顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
「この前来た時は確かこの角曲がったんだよな」
「はいストーップ。おかしいよね、明らかにレース場と反対だよね」
呆れたような声と共に、人の流れに身を任せようとした男の手を掴む少女の姿。
良い天気だ。
府中本町、東京レース場。府中レース場とも呼ばれる大きな会場へと足を運んだ二人は、さっそく迷子の第一歩を踏み出そうとしていた。
「はぁ……やっぱり迎え行って正解だよ……薄々そんな気はしてたもんなー」
「おいおい、大通り歩いてる人たちみんなあっち行ってるじゃねえか」
「あれ別の駅に行く人たちだから。そのまま違うとこ行っちゃうから」
これさえなければ、とがっくり肩を落とす少女の名はナイスネイチャ。
ぱたぱたとそのふわふわした毛質の尾を揺らしながら、呆れたように見上げる先は隣の青年である。
「そうなのか。じゃあ目的地はどこだ? まーた降りる駅からして間違えたのか?」
「間違えてないって。そうかしまったこの人、迷子になりすぎてどこまで自分の順路が正しいのかもわかってないんだ……」
「あ? まあどっかまでは合ってんだろ」
「そしてこの危機感の無さ……!!」
こりゃダメだ、と溜め息を1つ。
「トレーナーさん、待ち合わせの約束があるんだからさあ……もう少し気を付けようよ……」
「こ、こんなに待ち合わせの時間に厳格なの日本だけだし」
「七時間遅刻はちょっとどこの国も許してはくれないんじゃないですかね」
「ぐぬぬ」
それに、と思う。
もしも自分のレースなどで大遅刻をかまされたりしたら溜まらないと。
けれど、それをそのまま口に出す勇気はない。
無いとは思うけれど。本当に無いとは思うけれど。このトレーナーなら、絶対にそんなことは言わないと分かってはいても、もしも。
自分のレースに遅刻してほしくないと言って、あっさり流されたり、軽く扱われたりしたら傷つくだろうから。
「――フランスに居た時はレースどうしてたのさ」
「向こうは基本的に車移動だったからな。てか、こっちでも担当ウマ娘が出場するレースなら普通にバスが出るし、そう迷うこたぁねえよ。あ、そうじゃなくても別に迷ったりしないんだけど」
「どうしてそんなウソが通ると思ったの???」
でも、そうかと納得した。
自分のレースの時はバス移動。それが聞けただけでも、少し安心する。
緊張に少しだけこわばっていた表情が緩むのを見て、神谷は僅かに眉を上げた。
「じゃあ、レースじゃない時は?」
「ん? ああ、あんまり電車使わなかったな。路線図とかよく分かんねえし」
「そーなんだ?」
なんとも、少しばかり物足りなさそうなナイスネイチャの視線。
神谷はその反応を見て、出すつもりのなかった台詞を漏らす。
「……じゃなくても中々、1人で行動することもなかったしな」
ぴこん、と彼女のクリスマスカラーの耳が立つ。
「それは、えっと。スタッフさんとか?」
敢えてここで担当ウマ娘かと聞かない辺りが彼女らしさであったりするのだが、神谷はさらりと言葉を返す。
「いや、チームの子たち。俺が迷うだのなんだのと」
「あはは、分かってるじゃんその子たちも。そりゃあトレーナーさんと一緒にどこか行くって話の時に、行方不明にでもなられたら楽しい休日どころじゃありませんからねー」
「んなこたぁねーよ。あいつらは俺が居なくなったらなったで、俺名義の領収書切って好き放題買い物しやがるさ」
「ふぅん……」
少し、何かを考えるように俯くナイスネイチャ。
と、そこで神谷は近くの小道に足を踏み入れる。
「ありえないっつーの! トレーナーさん、そんな道の先に競バ場があるわけないでしょ!?」
「東京によくねえことがあるとしたら、この道の細かさだな……」
「いやいやいや。……あー、フランスだとそんなこともなかったり?」
「少なくともシャンティイ――俺の居たトレセン学園の近くはな。そうじゃなかったらいくら俺でも七時間遅刻なんて、流石にそう、何度もやることはねえよ、うん」
「初犯じゃなさそうだぞこの言い方ぁ……」
半眼で隣を歩く青年を見上げて。
少しばかり口が開いたり閉じたりして、それから。
「あー、じゃあさトレーナーさん。アタシ、この辺りは地元だし……良かったら見ててあげよっか。ほらその……担当ウマ娘なわけですし!」
「良いのか? そりゃ迷子にならないとはいえ、迷惑じゃなきゃ詳しい奴が居るに越したことはないが。迷子にならないとはいえ」
「二度も言った……。ああいや全然迷惑ってことはないけど。お邪魔じゃなければ? トレーナーさんを迷子にすることはないんじゃないかなー」
「おいおい、俺は迷子にならねえから、それはただのデートだぜ?」
「でぅぅ……!? せ、専属トレーナーさんを迷子にしたくないという担当ウマ娘の気持ちってやつかなーあははー!」
「でぅぅって何?」
「うるさいなあ!!!」
怒りに感情が一度発散させられて。
ふと我に返ったところで、自分の言ったことに改めて羞恥がぶり返す彼女に。
神谷は笑って頷いた。
「んじゃ宜しく頼むわ。休日もお前駆り出すのは結構申し訳ねえと思って、あんま言い出すつもりなかったから」
「え、あ、うん……。お願い、します」
「それ言うの俺じゃね?」
「にゃああああ!!」
「仕方ねえな、お前が迷子にならねえよう俺も頑張るわ――へいへいキューティガール、後ろ向くのは無しだぜ?」
真っ赤な顔を見られたくないからか。やり場のない怒りを発散するためか。
彼に背を向けた彼女の真意は、そんな1つの理由で片づけられるほど単純なものではなかったけれど。
「トレーナーさん」
「ん?」
まだ熱の残る頬と、額に浮かんだ青筋と。
それから、怒りを抑える笑顔とともに、ナイスネイチャは親指で背後を指さした。
「レース場はこっち」
「そうか。行くつもりだった」
「嘘を吐くな!!」
「――嘘だろ」
思わず咥えていた棒キャンディーを落としそうになった沖野の視線の先。
きょとんと首を傾げたナイスネイチャはしかし、彼の次の台詞にひどく納得した。
「約束時間前に神谷が来た……?」
「あーですよねーそういう反応になりますよねー分かるわー」
しみじみ頷くナイスネイチャ。
横で不服そうなトレーナーが居るのをよそに、軽く彼女は頭を下げた。
「初めまして。ええと、神谷トレーナーから話は色々聞いてます。担当ウマ娘のナイスネイチャです」
「おう」
軽く手を上げ、気楽な挨拶。
黄色いワイシャツに黒のベストが似合う長身痩躯の男――沖野は、きさくに笑って頷いた。
それから、何やら悪いことでも思いついたような顔で続ける。
「俺は神谷の先輩トレーナーの沖野だ。こいつはちゃらんぽらんで説明不足なとこもあるが、努力家っぷりと夢にかける情熱はモノホンだ。どうか見捨てないでやってくれ」
「どっかで聞いたセリフだと思ったら俺がダイワスカーレットに言ったのまんまじゃねえか」
「あ、はは……」
頬を掻くナイスネイチャを、じっと見下ろす視線。
神谷もそれなりに長身だが、沖野はそれよりも少し高かった。
なんだろう、と首を傾げる彼女が呆然と見つめ返すことしばらく、沖野は小さく頷いて告げた。
「……そうだな。神谷と出会ってくれてありがとう」
「え゛」
急に何、と身構えて、助けを求めるように神谷を見れば。
「俺と出会ってくれてありがとう!」
「しまったこういう時助けてくれる人じゃない!」
コミカルなペアに、くつくつと笑った沖野は言う。
「俺がキミに出会ってたら、多分数秒でこいつを紹介してた。もしこいつがフランスから帰ってきてなかったら……正直、歯痒い気持ちでいっぱいだったかもしれない」
「それは、どういう」
その彼女の問いの答えは、背後から。
「そりゃ俺が一番育てられる素質だからだよ。言ったことなかったけ」
「あるよ!!!! ……あっ。いや、うん。あった。ありましたねそんなことも、あはは」
「そうか。覚えててくれてありがとな」
「……」
忘れるわけがない。忘れられるわけがない、と口に出すのも、あまりにも恥ずかしくて。
押し黙ってしまった彼女をよそに、沖野は続ける。
「神谷が育てられる素質、か。まあそういう言い方も出来るな」
「――沖野サン」
「何も文句を言うつもりはない。ただ、その様子だとお前からは絶対言ってねえと思ったからな。案の定そうみたいだし。これだけは言っておかねえと」
「……」
なんだか意味ありげな会話だった。
ナイスネイチャも聞いたことがないほどの、先の神谷の釘をさすような語気の強さは気になって――けれど振り返って見上げた神谷はいつも通りのちゃらんぽらんだ。否、少しばかり、困ったような目の色をしていた。珍しく。
そして沖野はといえば。
こちらの瞳に浮かぶのは、後悔だろうか。
「俺もこいつも、まあちょっと色々ウマ娘を育てる時にトラブルがあってな」
「うちの担当にあんまり不安植え付けねえでくれるかなァ……」
「でも必要なことだ。――ナイスネイチャ」
「あ、えと、はい」
少し、怖くもあった。
何を言われるのかと、身構えもした。
けれど、神谷の警戒とは裏腹に沖野の声色はずいぶんと優しいものだった。
「お前のトレーナーは、正直かなり珍しい奴だ。自分がどれだけ特別な奴なのか、こいつは絶対言わないだろうけど」
「え、っと」
「俺は一時期トレーナー業から離れてたから、日本のトレーナーすべてを知っているというわけではないが、それでも1つだけ言わせてほしい」
ナイスネイチャには見えないところで、音もなく神谷はため息を吐いた。
がりがりと掻く後頭部、目に見えた不機嫌さは決して彼女の前では出さない代物。
それはある種の沖野への信頼との裏表ではあるのだが。
そんな彼の動向に、少しだけ沖野は表情を緩めて。
「――きっと、こいつ以上にお前を引き出してくれる奴は居ない。だから……たとえばもしこの先、こいつの指導で納得いかなかったり辞めたいと思うことがあったら、縁を切ったりする前に俺に連絡してほしい。その時は必ず、俺がこいつと話を付けるから」
その瞳は真摯なものだった。
そして、なんというか。
少しばかりの納得が、胸の奥できれいにすとんと落ちた。
今まで自分をスカウトするトレーナーが居なかったこと。それはやはり彼らに見る目がなかったわけではない。単純に、自分自身に魅力がなかっただけなのだ。
当たり前のことを、当たり前として改めて再確認して、ナイスネイチャは頷いた。
「はい。――でもきっと、自分から辞めたいって思うことはありませんよ」
「……」
ようやく見えた一縷の希望を、ぽいと捨ててしまえるほど。
恵まれた人生を歩んできたわけではない故に。
「そうか。……いや、うん。それなら、良いんだ」
「はー……」
大きなため息は神谷から。
「そんなに悪いことじゃなくない? アタシはその……良かったよ、トレーナーさんがアタシなんかの専属になってくれてさ」
「バカ言え。お前ほどの素質見つけて担当にならねえ理由がねえよ」
「はいはい、そうなれるよう努力しまーす」
神谷は、さっさとこの会話を切り上げたいのか、沖野の方へ視線を投げて告げた。
「それで、沖野サンの言う見せたいものってなんだよ」
「ああ、それか」
東京レース場の全体を見下ろすことの出来るギャラリー。
その欄干に両腕を引っかけるようにして、眺める先には用意されたパドック。
「見ててくれ。この次のレースの大外18番――サイレンススズカだ」