体の水分という水分を出し尽くしたんじゃないかって程泣きに泣いて、泣き疲れた私は少し遠慮しながら女の人から体を離した。
ふわっとした柔らかい匂いが鼻腔をくすぐって、それにもっと包まれていたいという気持ちが残った。その中には僅かな異臭が混じっていたように思えたが、ともかく私はこの見知らぬ女の人の領域から離れ体裁を整える事意外は頭になかった。
いそいそと、できるだけ波風を立たせないように私にしては神経質すぎるくらいに体を離して、怒られた子供が親の顔を覗くようにその人の顔を見た。
そこには、目尻に涙をためて、今にも泣き出しそうな顔の女の人があった。
それが意外で、私はバカみたいに口を開けて呆けていた。それに気づいたのか、女の人は口元を抑えて顔を背けててしまった。
「あ、あの……」
「……いや!何でもない、何でもないから」
彼女は取り繕うように目元を手の甲で拭い、何度もため息のような声を出した。
私はその姿をしばらく呆然として見ていた。さっきまで慈母のような抱擁力で私を抱きしめてくれたこの人がどうしてこんなことになっているのか、彼女は何にそんな責め立てられているのか。
それは私なんかには全然わからないことだったけど、一つだけ分かるのは彼女が深く傷ついていることだった。
そして、それを必死に押し殺しているということだ。
私は動いた。彼女の声が止まる。私は彼女の両手をきつく握っていた。
「あの、私の名前は神原日和と言います。この名前はお母さんがつけてくれたもので、天気のいい日に生まれたからってことでこの名前になりました」
正直頭では何も考えていなかったけれど、言葉はすらすらと口から出てきた。
「お母さんは……もういません。お父さんもいません。二人とも災害で死にました。ここに連れてこられるまでは高校に通っていました。でも留年してたから何となく周りとは違うんじゃないかって思っていて、何となく馴染めませんでした。ちょっと前まで付き合っている人がいたけど、いろいろあって別れました。この島に来てもひどいことしかなくて、もうどうしようかって思っています」
自分でもびっくりするくらい素直な気持ちで、私は真っ直ぐに彼女の目を見つめていた。
「もっとあなたに話を聞いて欲しいです。もっと私のことを知って欲しいです。
だから、あなたのことも話してください。あなたのことを知りたいです」
吸い込まれそうな、奥まで行ったら戻ってこれないんじゃないかってくらい深い彼女の瞳にうつる自分は、どんな姿なのだろう。きっと便意でも我慢してるみたいな、見苦しい顔をしているんだと思う。けれどそんなことが気にらないくらい私は真剣だった。
この細い手を絶対に離すまいと、汗が染み込もうと必死に掴んでいた。
風で森がざわめいたように思えた。
彼女はきょとんとした表情だったが、不意にくしゃみでも我慢するような可愛い小じわを作り、ぷふっと吹き出した。
「――――――え?」
それには私も落胆混じりの声を出してしまった。それを感じ取ったのか彼女は軽やかに笑って
「いや、ごめんね?……でも、なんかすごいね。告白みたいだね」
そう言ってまたクスクスと笑った。
私は血が頭のてっぺんまで駆け上がってくるのを感じた。いろんな意味で、恥ずかしすぎてどこかに逃げてしまいたい気持ちに駆られていた。
ひとしきり笑った女の人は言った。
「うん、日和ちゃんはいい子だね。そんなあなたと別れた元彼くんは、おばかさんだ」
「はは…………」
これには私も笑うしかなかった。せめてもの強がりとばかりに、私は少し大きな声で言った。
「そうです、クソヤローなんですよ。だから今度会ったらひどいことしてやるんです」
結構それは、私の中ではブラックボックスだったけど、言ってみたら案外気持ちよくて私は自然と微笑んでいた。
それを見た彼女も口元をほころばせている。バツの悪さはあるけど、私たちは少しの間笑いあっていた。
***
私たちは少し場所を替え、近くの潅木に腰を下ろして隣り合う形で座っていた。
よいっしょとこぼしてちょこんと座るこの人を見ると……いや、ほんとこの人森緑似合うなあと痛感する。亜麻色のふわふわの髪とか、小動物みたいな小顔とか、雰囲気の割に幼く見える容姿とか……本当はこの人、困っている私の前に現れた切り株の精なんじゃないかと割と本気で思う。
「えっと、まずは自己紹介した方がいいかな」
「あ、はい」
そう言われて私は少し恐縮して半身で彼女を見た。
そして彼女は私にとっては驚くべきことを言った。
「私の名前は野森きらら。この島に住んでいる21歳です」
何とも今時な名前だなあ、と苦笑しそうになっていたところで、私の表情が固まった。
この島に住んでる、とはどういう意味だろう。私と同じように連れてこられてここにいるのは住んでいるとは言わないだろうし、仮に私より早く連れてこられていたとしてもこんな地元を紹介するような言い方はしないだろう。
「あの、質問いいですか?」
「何?」
「丘に登った時、海の近くに民家みたいなものがいくつか見えたんですけど、あれって……?」
「そう。私はあそこの集落で育ったの」
「やっぱり!」
思った通りだった。彼女は地元民で、多分この聖杯戦争とは関係のない普通の人だ。
ずっと無人島だと思っていたが民家が見つかったあたりで考えていた事だった。仮に一緒に連れてこられたマスターなら、なんであちらはサーヴァントを連れていなかったのか、なんで私の後ろにずっといたバーサーカーに何も言わないのかが説明がつく。
でも、地元民ということはこの島のことに詳しいということで、とても頼もしい存在だ。私は食入いるように彼女に聞いた。
「じゃあ……案内とか頼めないですか?あと、いろいろこの島についても聞きたいです」
急にまくし立てて失礼かな、と思ったがはやる気持ちを抑えられなかった。するときららさんは手を振って
「日和ちゃん。案内するのはいいけど、でもひとつ言っておくことがあるんだけど」
私の言葉を遮るようにそう言った。見ると、彼女は何かをこらえるような辛そうな顔をしていた。
彼女はかすれた低い声で言った。
「あそこには行っても何もいいことはないと思う」
「え?どうして……」
「あそこにはもう人は残ってないと思うから」
私は聞けなかった。嫌な予感がした。何となくのほとんど推測だけど、大体の事情が判ってしまったからだ。
それは、昨日私は確かに見たからだ。あの山のように大きな体を引きずらせて、人に襲いかかる化物の存在を。
「まさか……デーモンに」
その時、きららさんは見たことのない目を私に向けてきた。
しまったと思い黙るがどうしようもない。私は伏し目がちに見てくるきららさんが話し出すまでそこで耐えていた。
そしてふっと息を吐くと、きららさんは言った。
「デーモン……って呼んでるんだ、アレのこと」
「はい…………」
私はなんとかそれだけ絞り出した。そしてあの痛い沈黙が再び訪れるのが怖くて、続けた。
「あの……事情は分からましたから。その……それ以上は大丈夫ですから」
「……ううん、言わせて」
「いや……でもきららさんは……」
「そういうことじゃないの。…………私も聞きたいことはあるけど、あなたとーーーー」
そして私の背後を見てそう言った。
「あなたの後ろにずっといる幽霊のことを」
私は、その瞬間この森の地面から葉の一枚にかけても止まったかと思った。
すべての感情を置いてきた陶然とした表情で、彼女は言った。
「先に話すね。この島のこと、昨日何が起こったのかを」