顔真っ赤なネイチャさんに「お、お馴染み1着ぅ……」と言わせるまで 作:東京競馬場
マイル戦には出ない。
それよりも、中長距離で更なる高みへ。
「アタシ……テイオーに勝ちたい」
彼女の澄んだ瞳に、神谷は小さく頷いた。
マイルへの適性を
だが彼女はそれを選ばず、中距離長距離を
今までの彼女の気持ちでは、難しかった領域でも。
目標を明確に定め、その為に走るのだと決めた今なら、出来ないことではない。
選んだのは出場レースではなく、走る目的。
ならば彼女は迷いなくまっすぐに努力を積み重ねてくれるはずだ。
出来ることのためにではなく、したいことのために。
顔には出さずとも、神谷は強い手応えを感じていた。
なにせ、あの大敗を喫した相手にもう一度勝負を挑む気概を彼女の方から宣言したのだ。
それはきっとこれまで自分が自分で感じ取ってきた成長への達成感と、未来に見えた希望が故のこと。
トレーナーへの信頼と、努力への決意。
これで勝てなければ嘘だろう。
「じゃ、もうマイル戦の話はしないからな」
「うん」
返事は短く、それでいて力強く。
きゅっと結んだ口元は、来るかもしれない後悔への恐怖を耐えるため。
メイクデビュー以降はもう、選択を巻き戻すことは出来ない。
その理由も明白で、変更の利かない大きな岐路。
弱い自分はいつか、「あの時マイル戦を選んでおけば」と思うかもしれない。
そうした恐怖は、たった1つこの日の覚悟で拭えるようなものではない。
記録こそ伸びて、今までよりずっとずっと充実した毎日を送れている自覚はあるけれど。かといって、メイクデビューまでに誰かと併走をした記憶もなければ、誰かのレースの記録と比べたこともない。
不安要素をあげろと言われれば、幾らでも指を折ることが出来る。
それでも。
こうして決断を委ねられて、それを拒まず自分で選ぶことが出来たのは何故だろうか。後に来る悔いを怖がっても、今を必死に頑張ると決められたのは何故だろうか。
――あんな、遠い遠い主人公に。身の程知らずにももう一度、挑もうと思えたのは何故だろうか。
それは、とおずおずと顔を上げる。
まっすぐに、ほんのわずかに揺れる瞳で見上げる。
すると、手を伸ばせば触れられる距離に居る自分のためだけのトレーナーは、あっけらかんと笑って、なんでもないことのように言うのだ。
「分かった、勝たせてやる」
努力をするのは、自分の仕事。勝たせるのは、トレーナーの仕事。
それをいつかと同じく堂々と告げる彼に、一瞬呆けた彼女は。
「あ、……うん。……がんばる」
そう、後ろ手を組んで、顔を逸らして頷いた。
メイクデビューまで、あと少し。
「たとえ腕を奪われようと、己が信念の為ならば不退転……暗殺術そのものはあまり好きにはなれませんでしたが、良いお話だったと思います。宜しければ」
「お、ありがとな! これめっちゃムズイって話だったけど、すげえな!」
「ふふ。いえ、大したことでは。少し……エルには悪いことをしてしまいましたが」
トレセン学園内部、神谷の与えられたトレーナー室。
おすすめだというゲームのパッケージを神谷に手渡しているのは、たまに預かるウマ娘であるグラスワンダーだった。
楚々とした仕草で、おかしそうに口元に手を当てながら。
彼女の談では、夜な夜なそのゲームをやっては同室のエルコンドルパサーをおびえさせてしまっていたとか何とか。
そんなに怖いゲームなのかな? と首を傾げる神谷だが、実際のところはコントローラを握るグラスワンダーが怖いというベクトルの話である。
「忍びか、武士か。どちらかと言えば、私はやはり
「へー……噂にゃ聞いてたから、がっつりやらせて貰うわ」
「はいっ」
嬉しそうな、弾むような返事。
ぱしんと手を合わせるその仕草もまた可愛らしく、殺伐としたゲームの貸し借りにはとても思えない1シーン。
「しかしまさか、グラスワンダーがそんなにゲームを気に入るとはなぁ」
「あまり、触れたことのない文化ではありましたが……これも今を形作る日本文化の1つ。きっかけをくれたトレーナーさんには、感謝しているんですよ?」
「そかそか。そいつぁ良かった」
得心がいったというように頷く神谷。
文化というものは、なんであれ入り方が最も難しい。
無知に踏み込めば、やれ礼儀知らずであったりマナー違反であったりと総スカンを食らうこともままある。逆に自分の方が全く嬉しくない文化に無理やり迎合させられたり、最初に触れた文化が最も評判の悪い代物であったり、地雷要素は様々だ。
そんな中で、勝手を知る人間から指南を受けることの出来る恩恵は計り知れない。
これもまた、その一例というだけの話であった。
「では今日はこれにて。……ああ、そうでした」
「ん?」
帰り際、思い出したように振り向く彼女は言う。
「来週は宜しくお願いしますね」
「ああ、そうだな。んじゃ、それまでにこれ終わらせておくわ」
「ふふっ。きっと、歓談も尽きない良い日になりそうですっ」
来週。東条が別のウマ娘の遠征に帯同する関係で、神谷がグラスワンダーを預かることになっている日があった。
ゲームの話題を共有できる相手というのも、そうはいないのだろう。嬉しそうに微笑んで、彼女は最後に一礼して去っていく。
「それでは」
その一礼は、神谷と。
それから、奥で座学に勤しんでいた神谷の担当――ナイスネイチャにも向けられて。
彼女はひらひらとグラスワンダーの挨拶に応じて、それからすぐに手元の資料へと目を戻していた。
一人の来客が去って、しばらく。
外の掛け声や、時折聞こえる鳥の囀り。気持ちのいい午前の陽光の中、ペンを走らせていたナイスネイチャがぽつりと呟いた。
「トレーナーさんってさ」
「ん?」
「……結局、ゲームが趣味なの?」
結局という言葉が何に掛かっているのか、神谷にはよく理解出来なかったが。
ソファで神谷お手製の冊子に目を通していたナイスネイチャへと視線を向ければ、ぱっちりとその目が合った。
「まー、そうかな? 数少ねぇ趣味の1つではあるな」
「ふーん……フランスにも持ってってたの?」
「いや」
過去を思い返すように天井を見上げる神谷。
「むしろフランスで担当したウマ娘の1人が、日本のゲームが好きって奴でな。最初は俺がゲーム詳しくないっつってがっつり凹んでて、話合わせるために始めたのがきっかけだな」
「……」
「そしたら意外と面白くて、息抜きにもちょうどいいってんで……って感じか」
「ふぅん」
興味があるのかないのか。
曖昧な相槌を返す彼女に、神谷は少し考えて。
「他には、そうだな」
「他にも理由あるの?」
「いや、理由じゃなくて他の趣味」
「!」
ぴん、と彼女の耳が立った。
「クルマとか、あとはヒーローものとか、プロレスとかが好きなのは聞いたけど。他にもあるの?」
「や、あの辺は趣味って言うほど深いもんじゃない。クルマに関しちゃ完全に若気の至りというかほぼ黒歴史みてえなもんだしな……」
かつてウマ娘にスピードで勝つことはできるのかと、足回りをゴリゴリに改造したRX7で走り回っていた頃を思い出して神谷は首を振った。
「だからまともに趣味って言えるのは実はそう多くねえんだ」
そう言って、指折り"趣味"と言えるものを上げていく神谷。
コンシューマゲーム、観劇、靴。言葉を並べる度、徐々にへたっていく彼女の耳。
そんな中で彼女の意図を何となく察して、神谷は最後に指を立てた。
「あとは、たまの休日に飯作るのが、俺の割と数少ない癒しだったりする」
「!」
ぴこん、と何かが頭の上に飛び出たような気がした。
「へー、トレーナーさんって料理するんだ」
「毎日出来るようなもんじゃねえよ。たまにだから出来る、凝ったヤツな」
「あはは。アタシの周りにもいるわー。男の人ってそういうの多いのかなぁ」
彼女の脳裏に浮かぶのは、『よし、今日は俺が飯作ってやる!』と思い立ったように急に料理に励む商店街のおっちゃんたち。
たまに作るからこそだろうか、一度使ったらしばらく使わないであろう香辛料やらなんやらを買ってきて、お店に出てきそうな一品を仕上げるのだ。
そうして半年くらいまた料理をしない。
心当たりがありすぎる生態に、くすっと彼女は笑う。
「問題は、1人暮らしだと1回料理するだけで食材を使い切ることがほぼ出来ないって話でな……冷蔵庫で腐った野菜とか見たくねえしなぁ……」
「たとえば何作るの? ちょっとネイチャさん興味ありますよ?」
「例か。まあこの時期だと夏野菜が良い感じだから、ラタトゥイユとか。鶏肉が好きだからコルドンブルーとか、コックオーヴァンとか」
「うわ……」
「だから要は、フランスの家庭料理系だな」
「あ、なるほど。そういう」
ラタトゥイユはともかく、あとの二つは聞き馴染みのない言葉。
気取った感じがどうにも肌に合わず少し身構え気味になる彼女だが、フランスの家庭料理と聞いて納得した。
住んでいた場所の料理というのなら、単なるかっこつけというわけでもないだろう。
「フランス料理って結構手間暇かけるから、作るのはすげえ楽しいんだけど時間を滅茶苦茶持ってくんだよ。だからたまにしか作らんし、レシピのレパートリーが多いわけでもねえから残った食材でどうこうってのもな」
「ほ、ほーう? じゃああれですかい? ひょっとして日本に戻ってきてからは」
「ん? ああ。全然。せっかくキッチン広い部屋借りたのに、ほぼ使ってやれてねえんだこれが」
「それなら、さ」
ふぁさ、ふぁさ、と揺れた尻尾が革張りのソファを擦る。
先ほどまでの気のない感じはどこへやら、ソファから少しテーブルに上体を乗り出したナイスネイチャは、きゅっと表情を強張らせながら頬をほんのり朱に染めて。
言葉を選ぶように、少しばかり躊躇いながら。
「あ、アタシちょっとその聞き慣れない料理食べてみたいなー、なんて!」
「ん?」
「ほ、ほら二人ならきっと消費量も増えますし!? あとはその……あ、アレですよ! アタシこう見えましてもそれなりにキッチンは慣れていると言いますか! 庶民の出ゆえ冷蔵庫の中身を処理するのはなんといっても得意中の得意と――」
と、そこまで早口に宣言した彼女は、目をしばたたかせる神谷を前にふっと我に返る。
「……ぁー、や、やっぱりプライベートまでアタシに踏み込まれたらアレですよね」
「マジか、俺は恵まれたなあ」
「へ?」
緩い笑みは、まるでナイスネイチャを慮るような雰囲気で。
けれど、嬉しそうな感情を隠そうともせず。
「普通、トレーナーの趣味にわざわざ付き合ってくれようなんてヤツ居ねぇからな。ちょっと驚いたのは本当だが……キッチンも泣かせずに済むよ」
「え? そ、そう?」
「ああ。それに、余ったものもうまく使ってくれるんだろ? 俺もナイスネイチャの料理楽しみだわ」
「あ、あー! き、期待はあんましないでねー!?」
「いやいや、得意中の得意って」
「冷蔵庫の中を処理するのが、ね! 腕そのものはごく普通の女の子につき!」
「やー、楽しみだわー!」
「ねえ、ちょ、ちょっと!!」
あーもう、と頬を掻いて。
ふっきれたように彼女は叫ぶ。
「アタシのはほんと、ただ毎日作るくらい苦じゃないってだけの話だから! 質を数で誤魔化してようやくトレーナーさんとトントンだから!」
「ん? あ、ああ。そうか……そうか?」
「そうなの!」
あれ、それって……と一瞬考えたトレーナーさんは。
まあでも、彼女の思いやりに水を差すのもよくなかろうと、有難くその好意を受け取ることにした。