気も無い。

 その目に宿るのは、深淵の如き絶望だけ。

 胸に空洞が空いたような虚しさが、悠仁の感情を締め付ける。

 

「俺、強くなれたと思ってたんだ。死に時を選べるくらいには……強いと思ってた……」

 

 ボロボロになった右手を握る。やがてポタポタと落ちる水滴が傷に染みていく。

 これまでの二週間、自分は何をしていたのだろう、と思った。

 ジョーカー──蓮は必死で努力して、自分を助けようと奮闘しているのに、対して自分は何をしていた。呪力操作のコツ……とまでは行かずとも、呪術戦の基礎を教わっていたならば、多少はマシな状況を切り開けただろうに──己は果たして、何を為した。

 

「けど……違った……っ!」

 

 宿儺の指を喰らい、《屠坐魔》を貰い、自分よりも弱い呪霊を葬って──それを自信として積み重ねてしまった。

 弱い者いじめで得られる多幸感だったのだ。振り回したとてただ虚しいだけの力を見せびらかしたいという、そこらにいる小学生低学年の思想と何も変わらなかった。

 虎杖悠仁が今まで積み上げていた自信とは、所詮その程度の物でしかない。

 ずっと目を背けてきた。考えないようにしていた。それを自覚してしまったら、蓮や皆の隣に立てないような気がしたから。

 けれど、この現実からは、もはや逃げる事は出来ない。

 ──俺は、弱い。

 

「ホントは、蓮と──皆と肩並べて戦う資格すら、無かったんだ……ッ!」

 

 背中を守ると誓ったのに。

 その背中にすら、辿り着いていなかったのだ。

 死に際になって、ようやくそれに気が付いた。

 悠仁にとって、あまりにも遅過ぎる気付きだった。

 

「全ッッ然、弱過ぎる!! 

 ぅああああ、死にたくねえ! 嫌だ、嫌だよぉっ……!!」

 

 でも…………おれ、しぬんだ。

 双眸から溢れ出る恐怖が、拭う事も出来ない指の隙間を通り抜けて、悠仁の耳元で囁いた。

 ……思えば、『正しい死』にずっと甘えていたのかも知れない。

 親しい人や、自分が知っている人が無惨に死ぬのを見たくなかった。せめて死ぬのなら、『正しく死』んで欲しかった。『正しい死』に導きたかったのだ。だから、ずっと『死なせてしまった後』の事を考えずにいられた。

 ──けれど今、自分がその『死』に直面して、それが甘えだという事に気がついた。『死』がこんなに嫌悪感を引き出すものだと思っていなかった。死に方に拘る事で、本質的な物からずっと目を背け続けていたのだ。そしてそのツケを払う時が来た。それ以上でもそれ以下でもない、『理不尽な死』という可能性を考慮しなかったツケを払う時が。

 ああ、痛い。つらい。苦しい。もう無理だ。早く逃げたい。五条先生ならきっと何とかしてくれる。蓮ならきっと助けてくれる。

 けど、今逃げたら、囮作戦が全部パァだ。恵の合図だってまだ無いのに。関係ない。今逃げないと、本当に死ぬ。──いや、関係ある。死にたくない。けど、友達が死ぬのは見たくない。思考がぐちゃぐちゃだ。考えが纏まらない。

 ならどうする。いや──そんなのもう解ってる。けど足が動かない。手に力が入らない。

 ……呪術師に悔いの無い死など無い。その意味が、今ようやく分かった気がする。ならせめて、この死が無駄じゃないって思えるように…………いや、()()

 右手の指と、左手の手首から先が無い。もう以前のように、上手く握る事も出来ない。差し出された手を握り返す事も難しくなるだろう。

 けれど、生きたい。

 何のために戦うのかを、一度だけ無意識の内に己に問うた事があった。以前なら、あまり上手く形容出来なかっただろう。けれど、今なら言える気がする。……いや、そもそも単純な事だった。小っ恥ずかしくて、口に出来ないだけだった。

 

 ──蓮と、皆と、この先ずっと、笑い合っていたい。

 

 なら、蓮が言ってる事を思い出せ。己に問え。このままでは俺は、何も為し得ぬまま、『運命を円滑に進めるための歯車』のままで生を終える。そんなの、頭では許せても、心では許せない。

 

──諦めるのか?

 

 地べたを這いつくばっても、泥水啜っても、雑草のように踏みつけられても──

 

── 俺は、虎杖悠仁なんだ(絶対、諦めるもんか)

 

 無い手と砕けた手で、両頬を叩いて気合を入れ直す。片方の鼻を押さえて、鼻血ごと垂らした鼻水を吹き飛ばした。覚悟の再形成などとうに済ませた。

 涙はもう、流さない。

 

「フゥ──────ッ、うし、もう泣かねえ。こんな所で、こんな奴に殺されてられっかよ…………あークッソ! 考えたら腹ァ立って来た!!」

 

 ならば喰らわせろ。恥辱も後悔も、無念も憎悪も、そして湧き上がる、止め処ない怒りも。拳に乗せて、無い指を握りしめて、その一歩を踏み出せ。

 これは、生きるための戦いだ。虎杖悠仁が、また皆と一緒に笑い合うための戦いだ。負けられない。負けたくない。……負けるものか。

 覚束(おぼつか)ない足取りで、乱れ切った呼吸で、ぼろぼろの右手で、ぐちゃぐちゃな身体で、砕けた奥歯を食いしばって、虎杖悠仁が今持てる全霊の力を動員して、一歩、前へ──!!

 

「ぅ、おおおおオオオッ!」

 

 渾身の一撃は、しかし軽々と受け止められる。呪霊はより笑みを深くして、反撃の右拳を握り──その右拳を、防御に回す事になった。

 呪霊自身も驚くべき事だった。謂わゆる第六感に突き動かされた事による行動だったが、まさか()()()()()()()()()()()()()()とは、思っても見なかったのだ。……否、もはやそれは問題ではない。

 ──止まらない。右が駄目なら左、左が駄目なら右。右、左、右、左……その応酬は、微弱ながら、しかし確実に速度を増していく。

 悠仁自身の膂力に傷口が抉れ、激痛が襲っているのは確実。顔を顰め、目尻には水滴が溜まる。しかしその水滴は、絶望から来る物では無かった。もはや悠仁に絶望は無かった。

 この拳が二度と何かを掴めなくなろうと、この脚が我が躯体を支えられなくなろうと、この口が一切の呪詛を吐けなくなろうと、虎杖悠仁は(いと)わない。呪霊の口から、段々と余裕が無くなっていく。

 呪力操作は安定していない。一発一発の威力はまちまちで、もし宿儺がこの状況を見ていれば──悠仁には分からないが現に見ており、悠仁を鼻で嘲笑っている。だが、今の悠仁には、そんな事を気にする余裕など無い。

 ──今の悠仁の頭には、眼前の敵のニヤケ面をブン殴る事しかないのだから。

 現在悠仁の心は、負の感情が大半を占めている。無意識下だし、呪力操作も覚束無い。とはいえ、今の悠仁は呪力を拳から放出している。それが出来ている。だが拳だけでは足りないのだ。喧嘩をこなしてきた経験が、悠仁のポテンシャル強化に拍車をかけた。

 親指の先から、踏ん張るための足と腰、そして最高威力を叩き出すためのバネとしての役割を果たす体幹。力を込めろ、殴り続けろ。

 人間離れしたラッシュのための肺活量を支えるための肺胞、気道。拡げろ、微弱な勝利を確実な物にするために。

 微弱なる握力を、限界を超えて発揮するための下顎と上顎、何より奥歯。折れたって構わない。構わないから、進み続けろ。

 そして鋼よりも硬く握られた拳。『左』は無いが、仮想の『左』を空想中に生み出して無理やり握れ。そして叩きつけるのだ。

 かくして、まばらに強化された躯体が、段々と特級呪霊を追い詰めていき──そうして殴り続けるうちに、均衡は崩れた。悠仁のラッシュに、特級呪霊でさえも耐えられなくなったのだ。体幹が崩れ、後方に仰け反ってしまい──その瞬間を、虎杖悠仁は見逃さなかった。渾身の力を込めて、肚の底から湧き出る怒りを、彼奴の憎たらしい顔面に、右拳と共に叩き込む──!

 

「──あああああアアアア゙ッッ!!」

 

 獣の如き発声と共に、果たして、気色悪いほどに真っ白いその歯を、何本かへし折ってやる事に成功した。

 流石に斃れる事は無かったが、それでも良かった。してやったりと、ジョーカーの真似をして、口の端を上げてみる。……が、その口は痛覚により苦悶に変わっていく。見ると、呪霊に叩きつけていた拳や手首は、表皮がさらにボロボロになり、筋肉が剥き出しになってしまっていた。出血も先程の比ではなかった。

 

「あ゙ー、もおおお! 殴ってる方がいってえし!

 ──けど、っへへ、どうだよ特級呪霊! そのニヤケ面に一発お見舞いしてやったぜ、この野郎!」

 

 ぐちゃぐちゃになった右手で指差して、悠仁は彼奴を見遣る。

 その顔は、どこか晴れやかだった。

 倒れ伏した特級呪霊。ゆらゆらと立ち上がって、折れた歯を覆い隠すように手で押さえる。次の瞬間には、その全てが完治していた。額に浮き出る血管が、奴の苛立ちを想像させる。

 ──遊びは終わりだ。そう言わんばかりに悠仁を睥睨し──

 

「ゥアオ────────────ンッッ!!」

 

 ──犬の遠吠えが、突如二人の耳に入り込んできた。

 

「玉犬の声……恵の合図だ……へへ、やっとかよ。

 ざまーみろ、テメェら。」

 

 仕事は終わった。そう言わんばかりに、悠仁は目を瞑る。

 全く不本意だが、この後を呪いの王に託し、虎杖悠仁は表層意識から消えていった──。

 

「……つくづく、忌々しい小僧だ」

 

 果たして、入れ替わりには成功したようだ。不快感を隠そうともせず、むしゃくしゃしながら反転術式で全身の傷を癒す。だが心中までは癒せない。

 虎杖悠仁の目を介して、宿儺は先刻の情景を見ていた。鼻水まで垂らして泣きじゃくるその姿を滑稽と思い嗤ったが、次の瞬間には絶望の表情は抜けていた。敵わぬ強敵を前にして、その心持ちが晴れやかだった事に、宿儺は何とも言えぬ不快感を抱いた。

 両面宿儺にはその感情や感覚の解を持ち合わせていない。ただ、虎杖悠仁には分かる。千年生きた己と、齢僅か十五歳の餓鬼との差が、どうしても不愉快だった。

 絶望という感情。それを見るためだけに、その愉悦に浸るためだけに、立ちはだかるもの全てを破壊したと言っても過言ではない。

 だがこの体の主はどうだ。絶望を前にして、泣きじゃくり、御託を並べ──そして最後には立ち向かった。最後まで生きる事を諦めなかった。どこにそんな勇気があったというのか。いつそれを宿したというのか。両面宿儺には分からなかった。

 ならば、その勇気さえも粉々に消し飛ばしてくれよう。苛々しながら、宿儺は特級呪霊を諭しつつ、いかにすれば虎杖悠仁を後悔させられるかを考えていた。……当の特級呪霊は、宿儺に怯えるだけだったが。

 

──チッ、少し待て、今考えている。

伏黒達(あちら)を追った所で直前に代わられるのがオチか……。となると、奴等が一番困る構図は……特級呪霊(コイツ)伏黒(あの小僧)の所に連れていく、か。これだな。ハッ、振り出しに戻してやる)」

 

 下卑た笑みを浮かべつつ、右手の指を復元しながら宿儺は言う。

 

「おい、餓鬼共を殺しに行くぞ。ついて来い」

 

 完全に治った右手の人差し指で、ボディーランゲージを使いながらぶつくさと言い……そうしてハッと覚醒した特級呪霊は、宿儺の圧倒的恐怖による息切れから何とか抜け出し──()()()()()()()()()()()()()()。眼前の存在の正体を知らぬとは(いえど)も、愚かにも夢想してしまったのだ。

 この両面宿儺という存在(目の前の生命)よりも、己の方が強いと。

 果たして、その濃密な呪力のエネルギー塊は、王に向けて放たれた。──が。

 

「はァ── 莫迦(ばか)が」

 

 額に血管を浮かべ更に苛立ちながら、宿儺は()()()()()()()()()()それを受けた。

 その背後にて巻き起こる爆発と粉塵。巻き込まれた宿儺だったが──

 

「あ、いかん。こっちも治してしまった」

「エ、エエエエエエエエッッ!?」

 

 ()()()()の状態で、彼はそこに立っていた。屁でも無いというかのように、あっけらかんと切断されていた左手首から先を治した事に、宿儺は「あーあ、やっちゃった」と溜息を吐いた。どうやら宿儺は、高度な反転術式を操る事が出来るらしい。

 人間の体を治す事は、呪霊の体を治す事と訳が違う。それも、失った部分をそのまま治すとなれば尚更の事。今のジョーカーでさえも、このような芸当は出来ない。『塞ぐ』のと『再生させる』のとでは、反転術式のレベルに差がありすぎるのだ。

 それを宿儺は、至極当然のようにやってのけてしまった。

 

「散歩は嫌か? ……まあ、元来呪いとは生まれた場所に住み着くモノだからな、良い良い。はは──

 

 特級呪霊は気付かなかった。先刻の行いが、自身の寿命を縮めるだけにしかならない事に。

 特級呪霊は気付く。先程まで目の前にいたはずの両面宿儺がいない。逃げた? 否、重圧は今もなお感じる。ならばどこに行った?

 そうして宿儺を探すその刹那──特級呪霊は気付いてしまった。

 

 

 ──ならば、ここで死ね。

 

 

 生まれたばかりであるはずの、己の死を。

 

 

 52.

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ──」

 

 錆びた鉄の匂いに噎せ返りそうになりながら、怪盗と黒犬が疾走する。手袋の赤い軌跡が闇に浮かんで消えて行く。釘崎野薔薇は救出済み。後の安否を伏黒恵に託した。おそらく伊地知潔高の車へと避難、そして救援要請を頼んだ事だろう。……だが、一級以上の術師は軒並み高専にはいない。『望み薄』の希望は考えるな。

 角を曲がり、闇を抜けると、拓けた場所にジョーカーは出た。

 見覚えがある。あり過ぎる。釘崎野薔薇に手を伸ばし、そして自身も巻き込まれたコンクリート壁のプール。肝心の悠仁と特級呪霊は見えなかったが、壁の一面が崩壊しているのが見えた。巨大な穴だ。おそらく悠仁が戦った時に出来たものだろう。臆せず乗り越える一人と一匹。そして──

 

「ワウッ」

「──見つけた。ありがとう、玉犬」

 

 そう言い撫でてやりつつ、目に写る少年の安否を確認するために、ジョーカーはその名を叫んだ。

 巨大な下水路の橋の上、そこには、一人の少年がポケットに手を突っ込んで立っていた。

 

「悠仁!」

 

 飛び降り、着地しながら少年・悠仁の様子を見るが──

 

「……ン? ……ッハハ、飛んで火に入るとは正にこの事か」

「……宿儺、か」

 

 ジョーカーは恵が帳を解除している事を信じ、予め立ち上げておいたSNSで恵にコールし、直ぐに電話を切った。──直後、泥のように溶けていく【玉犬・黒】。ワンコールして直ぐに切ったのは、ジョーカーなりの、簡易的な緊急信号だった。

 特級呪霊の姿は見当たらない。……否、宿儺の背後を見ると、低級の呪霊よりも格段に濃い紫苑色の焔が立っているのが分かる。おそらく()()()()()()()だ。呪霊は宿儺によって祓われたのだろう。

 

「……とにかく、特級呪霊を祓ってくれた事は確かだ。ありがとう」

「は? 礼……だと?」

 

 宿儺の生において初めて、呆気に取られた。

 

──く、はははははははは!! 小僧、俺に礼を言った人間は貴様が初めてだぞ! 呪術師が呪いに礼などと、これほど滑稽な事があるか!」

 

 腹を抱えて嗤う宿儺。戦闘以外で人間に笑わされたのは、これが初めての事だった。

 

「実に愉快だったぞ、小僧。呪術師など辞め、芸人にでもなったらどうだ」

「生憎、オレは呪術師である以前に怪盗だ。スリルが無いと怪盗は死んでしまうんでね。今の所、辞めるつもりはない」

「良く回る口だ。切り刻んでやれば、その口の勢いも止まるか?」

「さあ、どうかな。刻まれた事がないんで分からないな」

 

 軽口を叩き合いながら、しかしジョーカーは疑問に思った。

 

「……悠仁、どうした? 何故代わらない?」

「ン? ああ、あの小僧なら戻らんぞ。あの虫(特級呪霊)を葬るのに、何の縛りも無く代わった『ツケ』が来ている。俺と代わるのに少々手こずっているようだ。つまり今、この体の主導権は両面宿儺(この俺)にある」

「わざわざ悠仁が代わるのを待つ……訳、ないよな」

「良く分かっているではないか。……しかし、それも時間の問題だろうな」

 

 嫌な予感がする。宿儺が悠仁のパーカーと制服を剥ぎ捨てて──

 

「そこで、今俺に出来る事を考えた」

「何を──」

 

 静止を求めようとするが──言い終わらぬ内に、肉が抉れる不快音が聞こえた。

 発生源など語るまでもない。両面宿儺の──虎杖悠仁の心臓部分を、宿儺がその鋭腕を以って抉ったのだ。(おびただ)しい量の出血を前にして、ジョーカーは一瞬硬直し──宿儺がしている事の理解に数秒を要した。

 

「な……!」

「小僧を人質にする。俺は心臓(これ)が無くても生きていられるが、小僧はそうもいかん。俺と代わる事は死を意味する。更に──駄目押しだ」

 

 そう言って、持っていた両面宿儺の指を飲み込む。隠し持っていたのか、と蓮は直感した。両面宿儺の力は指三本分ほど取り戻されてしまったという事になる。全盛期の二十分の三がどれほどまでに強力なのか、ジョーカーには想像が付かなかった。

 

「さて……準備はこれくらいで良いか。ああ、もう怯えて良いぞ。

 ──殺す。特に理由は無い。」

 

 静寂が、二人を包んだ。

 だがその静寂は、長くは続かなかった。ジョーカーが口を開いたのだ。出来るだけ穏やかそうにして、腹の底が煮え滾る思いを必死に堪えて。

 

「……オレは、心のどこかで、お前に期待していたのかもしれない」

──────

「お前が悠仁を助けてくれるなら、それでも良いと思ってた。何をしようが、悠仁や、その周りの人の弊害にならないのなら……誰も悲しませないのなら、どうでも良かったんだ」

「……それで?」

「……甘かった。呪いなんて、結局どこまで行っても呪いなんだ。そんな事、最初から解ってた筈なんだけどな……」

 

 もう限界だった。怒りは収まるところを知らない。

 ジョーカーの技量では、心臓の再生は不可能。そもそも再生に見合うスキルを持つペルソナはいない。事前に加えていれば……否、たらればの話は止せ。既に自分は『詰んで』いる。全ての希望的観測を排除せよ。

 ──敵を見据えろ。アレはもう、虎杖悠仁ではない。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

──両面宿儺。貴様は、祓う(斃す)べき呪い()だ」

──ハッ。せいぜい俺を興じさせてみろ、怪盗とやら」

 

 

PERSONA5 in Jujutsu Kaisen

Let us start the game.

#9 The Mortal Cursed Enemy




マジでお待たせしすぎました…
挿絵はもうちょっと待ってください…
裏・ペルソナ全書の設定はこれで勘弁してください…百体以上ペルソナを考えるのは無理だよぉ…
挿絵お待たせして申し訳あああああああああああ!!!!

章ごとに情報が解放されていく形式の雨宮蓮の設定欲しい?

  • オ…オタカラァ…!
  • どうでもいい…
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